寒い国からやってきた冷酷非情のスナイパー、ジャッカル。ターゲットは日本国首相コイズミか? 迎え撃つのは警視庁捜査一課の袋田警部とその相棒である怪女ライフルウーマン。ついに明らかになる世紀の大スキャンダル。ラストシーンは涙、涙、また涙。
某編集者が、これを出したらあなたも私も命がないと語った、禁断の作品。(長編)
二〇〇五年、七月七日、現地時間午後八時、モスクワ
アントン・アントーヌヴィッチ・ズヴェルコフ外務省極東局第二書記官の指は、震えっぱなしだ。何度もキーを打ち間違えた。間違えを直そうとしてさらに打ち間違えた。額には汗が噴き出ている。その汗がズボンの太ももに滴れる。手の甲でぬぐいたいのだが、そんな暇はなかった。心はあせるが指がうまく動かない。いや、興奮のあまり動きすぎるのだ。早く知らせねばならなかった。重大情報だった。一分でも早く知らせればそれだけ価値が高くなる。それだけ高く売れるのだ。
こんな時でもタバコは吸ってしまう。トイレに行くのはぎりぎりまで我慢するがタバコはそうはいかなかった。震える手に日本製の百円ショップライターを握って安タバコに火をつける。汗がタバコの巻紙に沁みこむ。くわえたままキーを打ち、唇近くに熱さを感じると、足元の水を張ったバケツに投げ込む。
室内にこもった煙を外に出すために、もしズヴェルコフが部屋の小窓を開けるだけの余裕があれば、ゴーリキー公園のゲイトや大観覧車やドンスコイ寺院の尖塔が夕焼けに染まって見えるはずだ。
赤の広場から南南西に五キロほど行くと、モスクワでは最も古く、最も有名なゴーリキー公園がある。100ヘクタールの敷地が、細長く、モスクワ川に沿って広がっている。夏は白夜のせいで夜十二時まで開放されている。様々の遊戯施設が所狭しと設置してあり、水鳥とボートが群れる湖もある。それらを遊歩道が束ねるように囲んでいる。この幅広い遊歩道は、冬には湖面とともにスケートリンクになる。夏も冬もモスクワ市民にとっての憩いの場だ。
公園に隣接してドンスコイ寺院が建っている。革命以降、特にスターリン時代に、社会主義イデオロギーと再開発の名の下に取り壊された寺院は多い。この寺院は、さすがに由緒あるせいか、数少ない生き延びた例のひとつだった。背後に広がる墓地は、公園と対照的に、静けさを保っている。墓の前では独り言を言う人やいつまでも頭を下げて祈っている人が見かけられる。
この墓地には幾人かの日本人の墓がある。宮川船夫の墓もある。初代から五代までの駐ソ大使の通訳を勤めた人物だった。千九百五十年に死亡してドンスコイ寺院の共同墓地に葬られていたが、友人たちが改めて墓を建てた。
ズヴェルコフは、外務省に入省してすぐの研修で、彼のことを教えられた。ロシア人よりもロシア通だったという言い伝えさえある。若い頃のズヴェルコフは、自分も日本に行って日本人よりも日本通になりたいと思ったものだった。しかし、理想は急速に失われていった。日本には何度も行ったが、つらく悲しい経験ばかりだった。日本人の女性は、太って毛むくじゃらの、奇妙奇天烈な日本語をしゃべる大男を、悲鳴や嘲笑を伴って避けた。避けるのは女性ばかりではなかった。彼は屈辱を味わった。プライドはとっくの昔に捨てた。ガリ勉のおかげで今の地位を得たが、ユーモアもエスプリもない無骨者なので疎まれた。とても宮川のようにはなれなかった。当然通訳の声もかからなかった。ところが日本の外務省から声がかかってきた。ズヴェルコフはある事情からやむをえずその申し出を呑んだ。彼は今日本の外務省の海外特別協力者、すなわちスパイである。
公園に憩う人たちのざわめきや歓声が、部屋の背後を走る二階建環状高速道の車と電車の音に混じって聞こえてくる。酔って帰ってきた時など、ズヴェルコフはベランダから大声で、うるせえぞ、と怒鳴る。三階から見下ろす道路は狭くて汚くてでこぼこで、あたりの建物はズヴェルコフの住むアパートと似たりよったりの薄汚さを呈している。どなっても何も変わりはしない。自分のすさんだ生活を確認するだけだ。こちらの声が限界を超えるときもある。そんなときには、うるせえぞ、デブ、と怒鳴り声が返ってくる。向こうがこちらは誰だか判っているように、こちらも向こうが誰かは判る。
今は小窓も引き戸も閉め切ってある。昼過ぎには二十七度となり、今年一番の暑さだった。外はまだ夕焼け雲がたなびいて、さほど気温が下がってはいないはずだった。締め切った部屋の内部も二十七度をそれほど下回ってはいないだろう。或いは、興奮したズヴェルコフがそう感じているだけかもしれなかった。
(……名前は不明。1995年前後に退役した元ロシア陸軍の軍人か。もちろん軍隊内の位階も不明。99年ごろから現在までに、いくつかの暗殺事件に関与してきた疑いがある。依頼主はロシアとは限らない。アフガニスタン北部同盟のマスード将軍、PFLPのムスタファ議長の暗殺に深く関わったと思われる……)
