小三の時、母が、あんたのおじいちゃんは、定職についたことがなかったのよ、と私に言った。
ほっほう、そうなりたいなとおもった。
それは、実現した。
小五のときに、叔母に、訊かれた。
あんた、将来、何になりたいの?
ニヒリズムに陥りかけていたワチキは、ごく普通のサラリーマンになりたい、と応えた。
母と叔母とにたいする応え方に、二年間の時間差があるものの、矛盾(そうかな?)が存在している。
前者が、優勢をおさめた理由は何か。
これは、個人的な問題であって、つまり、一生定職を持たずに生きてきた人間たちにだけ、通用する事情なふうだから、一般化できるきっかけはないだろう。なので、表面的な矛盾に潜む一貫性を個人的に推定してみる。
一貫性に関して先に述べる。
どちらの対応も、逃亡願望の現れである。
何からの逃亡であり、何への逃亡であったのだろうか。生から死へ?
明朗快活元気溌剌のガキ大将に何があったのだろうか。
重症肺疾患で長い闘病生活を送っていた父が近々死ぬだろうと秘密裏に確信していたからか?
矛盾に関して。
一方では、大八車に乗せて運べるような1丈四方の庵に住んで仏画など描きながら暮らす(祖父は絵描きだった)生活を思い描き、もう一方では、働かせてくれることをありがたいと思い、ひたすら機械的に真面目にそつなく受動的に過ごす人生を思い描いていただろう。
両者の、矛盾というよりかは差は、この世で最も価値がある事柄である時間についての考え方にある。
時間をひとりで占有することでその価値を味わえるという考え方と、時間を容赦なく売り渡してこそその価値を味わえるという考え方だ。
後者のほうが、退廃の度合いは大きい。
前者を選んだのは、後者だと、歴史が存在せず、あっという間に死が到来すると予感したからだ。
で、前者を選んでどうだったのか。
あっという間に死が到来するのは、どちらのケースでも同じではないかという感慨をもつ。