親友の死に不審を抱いた主人公は、謎の桃源郷に乗り込んだ。共同体の破壊と創造、連帯と孤立、悪と愛をテーマに、作者はあなたに問いかける
広場の縁を左側の崖に沿って進んだ。崖には、指がやっと入るくらいの、幅の狭い溝が幾本も縦皺のように刻まれ、雨が上がってからまだ間もないので、底面に宿った水玉が時々溝に沿ってわずかの距離だけずり落ちる。そのタイミングを目で追いながら歩いた。無数の水玉は広大なマトリックスとなって、小刻みに滑落と停止を繰返し、明滅する星と流星群に呼応するように、時々光った。自然が密かに実行する謎の計算過程を見せられ、挑発されている気がする。落ち着かない。
理解する暇を与えないという悪意さえ感じたので、戯れのふりをして立ち止まり、おい、ちょっと、待てよ、水玉の一つを人差し指で押さえつけようとした。案の定取り逃がし、指がめり込んでしまった。抜いてみると、爪と皮膚の隙間に、赤土が挟まっていた。チャーリーを埋めるために穴を掘った時のことを思い出した。先端には泥がつまり、付け根からは血がにじみ出ている爪が見えた。僕はそれを、いや、現実の指先をしゃぶってからつばを吐いた。
水玉達は崖と広場とがなす交線まで降りてきて、こちらからは見えない切れ込みでも在るのか、姿を消す。何本もの灰褐色のパイプが、面から面へ、交線をまたいでつながっていた。長さも太さも人さし指ぐらいだ。その一本を蹴ってみると、たくさんの地蜘蛛の子が散乱した。市民や奴隷の残した、石灰が剥がれて雨水が溜まっている足跡を、迂回して逃げていく。針穴のような足跡がついたはずだ。僕は、河の上流を目指そうと決めた直後、湿地帯を迂回して、仲間たちの足跡を追けたものだった。その後も、仲間たちが、支流に沿って離れて行ったかどうか、河そのものから逸れたかどうかを見きわめるために、足跡を手がかりにした。追跡の手段を確実に手にしているという安堵感が今なつかしくよみがえる。
広場の足跡は今後ますます多くなるだろう。石灰が、たくさんの足によって踏みつけられ、足の裏についてどこかに運ばれ、風にも運ばれ、雨にも流され、残りもその下の赤土や土砂と混じり、広場が白くなくなったころに、また戦争が始まるのだろう。
急に胸騒ぎが始まった。近頃時々襲われる。これが前触れであることを僕は既に知っている。思い出ではなく、思い出に似たものが、投網となって頭上からかぶさってくる、その寸前の、或る気配だ。一瞬、脳の中で舞い上がるような気がした。現実から掻っ攫われて宙吊りになった。
荒らされたチャーリーの墓が目に浮かんだ。こんなことがないようにと突き刺しておいた火山弾があたりに散乱し、崩れかけた黒い穴があるばかりだ。モーゼがとび跳ねながら檄を飛ばしている。乗っている蛇の頭蓋骨は、音を立てて歯噛みする。本日、天気晴朗なれども風強し。楽園の興廃、この一戦に在り。各員一層奮励努力せよ! 石灰の粉が煙る。移動する軍隊。いのしし陣形。ジャングルに潜む赤目に向かって次々に石が投げられる。木の幹に当たる音が最も頻繁に聞こえるが、百回に一回は命中する。音がまるで違う。ちぇっ、いよいよだな。前に出ろ、前に! 押すなってば! 酒、効き過ぎて動けねえや。眠いぞ。前、前、突撃! 臓物を獲りあう子ども達。執事然とした禿鷹が水飲み鳥のように背を伸ばしたまま、失礼をばつかまつります、前傾して死肉をついばむ、おいしゅうございました。水飲み鳥の原理をアインシュタインは見抜けなかった。赤ん坊が這ってくる。もうすぐ僕は見つかる。チャーリー、大奮戦。坊っちゃん、逃げてください。炎を引き摺りながらのたうつ恐竜が、呪いの大音声を上げる。誰だ、誰だ、誰だ、俺をこんな目に会わせやがったやつは!
