The Sun Also Rises

The Sun Also Rises

日はまた昇る

Amebaでブログを始めよう!

またまた3ヶ月ほど放置してしまいました。

この間にいろいろなことがあり、当ブログの役目はもう終わったかなー、とか、そろそろ撤退かなー、とか、何かと思うところはあったのですが、もう少し続けてみようと思います。

 

そうそう、その「いろいろなこと」のひとつなんですけど、じつは私、ここ3年ほど野球をお休みしていたんですよ。とあるボランティア活動に週末のほとんどを費やしていたのと、ある目標に向けての取り組みに週末の空き時間を充てる必要があったことがその理由なんですが、ボランティア活動がひと段落ついたことと、ある目標が新型コロナの影響で延期になって先が見えなくなってきたことから以前所属していたチームに復帰を申し出たところ、快諾して頂けたというわけです。

 

それで、少し前からチームに顔を出させて頂いて一緒に汗を流しているんですが、気心が知れた旧知のメンバーが半分ほど残っていて、私がチームを離れていた間に入団されたメンバーの方とも打ち解けて、楽しくプレーさせて頂いてます。本当に感謝です。

 

ところで、以前私は背番号#1を背負っていたんですが、今は私がチームを離れている間に入団された方が#1を背負っているので、空き番号のなかから#18を選んで背負うことになりました。

 

なぜ#18を選んだのかというと、理由は幾つかあるのですが・・・。

まず、#1以外のひと桁の番号って馴染みがなくて、自分には合わないと思ったんですね。それから、自身のラッキーナンバーであり永らく背負った#1を含む数字が良いなとも。

あと、#18といえば私の野球人生で最初に背負った背番号ですので、初心に帰るという意味でもベストなんじゃないかと思いました。おそらく私は年老いて動けなくなるまでこのチームでずっと野球を続けることと思いますので、人生の最初と最後に背負うのが#18というのも何かの縁じゃないかと。

もちろん、野球では#18はエースナンバーですから、単純にカッコ良いというのもあります。野球では、とくにNPBでは背番号#18は投手の、それもエースナンバーとして定着していますからね。背番号#18の選手を思いつくままに挙げてみますと菅野智之投手(巨人)や山本由伸投手(オリックス)、かつての松坂大輔投手(西武)や前田健太投手(広島)、田中将大投手(楽天)、三浦大輔投手(横浜)など、錚々たる顔ぶれです。このうち前田健太投手はMLB移籍後も#18を背負い続けていますね。また、今季限りで引退を表明した岩隈久志投手(巨人)もシアトル・マリナーズ時代は背番号#18を背負っていましたし、そのマリナーズで今#18を背負っているのは西武から移籍した菊池雄星投手です。

また、田中将大投手はニューヨーク・ヤンキースに移籍した際#18が空いていなかったので#19を背負っていますが、そのとき#18を背負っていたのが後にカープに復帰した黒田博樹投手でした。また、ダルビッシュ有投手は北京オリンピックに出場した際に日本代表のエースとして背番号#18を背負いましたね。

さらに過去に遡ってみると、伊良部秀輝投手(ロッテ)や佐々岡真司投手(広島)、郭泰源投手(西武)、桑田真澄投手(巨人)なども背番号#18を背負ってエース級の活躍をした選手です。

 

 なぜ#18がエースナンバーとされているかは、歌舞伎の十八番(おはこ)が由来だとか諸説あるようですが、確たる理由があるわけではないようです。おそらく長いプロ野球の歴史のなかで、#18を背負った投手が活躍して、その選手にあやかったり敬意を払ったりして他の選手が#18を選んで背負うようになって、ということを繰り返してエースナンバーとしての地位が築かれていったのではないかと思います。


ちなみにMLBでは#18がエースナンバーという意識は無いようで、普通に野手が#18を背負っていたりします。まぁMLBの場合NPBよりも選手の移籍が頻繁に起こりますから、そのとき空いている番号をつけるパターンが多く背番号に対する拘りは日本ほど多くはないのかもしれません。


