東京の西の端、桧原村に、払沢の滝がある。私は、バス停から、思いのほか長い山道を歩いて滝を目指していた。よろめきながら向こうから、長身の老人が下りてきた。目の焦点があっていない。だれだっけ。知っているはずの人だ。
何年も経ってから、地方新聞で、氷結した滝の記事を読んだときに、あの老人が誰だったか気が付いた。
大学に入ってからすぐの解析学の担当が斎藤利弥先生だった。私は、高木貞二の解析概論は読んでいたし、先生の解析の教科書も当日の講義の分は前日に読んできているので、最前列に座って、先生がしゃべる直前に、その内容をやや大きめの声でつぶやくことにしていた。先生ばかりでなく周りの同僚にも聞こえる。実に実に嫌な学生だった。講義の後も、黒板から去らせないで、あれやこれや質問をしていらいらさせた。
専門課程に入ってからは、微分方程式を教わった。さらに、位相力学、ヴェクトル場も。
先生は、自分は、三十過ぎてから数学に専念するようになったので、大望は元から抱いていなかった、とおっしゃっていた。
ポアンカレの研究家であり、間違いだらけの彼の論文を興味津々読み漁ったそうだ。私もポアンカレが大好きで、恐縮ながら、話が合った。
払沢の滝ですれ違った老人は先生だったと確信し、先生が退官後に所長として勤めていらした研究所に電話してみると、しばらく前に亡くなったとのことだった。