ズヴェルコフは、キーを打ちながら、ふと、しかし、なにやら必然性を感じて、不安に駆られて、部屋を見回した。特に確かめるように、首を真後ろにねじって背後のドアを見た。重くて頑丈な木のドアだ。ドアの向かい側、彼の正面に締め切った引き戸がある。部屋の中央、やや右寄りにすえつけてある大きなスチール机に向かって、彼はさっきから夢中で文書を作成している。右手にはベッドルームが二つある。窓側のベッドルームで彼は眠る。廊下側のベッドルームは物置になっている。八か月前までは母親のマリンスカヤがいた。今は日本の札幌にいる。左手には台所と風呂場とトイレがある。モスクワでは平均的なフラットだった。事実上無料の官舎は年長者でふさがっており、待っている者が多数いた。同僚のほとんども官舎には入れないが、多くが家族持ちで、郊外の一戸建てに住んでいる。彼には贅沢がいえない特別な事情があった。
(……今回の依頼主はロシア政府と思われる。政府のどのレベルが依頼したかは分からない。少なくとも外務省の局レベル以上、政府中枢に極めて近いレベルの依頼だろう。ことが緊急を要する以上、裏づけを取るひまがなかった。正直に言えばそれはひまのあるなしに関係なく不可能だったろう。しかし、情報源は、外務省内の現役高官である。当人は忠誠心の厚い優秀な官僚だ。情報が漏れたことに気づいていない。私は、ある個人的な事情から、情報の信憑性についていささかの疑いも持っていない……)
ズヴェルコフは、さっき追い出した女を思い出していた。ワルワラ・ボクロフスキーだ。彼の上司である外務省次官補の妻だ。外務省次官補は、ズヴェルコフのモスクワ大学の先輩であり、極東局の先輩でもあった。歳は五十台半ばで、彼より一回り以上年長だが、友達のように付き合ってくれていた。ボクロフスキーがまだ閑職にあった頃は、夫妻と彼と三人連れ立ってよく遊びに行ったものだった。もうそういうことはなくなった。ボクロフスキーが昇進して急に忙しくなったせいもあるが、そうするのが危険でもあったからだ。
ワルワラとズヴェルコフとの関係が始まってから半年になる。夫は二人がそんなことになっているなぞ一瞬でも想像したことはないはずだった。人がよくて猜疑心がないのだ。ズヴェルコフは役所でボクロフスキーと顔を合わすたびに良心の呵責に苦しんだ。離れられないわけのある自分とワルワラの関係を呪った。
ワルワラは、淫乱で遊び好きで浪費家で賭け事が好きな、三十四歳の美しいグルジア女だ。ソ連崩壊の年に、家族とともにモスクワに出てきた。モスクワ芸大の三年生のとき、ボランティアとして出向いた外務省で、アレクサンドル・ボクロフスキーに一目惚れされてしまった。しめたと思ったワルワラは、アレクサンドルの気が変わらないうちにと、卒業前に結婚した。国家の忠実な下僕であるアレクサンドルは、ワルワラの忠実な下僕にもなった。
彼女は子供ができない体質であるのをいいことに、遊び歩いていた。両親は相次いで死んでしまった。二十も歳の違う夫とは話が全く合わなかった。そもそも話をする機会が少なかった。多忙を極める夫は、役所に寝泊りし、出張をくりかえしている。彼女はいつもむしゃくしゃしていた。ホテル・ウクライナの近くにある外人用の秘密カジノに入り浸っていた。夫は惚れた弱みで強く意見できない。ワルワラはいつも金がない。高官であるのに夫の給料はたいした額ではなかった。博打の負債は増える一方だった。夫にばれたらさすがに放り出されるだろう。しかし、欲望に弱い、だらしない根性は直らない。このままだと外人専用の娼婦に転落しかねなかった。
ところが戯れに寝てみたズヴェルコフが当たりだった。ワルワラのおしゃべりに金を出したからだ。ワルワラは、亭主から聞き出したあれやこれやをしゃべりまくっては、金を請求するようになった。ズヴェルコフは、なくてはならない人間になった。
ズヴェルコフも、他に情報源はあるものの、ワルワラを手放したくなかった。彼女のおしゃべりのほとんどは、取るに足らないものだったが、中には日本が高く買ってくれたものもあった。モスクワでの外国との条約や協定の締結の際に交わされる裏取引の内容が、その主だったものだった。彼女の生活の乱れがいつ自分のスパイ活動の発覚につながるかひやひやしてはいた。身の破滅どころか生命の危険があった。しかし、その危険を冒しても関係は続ける気だった。いざというときの覚悟はできていた。
ワルワラを通しての感触から、役所で見られる以上にボクロフスキーへの政府中枢の信任が厚いことが分かった。そのうちに重大情報が手に入るような気がしてならなかった。それを日本政府に高く買わせたかった。そのときまでは我慢しようと決めていた。日本側の価値判断に時々頭をひねることもあったが、大体はそれなりの報酬を得てきた。金はチューリッヒの銀行に振り込まれるようになっていた。
しかし、貯めた金額を合計しても、とても母親の手術費用には足りなかった。