背番号#18は小学5年生のときに最初に背負い、大学を卒業して最初に就職した会社の野球部で背負って以来3度目になります。

この番号を自分の新たな代名詞として育ててゆけたらと思っています。

 

私が中学生から高校生ぐらいだった80年代後半、渡辺美里が好きでよく聴いていたものでした。

後に90年代から00年代にかけて、安室奈美恵や宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、倖田來未といった女性シンガーが歌姫と呼ばれ一世を風靡しましたが、80年代の歌姫といえば個人的には渡辺美里じゃないかと思います。アルバムセールスもさることながら、当時10代でありながら西武球場(現メットライフドーム)を満員にするだけの動員力があって、スタジアムの女王と呼ばれていましたからね。
 
ただ、当時のティーンズたちの心を掴んだメッセージ性の強い歌詞には多感だった若い頃の私もまた強く共感したものでしたが、年齢を重ねるにつれて青春一直線のその歌詞があまりにポジティブで若くて真っ直ぐ過ぎて受け容れられなくなってしまい、いつしか聴かなくなってしまったんですよね。
とはいえ、私の青春時代を彩る想い出深いアーティストのひとりであることに間違いありません。
 
その渡辺美里ですが「My Revolution」をはじめ初期のヒット曲の多くをブレイク前の小室哲哉が提供していたのは有名で、他にも小室哲哉と同じくTM NETWORKのメンバーである木根尚登、さらには岡村靖幸、小林武史、伊秩弘将、TAKURO(GLAY)、小渕健太郎(コブクロ)といった錚々たる面々が楽曲を提供しています。
 
そんな渡辺美里への楽曲提供者のひとりで、プライベートでも彼女と親しくされているのが、この方。
 
月見れば 千々に物こそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど
 
・・・って、それは大江千里(おおえのちさと)でしたね。失礼しました。
この方です。
一瞬ケンドーコバヤシかと思っちゃいました。大江千里って今こんな感じなんですね。どうしても
この頃のイメージが強いのですが。
 
ちなみに、大江千里が提供したこの曲は、渡辺美里を代表するといっても良い曲のひとつでもあります。

 
あれから10年も この先10年も
君だけを ぼくだけを 愛したときを
今も誇りに思うよ
ずっと誇りに思うよ
 
個人的には大江千里自身の曲はあまり知らないのですが、たった1曲だけ、どうしても印象に残っていて頭から離れない曲があります。それがこちら。
 
https://sp.nicovideo.jp/watch/sm22597060

 

YouTubeにはありませんでしたがニコ動にありました。

 
塩屋というのは塩を売っているお店、ではなく神戸市にある地名です。
神戸の中心地より西におよそ10キロ、夏には海水浴場として賑わう須磨海岸の海岸線沿いにJR神戸線と国道2号線、それに山陽電鉄が並走していて、海岸の外れにJR塩屋駅と山陽塩屋駅が隣接しています。神戸方面から明石方面に向かう進行方向左手側に見える須磨海岸の美しさは格別で、私個人にとって想い出深い場所でもあります。この曲を聴くと、あの付近の情景が思い浮かぶんですよね。
 
この場所だけは彼氏と来るなよと
大人気ないことを言うぼくが嫌だよ
 
なんとなく分かる気がする、そんな気持ち。
たとえ離れ離れになっても、あの場所で過ごした想い出だけは、いつまでも新しい想い出に上書きしてほしくないって。
 
 
淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に 幾夜ねざめぬ 須磨の関守
 
百人一首の話が出たので、最後は須磨の地名が登場する歌で締めくくってみました。(笑)

私の青春時代だった80年代後半から90年代初頭にかけて、音楽業界はいわゆる「バンドブーム」と呼ばれる時代でした。

そのバンドブームの火付け役となったのは、間違いなくBOØWYだったと思います。邦楽ロックで歴史の年表を作るなら「BOØWY以前」と「BOØWY以後」に分けられるといっても華厳の滝、じゃなかった過言ではないといえるのではないでしょうか。

 