断片的なイメージや音響が、脳内の沼の表面に、あぶくとなって湧き上がる。実際に起きたことをなぞってなどいない。夢による覚醒の歪曲と同様に、早くも何者かによる記憶の歪曲が始まっている。それは、次の繰返しを滑らかに成り立たせるための微調整である疑いがある。良い夢は一度しか見ないが、悪夢は繰り返す。むしろ、繰り返されるからこそ悪夢なのだ。とすれば、この脳内現象は悪夢に似ている。繰り返しを現実へはみ出させず、夢の中だけにとどめておくためにできることが何かあるだろうか。
お帰り、ホモあんちゃん。呼びかけられたことを、洞窟の玄関口を通り過ぎてしばらく経ってから意識した。左右に坐っているブラザーの、どちらの発言だったのか、もうわからない。今さら振り返りはしない。僕らが、あれ、をしたのを、ハットリが木陰に隠れて見ていて、早速告げ口をしたのだ、という冗談が頭をかすめた。
呼びかけを意識したのは、悪夢を断ち切る目覚まし時計の役割を、周囲の臭いの急変が果たしたからだ。広場に漂う濡れた石灰と鳥辺野から吹き寄せる薄煙の臭いは、側溝で奴隷達が掻いては送る廃棄物の腐敗臭に取って代わられた。腐敗臭はそよ風に乗って帝国全体を循環している。しかし、五感の内で嗅覚は最も疲労しやすい。僕もたちまち腐敗に慣れた。
羅城門を抜けて朱雀大路に入った。横長の楕円形の下部四分の一を切り取ると大路の断面となる。ちょうど一匹の大蛇を輪切りにした形だ。実際には、複数の蛇がもつれあいながら先を争ったりすれ違ったりしていたことだろう。漂う胞子の霞に紛れてはるか向こうに開いている朱雀門から、青みがかった明かりの祠である大内裏を窺うことができる。ブラザー達の後姿もすでに遠くにかすんでいる。
直交する横道から、粘菌や菌類の放つ青や黄色の蛍光が放射されている。一方の横道の開口部あたりを頂点とする光円錐は、大路を隔てて向かい合う横道の開口部を覆い、その開口部から出た光円錐は、向かい合う元の横道の開口部を覆う。互いが、相手を同型写像した像に、その真部分として含まれているかのようだ。光の束は、ほぼ等間隔に並び、梯子か遺伝子のように左右の壁面をつないでいる。明るんだ壁の辺りは、蛇の脂からなるコウティングを透かして、ぼんやりと朱がにじみ、特に横道の開口部は、生き物の管の切り口さながら、縁を赤く染めている。
先ほどの女が、逃げる子どもの先周りをし、ここでも大声を上げ、何べん言わせんの、宿題しなさい! 巧みに首根っこと肩を捉え、 引っ立てて、七条あたりを右に折れた。他にも子供はいたと思う。先に帰ったのだろう。
奴隷達の掛け声が聞こえてくる。東側の側溝では女が渡った竹橋のすぐ向こうで、西側の側溝では四条あたりで、土砂運搬作業が行われていた。四列縦隊を保ったまま作業場に向かう一団も、そのあたりを東から西に横切った。あの、以前から気になっているびっこの奴隷が混じっていた。今度見かけたら話しかけてみよう。びっこどうし、お友だちになりましょう、は、まずいか。
三条から北辺までの右京地区は、食料を貯蔵する倉庫街であり、酒を溜めた池が散在する無料飲み屋街であり、ブラザーたちが居住するハーレムでもある。酔っ払い男達が大路のそこここをゾンビのようによろめき歩いている。酒場を目指し、あるいは、そこから帰ってくるのだ。帝国の女は、ハレの日にしか飲まない。姿勢がよく、威勢もよく、足早に移動する。乾燥食料を調達するために倉庫街に赴く。池のほとりにたむろする亭主を見つけて、罵声を浴びせることもあるが、本気で、ではない。
古文の授業で習った限りでは、盛時の都には、たくさんの物売りがいた。商う品数も豊富だった。野菜、花、薬、飴、暦、細工物、鋳物、生魚、干魚、塩、醤、酢、酒等々。尤も、商業倫理が確立していたかどうかは疑問であり、たとえば、鮨鮎を売っている酔っ払い女が、ゲロをその上に吐き散らし、あわてて手でこねまぜてごまかしたという一節を憶えている。
帝国に物売りはいない、商売をする意味がないからだ。経済が存在しないからだ。商業活動がないし、市民は日常さほど頻繁には往来しないし、動物はうろつかないし、ましてや乗り物を牽くこともない。帝国内に常住する大型動物は、モーゼが行幸する際にうち跨って、殴る蹴るして操縦する両生類くらいだ。……ニンテンドーの操作をモーゼに学習させる際に、両生類を実験動物として利用するのが効果的であると今気づいた。そういうことを実行すると僕がどうなるかは、とうにわかっているが。とにかく、朱雀大路は帝国の住民にとっては大規模すぎる。たまに催されるイヴェント用と見なすのが妥当だろう。思い出す頻度は、たまに、どころではないイヴェント。
酔っ払いがわざとぶつかってくる。目が合ってしまって、タダヨシだなあ、と言われた。額に皺が立て込んだ、厳しい表情だ。息が臭い。からまれそうだ。こんにちわ。言ってからすぐに顔を背けて離れる。女たちが互いにつつきあいながら大げさに身を引く。ホモの魔……、とささやく声が聞こえた。モーゼのペットよ、とも言いたいんだろう、奥さん?