母親のマリンスカヤは、日本の札幌医科大学の付属病院に入院していた。肝臓と胆のうの癌に罹っている。胆のうの全摘と肝臓の一部移植手術を予定している。癌の増殖はとめられない。急がなければならなかった。モスクワではその種の手術はできない。アメリカとEUは費用がかかり過ぎた。日本に行ったときに、検査だけでもと、外務省の顔見知りに泣き付いた。随分いやな顔をされたが、プライドをかなぐり捨ててはいつくばった。バーター取引としての特別協力者役も引き受けた。やっと母親の入院手続きをとった。母親は、行きたがらなかった。ズヴェルコフは、その時の母親とのやりとりを思い出すたびに胸が痛む。
「ねえ、アントン・アントーヌヴィッチ、私は体の痛みや苦しみはなんともないんだよ。たかが死ぬまでの辛抱じゃないか。それよりお前と別れるほうが、わたしにゃ痛くて苦しいよ」
物心ついたころから母一人子一人で暮してきたのだから、ズヴェルコフにとっても、母親と離れ離れになるのはとてもつらいことだった。しわくちゃになっても美しい母親の顔を見つめながら、彼は繰り返して言ったものだった。
「日本にはしょっちゅう行くから。お願いだから体を治してくれ……」
ズヴェルコフは汗を拭きふきキーを打ち続けた。
(……今月四日に問題の人物はモスクワに召喚された。誰が、どこが召喚したかは分からないが、私の情報源がその日に外務省ビルの応接室で彼の実際の姿を見ている。彼の外見を述べる。コーカソイドであるが顔を見ると東洋人との混血の可能性もある。髪は栗色に近い金髪。目は灰色がかった青。身長は185センチ前後。骨太。筋肉質。十分な訓練を経てきた身体を持つ。格闘技の選手であるかのようだ……)
ノックの音が聞こえたのが一時間前だった。ドアを開けてやると、Tシャツに短パン姿、長い髪で顔を隠したワルワラが、酒臭い息を吐きながら倒れこんできた。誰が彼女を政府高官夫人だと思うだろうか。ズヴェルコフはいつものように廊下の左右を窺った。彼女の御乱行は、省庁の関係者だけでなく、モスクワの遊び人たちの間でも評判になりかけていた。いつ自分とのスキャンダルが表沙汰になるか、知れたものではなかった。別の場所で会わなくてはならないのだろうかといつものように考える。場所代があるくらいなら私によこせ、と彼女は言うだろう。食費を切り詰めて貯金している位なのに、ワルワラへの報酬に加えてホテル代を出すのは不可能だった。
彼女は、シャワールームに消えた。やがて歌声が聞こえてきたが、げっぷ交じりだった。時々吐いていた。素裸で出てくると床に仰向けに寝てしまった。剃った陰毛が短く生えかけていた。
三十分ほどいびきをかいて寝てしまうと、きょとんとした顔をして起き上がった。冷蔵庫からウォッカの瓶と牛乳パックをもってきて、床にあぐらをかいて交互に飲み始めた。そして話したのが〝ジャッカル〟のことだった。
前日の晩に、彼女は夫と古い映画をDVDで見ていた。彼は久しぶりに休みをとれてうきうきしていた。ジャッカルの日、というドゴール暗殺未遂事件を描いたサスペンス映画だった。見終わると夫が笑いながら、おととい私もジャッカルに会ったよ、と言った。言い終えて、しまった、という顔つきをした。彼女は、最初は何のことかわからなかった。どういうことだ、と訊くと、夫は、ああ、勘違いをした、なんでもない、と答えた。ワルワラは、彼を逃がさず、執拗に追求した。
「ジャッカルのような男がロシア大統領を暗殺しに来たの?」
夫は、そうじゃない、としぶしぶ答えた。
「じゃあ、ロシアからジャッカルのような男がどこかの国に暗殺のために出かけていくのね?」
そうだ、と答が返ってきた。
「その国はどこなの?」
答えがない。
「いい子にしてよ、アレック。あなたの大好きなワルワラが知りたがってるのよ」
彼女は、大げさに抑揚をつけて語りかけた。
まだ答えがない。
彼女は、金になりそうな話を夫から引き出すためにはどんなことでもしてやってきた。この時もそうだった。裸で逆立ちしてやった。餌につられてアレクサンドルはしゃべってしまった。
イポーニヤ、とつぶやく声が、股の間から聞こえた。
ワルワラは長々と語った。ズヴェルコフは、話を聞きながら興奮を押しとどめることができなかった。これこそ待っていた大ネタだった。彼は、ワルワラの両腕を引っつかんで立ち上がらせた。ウォッカも牛乳も床に飛び散った。大声を出して、いつその男は出発する予定かと尋ねた。彼女は、もう昨日の夕方にモスクワを発ったと言った。自分の亭主もその男を追って今日の昼にはモスクワを離れたはずだ、二人の交通手段やコースは分からない、とも言った。それですべてか、他に聞いたことはないか、と問い詰めると、彼女は、夫から聞いた、その男が外務省の応接室を出て行く際の言葉をゆっくりと口にした。ズヴェルコフは聞き返した。ワルワラは同じ言葉を繰り返した。ズヴェルコフは強い違和感にとらわれた。なぜそんなに強固な意志が持てるのか。雇われの殺し屋ではないか。聞き間違いではないか。ニュートラルなプロの暗殺者がそんな深い信念や執念を持てるのか。見せかけだろう。