そのバンドブームのなか、80年代末期にキラ星の如くメジャーデビューを果たしたバンドがありました。

メンバー全員ド派手なメイクをほどこし、メイクと同様ド派手に染めた長髪をハードスプレーで逆立てて、それだけで身長が数十センチ嵩増しされるほど。そんな見た目のド派手さに違わず演奏の方も非常にパワフルかつアグレッシブ、ついでに普段の素行もまた色んな意味でド派手なそのバンドの名は

X(エックス)

 

もっとも、若年層の方々は単に「X」だけでは馴染みがないかもしれませんね。「X JAPAN」といえば確実にお分かり頂けるのでしょうが。

じつはアメリカにも「X」というバンドがあって、混同を避けることもあって世界進出の際に「X JAPAN」に改名したんだそうです。

 

ちなみに、アメリカの「X」の代表曲は↓こちら。

(B級)野球映画の名作「メジャーリーグ」および続編の「メジャーリーグ2」でチャーリー・シーン演じる主人公「ワイルド・シング」ことリッキー・ボーンがリリーフで登板するときの入場テーマ曲。曲のタイトルもそのまま「WILD THING」です。プロレスラーの大仁田厚が入場テーマ曲として使用していることでも有名です。

 

ちょっと話が横道に逸れましたので本題に戻りまして「X JAPAN」ですがメジャーデビュー当時のインパクトは凄かったですね。

TOSHIのパワフルなヴォーカル、HIDEのギターの確かな演奏力、そして狂気すら感じるYOSHIKIのドラム。ライブ映像を見て圧倒されたものです。

曲名の「X」はデビュー当時のバンド名と同じタイトル。

サビの歌詞「X 感じてみろ X 叫んでみろ」のところで両手を「X」の字にクロスさせてジャンプして叫ぶのは当時ライブでのお約束でした。

 

ちなみに、両手をクロスさせて叫ぶといえばこの方々も。

「バッツグーン」。あ、貼りつけた動画では例のポーズやってないです。

 

またまた横道に逸れてしまいました。もはやお約束というか当ブログの標準仕様ですね。(笑)

さて、再び軌道修正しまして、続いてご紹介するのはこの曲。

タイトルの「WEEK END」は「週末」と「終末」を掛けています。その前提で歌詞を見てみると、いろいろと生々しいです。

 

そして、X JAPANの楽曲で最も有名なのは、おそらくこの曲。

高校野球のブラスバンド応援でもお馴染みの「紅」ですが、サビの歌詞「もう二度と届かないこの想い」というのは応援ソングとしてはどうなのでしょう。想いが届かなかったらアカンやん。(笑)

 

続いては、バラードのご紹介。大学生ぐらいの頃、カラオケで何度となく歌った思い入れの深い曲です。

初期の名曲「ENDLESS RAIN」。大好きだった人のことを想うときに心にしみる曲です。

 

そして、最後にご紹介するのはこの曲。

小泉純一郎元総理がX JAPANのファンということで一時期自民党のCMにも起用された曲。1997年大晦日に解散コンサートを行ったX JAPANはライブ終了後に紅白歌合戦に出演、この曲を演奏します。つまり、X JAPANとして最後に演奏された曲ということになります。そしてこの4ヶ月後、HIDEは帰らぬ人となります。

 

Ah 傷つくことなんて 慣れたはずだけど今は

Ah このまま抱きしめて 濡れたままの心を

変わり続けるこの時代(とき)に

変わらない愛があるなら

 

個人的に、この部分の歌詞がグッと胸にきます。

万物流転、諸行無常が世の常とはいえ、それでも変わらない愛があるなら信じたいと願う気持ちを誰もが幾許かは心の奥底に持っているのかもしれません。

 

ところで「X JAPAN」といえばネットでこんな画像を見つけました。

思わず二度見してしまったこの画像、リアガラスにデカデカと貼られたステッカー、恐らく熱烈なファン?なのでしょう。

 

X Japan hibe forever

X Japan hibe forever

X Japan hibe forever

Σ(・ω・ノ)ノ!