大路をまっすぐに歩む。僕の影が、何通りも左右の壁に映る。ある影は駆け足で僕を追い越し、別の影はムーンウォークで後退して僕に追い越される。三条を右に折れずに、大内裏を目指した。朱雀門の門衛に、目礼して中に入った。青みがかった光に包まれて、宴の池は緩い傾斜のすり鉢の底に沈んでいた。空っぽの円形劇場の舞台のようだった。僕を見つめているのは、門衛二名と、壁際に立っているガードマン八名だ。白っ子らが壁面に穿たれた官舎から、姿が見えない両生類もまた壁の巣穴から、僕を窺っているかもしれない。どうであれ、それらを無視して、そっと水に浸かる。川や水飲み場をしのぐ冷たさだ。仰向けになってドルフィンキックで進む。浮島の一部である蔦に頭が当たったので、反転してそれに両手でつかまった。
僕の身体の真下には底がない。水面が目のすぐ下までくるように顔をやや伏せると、右の頬と下の歯の間に挟んだ水晶を人差し指と中指でつまみ出す。手を下ろし、立ち泳ぎで体をねじりながら一回転する。見えている者で、動くやつはいない。見えなかった者が出てくることもない。根にも段差にも引っ掛からないように、浮島から距離をとってから、水晶を放つ。水晶のもたらす火、火のもたらす一切を、放下してしまった。すでに導入された火の始末も早急につけなくてはならない。これからも、誰か、あるいは何かが、火を導入するきっかけを作るかもしれないが、僕はそれを阻止する立場をとり続けると決めたのだった。
旗色を鮮明にしてしまったとあらためて意識すると僕は猛然と興奮しはじめた。この立場に適合しない残滓をかなぐり捨てること。危うく間違いを犯しそうになった自らに外科手術を施して信頼できない部分を剔抉すること。それらはマゾヒズムをいたく刺激する。だが、勿論被虐嗜好を満足させるために行動しているのではない。今までの枠組みの中で生じていた矛盾を見つけ出し、淘汰し、新たな枠組みの中で無矛盾な世界を作ることが、僕のモラルであると思い知ったから、それに則って行動するのだ。むしろ、行動がモラルの在り処を指し示したと言うべきか。実際には、行動と言うもおこがましいような、行動の計画を立ててそれを実行しかけたところで取り消しただけのことだった。外的状況には何の変化ももたらさなかった。しかし、僕にとっては取り消しもまた行動だった。しかも重大な意味を持つ行動だった。かつては、自分を形成した首尾一貫性のうちに安住し、それを否定することはおのれの人格を否定することにつながるとして生理的にまで忌み嫌い、否定の後の空白に直面することを恐怖していた。ところが今や状況は拡大し、深化した。僕に植え付けられていた趨勢をたどると、市民の幸福と真っ向から対立することに、危機一髪のところで気がついた。これを契機として、僕の意志は未来へ向かって奮い立ち、忌避や恐怖を凌駕した。
偽りの無矛盾に結着をつけ、過去の自分を清算し、たとえ暫定的にであれ、一貫した論理と無矛盾を獲得せよ。獲得したと見えたものが破綻したら、再びわが身も含めて清算し、新たな論理の格闘に身を投じよ。永遠にそれを繰り返せ。
ああ、Dangerous99proofを喰らって、自らの自らによる自らのための解放を祝いたくなるではないか!
ところが、この高揚に冷水をかける大きな懸念に、僕はとらえられた。帝国市民の誇る、モラルを無視した無矛盾性、「無矛盾だから存在する」、「論理的なものは現実的である」、に、似てきていないか? 僕の、無矛盾性をモラルとすることと、市民の、モラルを破棄して無矛盾的に生きることと、どこが異なるのか? 違いはただ一点のみで、それは…… 誰かがささやく。似ていてどこが悪いんだ。お前と彼らとの連帯の機会が到来したというのに。
どうも足下が心配になってきた。顎を上げて大きく息を吸い込むと潜った。
……追いついた。額のすぐ前を行く小惑星のようなそれを見つめながらしばらく後について行った。キックを止めた。それはひとかけらの水晶に過ぎないが、社会を次の段階へ誘う導き手だった。近代を内に秘め、希望を残さないパンドラの匣だった。さらば友よ、と言いそうになった。苦笑が泡に包まれ、腹を撫でながら昇っていった。鼻に少し水が入った。水晶は、輝かず、ゆっくりと回転しながら、遠のいていった。
僕は、池から上がり、何度かジャンプして出来る限り水を切ると、ヘレンの部屋に向った。
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