彼は、大急ぎで彼女に服を着させてたたき出した。財布ごと彼女の短パンのポケットに突っ込んだ。何万ルーブリあったか分からなかったが惜しくなかった。後でまた来る、という彼女に向かって、もう来てくれるな、俺もやばいが、お前も危ないぞ、とどなった。そしてすぐさまキーボードに向かった。今聞いた話を細大漏らさず急いで書き送らねばならなかった。
夢中になってキーを打っているズヴェルコフには、ベランダの手すりがたてたかすかな音が耳に入らなかった。鉄が鉄とそっとぶつかる音。通りの真ん中から鉄梯子がベランダにかけられた。
(……私の情報源はその人物のロシア出国と日本入国の際の援護責任者だ。もしあるとしての話だが、その男の日本出国は、別の部局の責任となるようで、それが連邦保安庁か他の省庁かあるいは軍かは分からない。彼が日本に滞在中の掩護はしない。いつもそうだ。ロシア関与の印象を絶対持たれないように細心の注意が払われているのだ。彼も単独行動のほうが有効であると思っているらしい。それが好みでもあるらしい……)
さすがにドアの向こうに複数の足音が左から右へと過ぎて行った時、ズヴェルコフは上体を起こした。頁岩の廊下の床を引っかく金属音が響いた。民警の靴はゴム底だがFSBの靴は鉄底だ。ドアの向こうから大声が聞こえた。
「包囲されているぞ、ズヴェルコフ。おとなしく出て来い。ボクロフスキー夫人はつい今しがた逮捕拘留した!」
ズヴェルコフは逃げようがない状況を瞬時に理解した。震える手でキーボードを連打した。
(私の報告が真実であることは、ヒョードル・ラタジェーエフ外務省次官とアレクサンドル・ボクロフスキー外務省次官補およびその妻ワルワラの行動を調査なされば分かる。この情報に誠意ある価値判断を下されたく思う。報酬はいつものようにチューリッヒ……)
電灯が消えた。パソコンは自動的にバッテリー電源に切り替わった。ドアをたたく音が聞こえ、何人もの人間が手すりを越えてベランダに跳び下りる音が聞こえた。手すりに咬ませてあるパラボラアンテナがむしりとられた。ベランダ一面に銀紙を貼ってアンテナにしてあるが、それは楯や上着で覆われていく。病院のベッドで丸くなって眠りこけている母親の姿がズヴェルコフの目に浮かんだ。
なんだ、自分が先だったのか。
(いや、札幌医科大学付属病院のイワモトタケハル医師に直接送っていただきたい)
ドアの取っ手に軽機関銃が撃ちこまれた。轟音と、もうもうたる煙。それと同時に引き戸のガラス窓が割れて銃口が突き出た。ズヴェルコフは、あの男が直接言ったとワルワラが伝えた文句を打ち込んだ。そして動転のあまり次のような言葉を末尾に打ってしまった。
(警戒せよ、ジャッカルが来るぞ!)
送信。エラー。電話回線に入れない。無線に切り替える。ベランダでは、アキハバラで買った発信機が見つかり、足で踏み潰された。残るのは屋上の発信機とバッテリーだ。屋上までは無線とラインの両方でつながっている。送信。エラー。ロシアだけでなくEU、アメリカ、カナダの衛星も接続不能になっている。日本、中国、インドのはまだ効いていた。送信……
大音響をたてながらドアと引き戸を破って武装したFSBが乱入した。ズヴェルコフは、ため息を深々とつき、一筋涙を流した。机の引き出しから拳銃を取り出して机の右側に立った。自殺しようとこめかみに向けて銃口を挙げた。敵は、抵抗すると見て一斉射撃した。ズヴェルコフは全身から血を吹き出しながら宙で華麗にコサックダンスを舞い、物置のドアに激突した。
七月八日、午前二時、東京
霞ヶ関の外務省ビルでは、地球の自転に連携して、各局が活動時間帯を持っている。たとえば、日本時間の午前二時になると、欧州局の英国課では、あちこちからため息やあくび、パソコンの電源を切る音が聞こえてくる。英国の午後五時にあたり、英国人はたとえ外務官僚でも、時報を聞くなり机から立ち去る者が多いからだ。霞ヶ関の英国課も楽になる。十人ほどの〝当番〟を残して、あとの課員は帰宅する。車を自ら運転する場合もあるが、眠気による事故を恐れて公用車で送られる者が多い。あるいは、歩いていけるところに共同でマンションを借りていて、そこに帰る者たちもかなりいる。こういう事情は、どの部局にも共通している。
欧州局ロシア課には八人しか残っていない。モスクワは夜の八時を過ぎたところだ。局長室、応接室、三つの小会議室、大会議室、どれも無人である。八人は、パルティションで仕切られたメインルームに点々と散らばっている。
そのうち、ひとりだけが、特殊な場所にいる。その場所は、メインルームの南西の隅に、天井に届くほど背の高いパルティションで区切られている。ドアつきなので、閉めると個室になる。課員が、トイレ、と称している翻訳室だ。どの課にもトイレに相当する場所がある。北米課にも囲ってはないが、部屋の隅に専用デスクが置いてある。かつて小和田雅子嬢が、たびたび坐った席だ。彼女の翻訳や通訳は省内で好評だったが、当人はくだらない仕事だと思っていたのか、不満げだった。