 

ヒベって誰やねん!(笑)

もし仮に、この車の持ち主がわざとやっているんだとしたら、私は彼もしくは彼女のギャグセンスに完全に脱帽です。

夏を過ぎた頃、イトウさんはヒジを痛めたらしく、それもかなりの重症で、かつての速球は見る影もなくなっていました。
怪我をしたのは気の毒だと思いますが、同じポジションを競うライバルとしては、イトウさんには大変申し訳ないですが私にとってチャンスだと思ったのもまた正直な心境でした。そして手厳しいようですが、速球という最大の持ち味を失ったイトウさんはもうエースとしてのピッチングができなくなっていました。その事を監督やコーチもまた良く分かっていたのでしょう、イトウさんの出場機会はどんどん減っていき、それに比例して私がマウンドに立つ機会が増えていきました。

ブルースターズとの定期戦では相変わらず一方的に負けてばかりでしたが、イトウさんが投げるときより私が投げるときの方が明らかに失点が少なくなっていました。あの大柄な4番打者も、2回に1回ぐらいは打ち取れるようになりました。さすがに三振は一度も取れませんでしたが。

そんなある日。
学校を終えて、近所の本屋でマンガを立ち読みしていた私。
「18番!18番!」
背後で声がしたので振り向くと、そこにはブルースターズのあの4番打者が立っていました。
その人がジョウジマさんという名前だということを、私はレッドスターズの先輩から聞いて最近知りました。
おそらくジョウジマさんは私の名前を知らなくて、名前の代わりに背番号で呼んだのでしょう。

「ああ、やっぱり。レッドスターズの5年の左ピッチャーの子やろ?」
私の顔を見て、ジョウジマさんは大人びた笑顔で話しかけてきます。ジョウジマさんが私の顔を覚えてくれていることが、何だか不思議でした。

私は恐縮しながら、少しだけジョウジマさんと立ち話をしました。
「自分ええ投げるよなぁ、コントロールもええし。」
前回書いたとおり、私はブルースターズとの初対戦で初回にいきなり3者連続三振を奪ったわけですが、ジョウジマさん曰くブルースターズの上位打線が3人揃って三振に仕留められたことは過去になかったそうです。
「今のレッドスターズの6年はなぁ・・・イトウが頼りないからなぁ。」
「頑張れよ、ピッチャー。」
そう言い残して、ジョウジマさんは去っていきました。何だか照れくさい心境でした。

ジョウジマさんとは、後に中学の野球部で同じチームの先輩と後輩になるのですが。
私のことを気に掛けてくれていたのか、思えばジョウジマさんはいつも私を練習の相手に指名してくれていましたし、何かと可愛がってくれたことを覚えています。

次回に続く。

私が通っていた小学校の校区には、当時少年野球チームがふたつありました。

ひとつは私の所属するチームで、赤いユニフォームだったことからチーム名はここでは仮にレッドスターズとしておきます。レッドスターズは地元の体育振興会が運営するチームで、会費が安いことから入団希望者が多く、どちらかといえば勝敗よりも野球をのびのびと楽しみたいクチの子供たちが集まっていました。

もうひとつは青いユニフォームのブルースターズ(こちらも仮名です。)という私設のチームで、こちらは勝つことが大前提。所属選手の数は私たちブルースターズの半分ぐらいでしたが、少数精鋭で野球の上手い子供たちが集まっていましたし、傍から見る限りコーチの指導もレッドスターズより数段厳しかったように記憶しています。

そんな両チームは同じ校区内ということで定期的に交流試合をしていましたが、ハッキリ言って地力の差は歴然で、私たちレッドスターズ(仮称)はいつもダブルスコア以上の差をつけられて大敗していました。

そんなブルースターズ(仮称)との、私にとって最初の定期戦。
その日はイトウさんが休んでいましたので、私が先発マウンドに立つことになりました。
たとえイトウさんの代理でも、背番号は1番じゃなくても、先発マウンドに立った以上は私がエースです。
私は初回から気合い充分、相手の1番打者から3番打者まで三者連続三振に切ってとる絶好の立ち上がりでした。