唐沢夏雄は、入省五年目のキャリアである。昨日から今日にかけてそのトイレに出たり入ったりしてきた。中で一日合計五時間を費やしたこともある。ほとんどの課員はロシア語に通じているが、翻訳となると帰国子女のバイリンガル三名が交代で請け負うことになる。唐沢はその三人には入らない。中学時代をモスクワで過ごしただけだから厳密にバイリンガルかどうかは微妙だ。だが、三人のうち竹ノ内進と会田勇次は海外出張中で、鹿島玲造は休暇をとっていた。唐沢が駆りだされるのは仕方なかった。こういうことは過去にも時々あった。
文書翻訳を十件こなした。外交文書がほぼ百パーセント英語になった現在、ロシアとフランスは頑固に自国語の文書を送っている。課外の部署や役職を指定してきた文書は、翻訳後原文をつけてランで転送する。十件中七件が課外宛のものだった。ボランティア活動である.どの文書も緊急の内容を含んでおらず、トリヴィアルに近い事柄が延々と羅列されていた。
問題なのは、今入ってきた文書だった。五分前に、自分の専用のデスクでうたた寝をしていた唐沢の携帯が振動した。〝トイレ〟のパソコンが受信するとヴァイブが働くようになっていた。
どこが問題かというと、まずCCを隠していない点だった。ロシア課以外に、同文のメールが、国際情報官室の一、二、四課と国際組織犯罪室の一課にも送られていた。翻訳後の送り先を指定してここにだけ送れば済むことだ。送信先が課であって課長ですらない。つまり特定宛名がない。タイトル、アブストラクトがない。ガードがかかっていない。署名が十二桁の数字だけだ。異常だった。唐沢はこのタイプの文書があることは噂には聞いていたが、じかに見るのは初めてだった。粛々と翻訳して上にまわせと言われてもいた。しかし、こちらも機械ではないから、不審感と興味を抑えることはできない。最大の問題点はその奇妙な内容だった。唐沢は、誤字脱字の多い通信文を読みながら、しだいに眉のあいだのしわを深めていった。
(……報酬はいつものようにチューリッヒ銀行本店の以下の番号に振り込んで、いや、札幌医科大学付属病院のイワモトタケハル医師に直接送っていただきたい。
追伸。その男は次のように語ったそうだ。『首相が変わっても、再び私が始末する。さらに代が変わっても同じだ。私が死んでも、私の兄弟たち、息子たちが私の仕事を受け継いでいくだろう。首相なり、首相の代替となる機関なりが終息するまで、私たちの行動は続く』)
そして、メールは、意味不明の絶叫調で終わっていた。
(警戒せよ。ジャッカルが来るぞ!)
読み終えた唐沢はうんざりした。ここのアドレスは公開されていないし、一週間ごとに変えられていくので、めったにこの種のいたずらはできないようになっていた。しかし、たまにはハッカーが悪ふざけに成功することがあった。そのたびにアクセスの閾を高くせねばならなかった。唐沢は全文を削除しようとする欲望にかろうじて打ち勝って、翻訳を始めた。送信者がCCを隠さなかった理由のひとつがすぐに分かった。単独に送られてきたと誤解した受信者は、忙しいのにふざけやがって、と削除してしまうかもしれない。他所からの問い合わせに備えさせるためにわざとCCを隠さなかったのだ。削除されてなるものかと省内の知っている限りの部署に文書を送ったらしい。慌てふためく送信者の様子が目に浮かぶ。唐沢は少しだけまじめになって翻訳を続けた。
案の定、翻訳の最中に情報官室と組織犯罪室からほぼ同時に連絡が入った。情報官室は次のように言ってきた、内容は大体わかるが正確な訳文をランですぐに送ってくれ、処理について課長クラスでとりあえず討論したい、そちらの会議室を使いたい、ニ時四十分でどうか。組織犯罪室からは、訳文を五部コピーしておいてくれ、出来たらすぐに連絡してくれ、室員がとりに行く、とのことだった。コピーぐらいそっちでとれよ、と唐沢はつぶやいた。どちらの連絡メールにも、このクソ忙しいときにネットオタクのいたずらに付き合っていられるか、とは書いてない。彼らは腹の中ではどう思っているにしろ、すぐに内容を検討する気だ。彼らの反応を見て、唐沢は大いに反省した。あらためて真剣に翻訳に取り組んだ。見つめているモニターの向こうに、中学生のころ毎月のように乗ったゴーリキー公園の大観覧車が、はっきりとした幻という感じで浮かび上がった。
受信者を怒らせようが、受信者から嫌がられようが、送信者は、情報の伝達に成功したこととなった。
ロシア課第三小会議室には、コの字型にならべた長机をとりかこんで、四人の男が坐っていた。コの字の左上に当たる席に坐っているのが国際組織犯罪室秘書の長柄純吉、その右に同室の国際条約関連係長の古賀重雄、コの字の縦の棒に当たるところには、情報官室二課の課長重光孝雄、コの字の下の横棒に当たるところにロシア課課長の明石定宗。
長柄は座高が高くでっぷりと太っており、威圧感に溢れ、睥睨するように左右に目を動かして止まない。多くの者の前で檄を飛ばすのに慣れている。小柄な古賀は、長柄の縮小コピーのように、体も坐りかたも目の動きも長柄に似てしまっていた。重光は眉も髯の剃り跡も濃い、意志の強そうな、闘士型の男だ。もと柔道の国体選手で、下手をするとオリンピックに出ていたかもしれないという噂の持ち主だ。明石は、ひょろりとした神経質そうな二枚目である。いずれも五十歳を超えているが、タフで自己主張が強くプライドが高い。重光と明石は寝入りばなをたたき起こされて今着いたばかりだった。明石が最後に着席した。
各人の前には、翻訳を終えた送信文書が原文を添えておいてある。それ以外に、今回の文書と署名が同じ過去の文書の翻訳が十部ほど積んであった。今回の送信文が一番長い。
明石は、寝癖の直らない灰色の頭髪を押さえながら口を開いた。
「車の中で通読した限りでのことを申し上げます。その前に、これがいたずらに過ぎないとは思わないでいただきたい。過去の通信文は、ああ、お読みにならんでもいいです、内容瑣末なものがほとんどでしたが、誤報や、ましてやいたずら、冗談のたぐいは、一切ありませんでした。通信者は真剣です。したがって、今回の内容がいかにばかげたものであろうと、履歴をかんがみて、慎重に検討すべきだと思われます」
明石は心配そうに三人の顔色をうかがった。
「その内容のことですがね」
長柄がいらいらした口調で言った。五分待たされただけだったが、とても機嫌が悪い。
「冷静に検討すればするほど、通信者が冷静さを欠いているのがはっきりしてきますな。わが国の現首相が、ロシアに対してなにかおかしなことをしましたっけ? アフガンやグルジアならまだ分かります、中国でもわからんことはない。しかし、ロシアが当方にどんな文句のつけようがあるんですか。北方領土問題がテロの理由になりますか? 漁業問題? 領海侵犯? 関税? パイプライン建設問題? いずれもテロとは無関係だ。理由がまったくみつからない。アメリカ大統領を暗殺するのなら話は分かる。理由はゴマンとある。実質的にも象徴的にも意味ある行為です。しかし、日本のように官僚制が永久固定されている国では、首相を暗殺しても意味がない。すげ替え用の首はいくらでもあります。もともといてもいなくても……、まあ、とにかく、この件は、通信者の個人的な問題、特に精神状態の問題に帰着すると思います。当人はいくら真剣だろうと、こっちから見れば狂人ですな」
長柄の発言中ずっと古賀は首を縦に振り続けていた。重光は、この腰ぎんちゃくの、金魚のうんこめが、と長年胡散臭く思ってきた古賀を睨みつけた。古賀は長柄の後を受けて話を敷衍した。
「プーチンがテロを仕掛ける相手は二種類しかありません。第一は、プーチン自身をテロってやろうとしているテロリストです。第二は、プーチン政権を批判しているジャーナリストです。公的機関にではなく、末端の小集団やセクトに所属する、比較的個人行動をとる者たちです。プーチンは国にテロは仕掛けません。国際的にも九・一一以後、先進諸国は国を対象としたテロ行為を蛇蝎視しています。このような情勢下でロシアが我が国の首相をターゲットにテロリストを送り込むことなぞありえない。狂気の沙汰です。じゃ、どこに狂気があるのか? 通信者にしかありえませんね。文字も文章も乱れきっています。この人物は、急に精神に恐慌をきたしたのでしょう。この男こそがひとりで日本にのこのこやってくるかもしれないですよ、この男こそがジャッカルなんですよ、罪名は公務執行妨害でも何でもいいから、とっ捕まえて頭から冷や水でもかけてやることですな、ハハハ」
重光は、長柄と古賀が、顔を見合わせて笑っている様子を苦々しく見ていた。ふざけたやつらだ。彼は、この二人が降りるのが最初から分かっていた。組織犯罪室が個別の事由に対応することを期待するのはむずかしかったからだ。二人が、通信文の翻訳を促し、会議を早々に開いたのは、彼らの危機意識からではなく、こんなくだらないものはさっさと片付けてしまおうという魂胆からだったのがよく分かった。
彼らに確認しておくことがひとつだけあった。重光は二人を等分に見ながら物柔らかに話しかけた。
「いや、お忙しいのに、トンチンカンなところにお呼びだてしてしまって、すいませんでした。この通信者はお宅らの部署の職務内容もよく調べずに初めて連絡してきたようですな。当人の大慌て振りが分かります。迷惑なことでしたでしょう。迷惑ついでに、この場を借りてちょいとお伺いしますがね。ここからは万一の場合の話、いや、架空の話とおとりになって結構です。もし、ジャッカルなんぞという不逞のやからが入国して、ロシアの掩護のもとに何らかの罪を犯した場合は、国家間問題になり、種々の国際条約に違反することになりますよね。司法裁判所に提訴も可能ですよね」
長柄がめんどうくさそうに答えた。
「当然です。万一そうなりゃあ、われわれの出番です。原理的にはね。しかしその個人が罪を犯したことを立証できても、その個人を国家が掩護したことを証拠立てることは不可能です。過激派ゲリラが自分から鼻高々に犯行声明するのとはわけが違いますからね。アルカイダじゃないんだ。近代国家である以上、敵は認めるはずがない。せいぜいが、今私らが言った個人的な精神異常、あとは出国管理の事務的な不手際、ぐらいしか認めないでしょうな。キチガイが勝手に出向いて犯罪を犯したんだ、そいつを死刑にすれば終わりだ、ぐらいしか言ってこないでしょうよ。北朝鮮だって、部下が勝手にやったことだ、と金正日が宣言して、拉致問題は解決したことにしてしまった」