続く2回表、ブルースターズ(仮称)の攻撃は4番から。
その4番打者は、中学生かと思うほどの長身と、がっしりした体格の持ち主でした。打席に立っただけで圧倒されそうな雰囲気に、私はマウンドで初めて戦慄を覚えました。

初球、外角低めぎりぎりを狙って投げます。

バッターの目線から最も遠い外角低めは、どのバッターにも共通の弱点だと私はコーチに教わりました。その外角低め、狙いに違わず我ながら良いコースに投げた、つもりでしたが。
相手の4番打者が長いリーチを活かしてバットを一閃させた次の瞬間、ボールは軽々とレフト線へ運ばれていました。打球は大きく切れてファウルになったものの、レフトの定位置より遥か後方に打球がバウンドするのを見て、私は強烈なパンチを食らった気分でした。

どのバッターにとっても弱点だという外角低めをあんなに鮮やかに運ばれたのでは、もう為す術がありません。その後は完全に萎縮してしまって、とてもストライクなど投げられませんでした。続く4球はすべて明らかなボール。私はほとんど逃げるようにフォアボールで歩かせてしまいました。後続の打者は何とか抑えたものの、
「おれって実は凄いピッチャーとちゃうのん?」
なんて天狗になっていた(勘違いも甚だしいイタイ奴っすね。)私は、完全に意気消沈していました。

次の3回表は、何とかゼロで抑えた私でしたが。
打順が一巡した4回表、私は目から火の出るような連打を食らい、味方のエラーもあって一気に6点を失いました例の4番打者にも、二度目の対戦で左中間を深々と破る文句なしの三塁打を食らいました

生まれて初めて袋叩きにあいノックアウトされた私。
ピッチャー交代を告げられてベンチに戻った瞬間、悔しさと屈辱とで涙がブワッとあふれそうになりました
結局、試合はそのまま大差で負け。
私が野球で完膚無きまでに叩きのめされた最初の経験でした。小天狗だった私の鼻は、真っぷたつに叩き折られました。

次回に続く。

私は独り暮らしが長かったこともあって、じつは料理にはそれなりに嗜みがあります

餃子も餡から作って綺麗に包みますし、コロッケはジャガイモ茹でて潰して作りますし、グラタンはホワイトソースから手作りしますし、意外にやればできる子なんですよ。


そんな私が、独身時代によく作ってた料理のひとつがお好み焼き。もちろん関西風です。(広島出身の方には大変申し訳ないんですが、広島のお好み焼きもそれはそれで美味しいとは思いますが、あれをお好み焼きだと言われると関西風に慣れ親しんだ身としてはどうしても違和感を覚えてしまうんですよね。)

ちなみに、何でお好み焼きをよく作ってたのかっていうと、コスパ良好で適度にお腹が膨れるという理由の他に、どうしても野菜不足になりがちな独り暮らしにあって手軽に野菜を摂れる料理という事情があったりします。なので、週末の定番メニューのひとつであると共に友人が遊びに来たときのお約束の接待料理でもあったんですよね。

男子の独り暮らしにホットプレートなんて気の利いたアイテムなどありませんでしたから、お好み焼きを調理するのは専らフライパン。焼き上がったら皿に乗せて切り分けて友人たちに食べてもらい、その間に次を焼いて、皿が空いた頃に焼き上がった新しいのを皿に置く・・・という椀子そばならぬ椀子お好み焼き状態でした。後半になってくると皆さんペースダウンするんですが、そこは容赦しません。(笑)

SHEN「おー、早よ食えや。次が焼かれへんやないか。」
友人ズ「何やねん、まだ焼くんかい。」
SHEN「当たり前じゃ、まだ生地も野菜もたっぷり残っとんねん。早よ食えや。」
友人ズ「いや、だいぶ腹一杯になってきてんねんけど。」
SHEN「ええから早よ食えや。」
友人ズ「わかった、食べるからちょっと待てや。」
SHEN「早よ食えや。」
友人ズ「ちょっと休ましてぇな。」
SHEN「早よ食えや。」
友人ズ「いや、だから・・・。」
SHEN「早よ食えや。」
友人ズ「・・・。」
SHEN「早よ食えや。」

ドSぶりを遺憾なく発揮する鬼畜な私。(笑)

 

ちなみに、私が作るお好み焼きは、キャベツともやしの他に竹輪とこんにゃくを微塵切りにしたものを入れます。

あと紅生姜と天かすは必須。紅生姜が入ってないと味のパンチが足りませんし、ふっくらした食感に焼き上げるには天かすが必須です。

あと、モダン焼きにしたい場合はさっと湯通しした中華そばまたは焼きそばを乗せます。

また、豚バラは先に焼いてしまうと縮んでしまいますので上に乗せます。このとき、脂身を円の外側にくるように乗せるのがコツ。こうすると、引っ繰り返したときに溶けた脂がお好み焼きの外側へ流れて脂っこくならずに済みます。

 

焼くときは片面2分半がベストで、ちょうどスーダラ節を最初から最後まで歌い終わった頃合いが丁度良いと何かのグルメ漫画で見た覚えがありますが、私はテキトーです。(笑)

あと、カットするときはピザのように8等分するのではなく、まず真ん中から半分に切って、その半分を縦に格子状に切るのが関西風です、などという決まりは無いと思うのですが、やっぱり昔から格子状に切ってましたし私の周囲でもそうですね。(逆に、広島ではピザのように切るお店が多いようです。)

 

これからの暑い時期、鉄板ものは敬遠されがちですが、汗をかきかきお好み焼きをハフハフ食べるのも悪くないですよ。

私が大学生の頃ですから30年ぐらい前の話になるんですけどね、当時私はDPEショップ(写真屋さん)でアルバイトしてまして。

仕事の大まかな流れは

お客さんが持ってきたフィルムを現像してネガを作る。

できあがったネガをもとに写真をプリント。

間違いやプリントミスが無いか、ネガと写真を1コマずつチェックして袋詰め。

お客さんに引き渡す際に袋から写真を取り出して間違いが無いか確認してもらい、精算。

という感じでした。フィルムとかネガとか言っても今の若い人はもう知らないですよね。

で、ネガと写真をすべて目視でチェックしてましたので、当然どのお客さんがどんな写真を撮ったのか、スタッフは全部分かるわけです。当時はまだ大らかというか牧歌的というか、今ほど個人情報やプライバシーにうるさい時代でもありませんでしたから
「今日あの(ジャニーズの追っかけしてる)女の子、来たで。」
「その(電車がいっぱい写った)写真、いつもの電車小僧やろ?」
「あのおじいちゃん、また山登り行ってきたんやな。」
みたいな感じで常連客ともなるとスタッフの間で顔と名前を認知されてたものでした。

で、そんな常連客のひとりに初老の外国人がいました。痩せていてひょろっと背が高く、牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけていて、おどおどした様子が挙動不審にさえ思える、どこか気弱そうな男性でした。
おまけにその外国人男性が持ってくるのは、決まって幼稚園ぐらいの年頃の幼い子供の写真。それも、ほとんど何も置かれていない殺風景な室内で撮った写真ばかりです。その男性自身の怪しさ(?)に加えて、前年には関東地方で当時世間を震撼させた連続幼女誘拐殺人事件が発生したという時代背景もあって
「あの外人じつはヤバい人ちゃうん?」
ってバイト仲間の間でちょっとした噂になっていました。

そんなある日のこと。
その日バイトのシフトが入ってたのは私だけで、店長は会議か何で本社へ出かけていたので、私は独りで店番をしていました。(今では防犯上の事情もあってアルバイト店員ひとりにお店を任せるなんてことはまず無いのかもしれませんが、当時は特に珍しいことでもなかったんですよね。)

そこへ、例の外国人が写真を受け取りにやって来ました。私は彼から受け取った控えをもとに現像済みの写真袋の束のなかから彼の写真を探し出して、いつものように子供がたくさん写った写真を外国人に見せて確認してもらってから代金を告げ、お金を受け取ります。
「ありがとうございました。」
と事務的な挨拶を告げて仕事に戻ろうとしたそのとき