「国が掩護したことを、関係者から聞き出そうとした場合、そちらはどんな働きかけをしていただけますか?」
「だからーっ。今言ったばかりでしょ。口を割るはずがないんですよ。初めから不可能とわかっていることをするバカはいないでしょう」
長柄はいかにも重光をバカにしたような口調で言った。
「日本にやってくるのはひとりだとしても、それを実現するためには、いくら秘密のミッションでも、陰で多くの人間が動きます。そいつらのうちの一人でも二人でも拘束して吐かせるんです」
「御冗談を。うちがそんなことに手を出したら、そりゃ、越権行為ですよ。よほどの命知らずで向こう見ずの人間がいたと仮定しての話ですが、警察庁の国際課の出先か、現地裁量を特別に大幅に許されている、なるべくなら会いたくない大使館員あたりの仕事だ。しかし、世界で最も温厚な日本の警察官と外交官の中には、そんな007まがいの者はひとりもいないし、存在を許されていないと信じています。もしお宅らがそんなことに乗りだそうなどと考えているとしたら、頭は確かか、と言うしかないですな」
長柄は、かなわんな、といった表情を露骨に示しながら、古賀に顎で合図をして立ちあがった。
「今、移民亡命問題に関して、国連発議の多国間条約のチェックで、夜も眠れん忙しさですわ。架空の話は、もう勘弁させていただきたい。早々に失礼させていただきますよ」
二人は軽く礼をして立ち去った。
重光はあくびをしながら、給湯室にいき、インスタントコーヒーをつくった。カップを両手にひとつずつ持って、明石の隣に坐った。二人はしばらく黙ったままコーヒーを飲んだ。ともに五十一歳、東京大学法学部公法コースで同期、入省も同期だった。重光が口を開いた。
「あいつら二人とも、相変わらず、いやなやつだなあ。さっそく次官に言いつけるつもりだろう。ところで、お前、どう思ってるんだよ。一言もしゃべらんでさあ。卑怯だろうが」
「狂言や精神錯乱はないと思ってるよ。ただなあ、普段のあいつとは随分違うんでね。そう言い切る自信がないんだ。通信の内容には妄想が入り混じってるだろうよ。ただし、何かが起きたことは間違いない。こっちから直接尋ねられんからなあ」
重光は苦笑した。この男は、なにかというとひとに嘆いて見せて、同情をかいながら、嘆きの中に助力のためのヒントを抜け目なく織り込んでおく。今の場合は、重光に、モスクワで何が起きたのか調べてみてくれと頼んだことになる。甘え体質は学生のころから変わらない。だからといって重光は嫌っているわけではない。その甘えが程よいところで抑えられているからだ。甘えっぱなしではなく、甘えたことに呵責を感じて、自分の次の行動のきっかけにするからだった。
「俺がかわいこちゃんと戯れてる夢からたたき起こされてから今まで、ぼんやり夢の続きを想像していたとでも思うかい?」
「さすが、重光! で、どうだったんだ?」
「あわてるなよ。たった三十分で何ができると思ってんだ。警察庁の国際捜査管理官やらなんやらに電話しただけだ」
「組織犯罪対策部の?」
「そうだ。テロリストが入国するという垂れ込みがあったから国際空港では厳重注意しろ、と言っておいた。怪しい男の見かけは通信文そのままを電話口で読み上げた。あと、国家公安委員会の委員してるやつで、井出というのがいたろ? 辞令が下りた時は過去最年少の委員だと評判だったが、当人は暇でしょうがないとぶつくさ言ってるやつ。俺たちの一年後輩だ。やつをたたき起こして同じことを言っといた。長官に朝一番で連絡しろ、何なら今すぐにでもいいぞ、暇つぶしができるぞ、とも言った。部屋についてすぐ例の通信文全文を二人に送っておいた」
「上出来だな。ただし、厳重注意は国際空港だけでいいんかな。密入国という手もあるぞ」
「どうやって?」
「うーん、たとえば、北海道あたりに、パラシュートで飛び降りるとか、海岸線近くまで潜水艦で来て後は泳ぐとか」
「ははっ、まるでマンガだ。しかし、船はありうるな。ロシアとの定期航路がある港を調べさせてチェックを厳しくさせよう。後は貨物船だな」
明石は、だんだんと好奇心が高まってきたようだった。重光のほうに体を向け、大きな目玉を見開いて、顔を近づけてきた。重光は、こいつもふけたな、とふと思った、相手のほうこそ重光を見てとっくにそう感じていたかもしれなかったが。
「ラタジェーエフ外務省次官は覚えてるよな。ボクロフスキー外務省次官補もな」と重光。
「ああ、二人とも会ったことがある。ボクロフスキーの女房は知らん」
「この二人がどうなったかを調べたいね。ズヴェルコフもそれを望んでいる。通信内容が事実だとすると、まさかFSBには訊けない」