「チョト、ミテクダサイ。」

店員と客との必要最小限の会話以外で初めて彼が口を開いたんですよね。彼はカバンから何かを取り出し、カウンターの上に置きました。


それは、数冊のアルバムでした。某フィルムメーカーのロゴが入った飾り気も何も無い、ただ写真を整理するためだけのそのアルバムは希望するお客さんに無料で配っているもので、彼にも何冊か渡しています。私は訝しがりながらアルバムを開きました。


そこには、彼が今までに撮りためてきた子供たちの写真がたくさん挟んでありました。けれども、そのアルバムはただ写真を整理して入れただけのものではありませんでした。

あるページには、おそらく新聞の折り込みチラシか何かに載っていたであろう、おもちゃの犬のぬいぐるみの写真を切り抜いたものが台紙に貼りつけてあって、その背中に重ねるようにして笑顔の子供たちの写真が貼られていて、子供達があたかも大きな犬に跨って笑っているように見えました。
別のページには、たくさんの風船の束に女の子がぶら下がっていました。
さらに違うページには、彼が作ったであろう折り紙の飛行機に何人もの男の子や女の子が乗っていました。
どの子供たちも、みんな輝くような笑顔をしています。

今なら、パソコンでフォトショップなんかを使えばこの手の画像は比較的簡単に合成できますが、当時は8ビット機が主流でパソコンの性能が今とは比べものにならないほど低く、そもそもパソコン自体ほとんど一般家庭に普及していなかった時代です。写真を切り取っては貼り、チラシを切り取っては貼り、このようなオリジナルアルバムを何冊も作ることがどれほど大変なことかは想像に難くありません。
「カワイイ、コドモタチ。」
彼は私に笑いかけながらそう言って、さらに続けました。
「ダケド、コドモタチ、カワイソウ。」
「オカアサン、イナイ。オトウサン、イナイ。」
「ワタシ、コドモタチ、カワイイ。」
聞けば、どうやら彼は孤児院か何かの施設に勤めているとのことでした。素性を知らなかったとはいえ、そしてふざけ半分とはいえ、さも彼が怪しい人物であるかのように仲間内で下世話に揶揄していた自分自身を、私は心の底から恥ずかしく思いました。果たしてそんな私に、目の前の男性が嬉しそうに差し出すお手製のアルバムを開く資格があるのでしょうか。子供たちのまぶしい笑顔が、何だか見てはいけないもののようにすら私には思えました。
「イツモ、シャシン、アリガト、ゴザマス。」
そう言いながら去って行く彼を、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、いつもより深く頭を下げて見送りました。その一件があってからまもなく、バイト先で彼を揶揄する人間は誰もいなくなりました。

あれから30年の歳月が流れ、あの彼が丹精込めて作ったアルバムのなかで輝くような笑顔を見せていた子供たちも今では立派な大人に成長していることと思います。彼らが、彼女たちが、あのときの清らかな笑顔のまま大人になってくれているといいなと心から思います。

そしてあの外国人の男性、確かめる術はもうありませんが、もしご健在ならかなりの高齢になっておられる筈です。今でも身よりのない子供たちの世話をしながら、どこかで元気に暮らしておられたらと願わずにいられません。

この人のことを最初に知ったのは高校生ぐらいの頃でした。

カーラジオだったか自宅でつけっぱなしにしてたラジオだったかにデビューしたばかりの彼女がプロモーションで出演していて、日本とソ連のハーフだって言ってたのを珍しいなと思いつつ聞き流してたのを何となく覚えていましてね。

 

彼女のデビュー曲は有名ですよね。ちなみに、デビュー当時は「川村かおり」名義でした。

愛を下さい、っていうサビのフレーズは聴いたことがある方も多いのではないでしょうか。

ちなみにこの曲、作詞と作曲は辻仁成で、のちに自身のバンドECHOESでもセルフカバーしています。

また、2000年には菅野美穂が自身がストリートミュージシャン役で主演するドラマの役名「蓮井朱夏」名義でもカバーしています。

 

その川村かおりを代表する曲といえば、コレでしょうね。

今から11年前、彼女は亡くなった母と同じく乳癌を患い、そして母と同じ病で若くして大空に翼をひろげて飛んでいってしまいました。

心から哀悼の意を表します。

 

そんな彼女の曲で、とくに有名な曲というわけでもないんですが、妙に心にしみる曲がありまして・・・。

 

ちょっと、泣いてしまいそうです。

しばらく放置が続いてこのまま尻切れトンボになるのではとご心配された方、お待たせしました。(待ってた人いるのか?笑)

 

春が来て5年生になると、私たちは初めて上級生である6年生と一緒に練習をするようになりました。

6年生のピッチャーであるイトウさん(仮名)とも、このときが初対面でした。
「お前が5年のピッチャーか。頑張れよ。」
って、初めての練習でふたりでブルペンに立ったときにイトウさんがそう声をかけてくれたことを覚えています。

6年生だけあって、イトウさんはさすがに速い球を投げていました。同級生のクマダくんが投げる球も速かったですが、間違いなくそれよりもさらに上でした。
でも、そんなイトウさんには致命的な弱点がありました。それはコントロールが悪く、ストライクを投げるのに四苦八苦していること。(荒れ球が持ち味ともいえますが。)

申し訳ないけど、そんなイトウさんのピッチングを見て私はピッチャーとして少しも負けているとは思いませんでした

その日のシートバッティング。
まずは6年生が順番に打席に立ち、5年生が守ります。ピッチャーはもちろん私。
イトウさんの速球に慣れた先輩たちは、決して速いとはいえない私の球に皆目タイミングが合わず、また丁寧に低めにコントロールすることを心掛けた私の術中(?)にハマって内野ゴロと三振の山を築いていきました。

やがて、イトウさんに打順が回ってきます。
このときばかりは私も気合いが入りました。負けてたまるか!っていう気分でした。
もっとも、イトウさんは打撃があまり得意ではなかったようで、私はあっさりイトウさんを三振に仕留めることができました。まず第1ラウンドは私の勝ちです。

続いて5年生が打ち、6年生が守ります。ピッチャーは当然イトウさん。
さすがにイトウさんの速球は5年生にはなかなか打ち返せませんでしたが、制球に難があるイトウさんは3人に1人ぐらいのペースで四球を与えています。この日に限っていえば、イトウさんと私のピッチングのどちらが上かは誰の目にも明らかだったのではないでしょうか。

そして、打順が私に回ってきました。
私は迷うことなく左打席に立ちました。

前に書きましたが、当時の私は左投げ右打ちで、左打ちの練習を始めていたとはいえまだまだ未完成でした。でも、何故だか自分でも良くわからなかったのですが、そのときの私は左打席にこだわったんですよね。今思えば
「あえて自信のない方の左打席でイトウさんの球を打ってやる!」
といった意地みたいなものがあったのかもしれません。そして・・・。

初球、私は絶妙のセーフティバントをピッチャーとショートのサードのちょうど中間地点に転がしました。もちろんセーフで1塁に生きます。
長い野球人生のなかで、あれ以上のバントヒットはその後出ていません。今思い返してみても、おそらくあのバントは私の人生で最高のプッシュバントだったことと思います。その後一度も小学校の打撃練習以上のバントをできなかったというのは悲しいものがありますが。(笑)

こうして、私が勝手に脳内で設定したイトウさんとの第2ラウンドも完勝。
そしてこの日、私は右打席を封印することを決めました。正真正銘左投げ左打ちの私が誕生した瞬間でした。

練習後に、5年生と6年生の全員にユニフォームが配られました。私が人生で最初に与えられた背番号は、希望していた1番ではなく18番。背番号1番は、当然のことながら6年生のイトウさんでした。
30人以上いる6年生のおよそ半分を差し置いて若い背番号を貰えたというのに、また6年生を差し置いてエースナンバーが貰えるハズもないのに、私は背番号1番が貰えなかったことを本気で悔しがっていました。
なんて生意気で不遜なヤツだったんでしょうね。(笑)

次回に続く。