「俺たちはさ、曲がりなりにもやつらの知り合いなんだから、なんか用事を作って連絡しようか?」
「それはできそうだな」
重光は、ロシア課の明石のほうが、探りを入れられる可能性は少ないと思った。
「お前がやればいい。議員団が訪露の予定だとか何とか。頼むぜ。すんなり当人たちが出ればいい。もしそうでなかったら……」
「もしそうでなかったら?」
「つまり、急病だとか出張だとか休暇中だとかで連絡がつかないなどと応じてきたら、ズヴェルコフの言ってきたことの信憑性が、にわかに増すことになるだろうさ」
「その場合、向こうは当然こっちが探りを入れてきたと思うだろうな」
「知らん振りをしてればいい。だが、もうそうなったらぼんやりしてはいられなくなるぞ……」
重光は、そういい終えたときにぞっとした。明石もぞっとしたようだった。つかんでいたコーヒーカップが受け皿にあたってカタカタと音を立てたのでそれが分かった。ほとんど同時に二人はつぶやいた、「もうそうなってるかもな……」
明石はあわてて携帯を取り出すと大声でしゃべり始めた。重光は、二つの空のカップを持って給湯室に入った。重光は、カップをシンクに置くと、両手をシンクの縁において頭を垂れた。ズヴェルコフを引き入れたのは重光だった。話を切り出したときの、救済感と転落感が入り混じった、彼の当惑振りを忘れることはできない。あんないい男をもしかして自分は……。重光は雷に打たれたように突然跳ね上がった。自分は、最も急を要することに気づかなかった、なんという人非人だろう、彼の安否をまず心配すべきだった。
給湯室から走り出た重光に、明石が問いかけた。
「札幌医科大への送金って変じゃないか。それにズヴェルコフの母親をどうする?」
「ズヴェルコフ自身のことが分かってから考える。彼がどうなったか俺は今から探ってみる。ちょっと黙っててくれ」
重光は携帯を取り出して警視庁の総監室に直接電話をかけた。普段はあまりするべきことではなかった。手順を無視していた。コード番号を打ち込んだ。転送された。コード番号。さらに転送された。やっと出た。
「はい、総監秘書室」
「もしもし、こんな時間に申し訳ありません。お久しぶりです。筆頭秘書の郡司さんですね? 私、外務省の重光です」
「えーっと、ああ、情報官室の重光様ですか、オウム真理教事件のときに御協力いただいた?」
「はい、お久しぶりです。実はまことに異様な、しかし信憑性の高そうな情報が入りましてね。内容はこの電話を切り次第、秘書室宛にメールでお送りします。用件もそれに添付して送ります。総監になるべく早くお見せください。いやいや、総監の自宅に転送して指示を仰いでください」
重光は携帯を耳に押し当てたまま、給湯室の向かいの壁に掛けてある白板の前に歩み出た。ペンで、ズヴェルコフが危ない、と書いた。それを見た明石は腕を組んでうなった。
電話口では郡司の声が鋭さを増した。
「もしかして井出公安委員からの電話に関することですか?」
「そうです」
「総監は井出さんからの電話を受けて、ただいまこちらに向かっているところです」
重光は胸騒ぎを押さえることができない。
「それだと話が早い。モスクワ民警が関係してきます。人民警察とはすぐつながりますよね」
「はい、つながりはしますが……」
「よかった! 二課が、いや私が責任を負います。ある人物の現状、いや、安否の調査依頼を大急ぎでしていただきたいんです。現在当人へ個人的に連絡できないんですよ」
郡司がおずおずと聞いてきた.
「あのう、そういうことはもちろん私ごときの一存では出来ないわけでして……」
重光は、膨れ上がった不安に、もはや我慢ができなくなった。
「自動車の中の総監に連絡して、調査依頼の許可をもぎ取ってくださいませんか」
「承知しました。やってみましょう。その人物の氏名、役職、住所をお願いします」
外務省極東局第二書記官アントン・アントーヌヴィッチ・ズヴェルコフという人物です。住所はモスクワ市南区******です。詳しくはメールをご覧下さい。回答がかえってくるのにどのくらいかかりますかねえ」
「モスクワ市内在住の公務員ですからね。すぐ調べられるはずです。詳しいことはとにかく、第一報は三十分ぐらいで手に入るでしょう」
「ありがたい。感謝します」
相手は、重光の興奮ぶりに臆して、様子を見ているようだった。返答がない。
「万一総監が待てと言われたら、重光が首をかけていると言って下さい。もしそれでもダメなら、私は何するかわかりませんよ。郡司さん、なんとかお願いします」
重光は空中に向かって礼をしながら、相手の発言を待たずに携帯を切った。携帯に向かってどなっている明石に、眼で合図をし、会議室を飛び出した。二課の自分のデスクに向かう。ワードで、ズヴェルコフと自分とのこれまでのいきさつを書いた。さらに調査依頼の正当性と緊急性を簡潔に論じた。それらを、さっきの会議にならなかった会議の原資料に添付し、郡司に送信した。十分で終了。耳鳴りがやまず、やたらとつばを飲み込む。
つづく