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「今年は好きな人に会える年」
「今年は好きな人に会いに行く年」
なんとなくそう思った。
ひこちゃんが就職し
肩の荷が降りたことも大きく
今まで生きてきた中で
初めてこんなに自己投資をした。
「好きな人に会う」のは
やはりお金がかかる。
でも
不思議と
毎月その機会に恵まれた。
どれも印象深いけど
その中でも特にそう思うことは…
まずは
2代目「うゆ」を迎えたこと。
これがまた自己主張が激しい
天真爛漫なアホ。
みるくがいかに
空気を読むオンナだったか
我慢をしてきたか
本当によく分かる。
そして
内村航平君の引退試合に行ったこと。
ただ
この時のラインが既読にならず
違和感を覚えた。
尾崎豊展に行ったことをメールしたけど
返信がなく
この違和感は確信に変わった。
「何かあった…」
予感的中なんてもんじゃなかった。
3/12
脳出血と診断され入院。
経管栄養のチューブを挿入。
4月末
リハビリ目的で転院。
5月初旬
弟君から連絡あり状況を教えてもらった。
以後、今もなお、
弟君が頻回に連絡をくれる。
大学病院からリハ目的で転院した病院は
家族のみ1日1回面会可能のため
可能な範囲で
弟君とお母さんが面会に行ってた。
ただし
反応はその時によると教えてもらっていた。
弟君とお母さんのことを
なんとか認識はしても会話にならない
と聞いていた。
8月
院内クラスター発生によりコロナ感染。
感染後数日で急変し大学病院へ救急搬送。
人工呼吸器装置となりICUに入院。
約1週間後、呼吸器を離脱し
その1週間後、一般病棟へ転棟。
さらに約1週間後、
リハ目的の病院に再度転院。
しかし
クラスター発生のため面会禁止。
弟君もお母さんも本人には会えない。
8月30日
弟君が一か八かで
ケースワーカーに
私の記憶があるか確認を依頼してくれた。
「お友達のペコさん、知ってますか?」
「ペコちゃん、知ってますよ。
ひとつ上の仲良しのお友達。
8月31日が誕生日。
もうすぐ誕生日。
でも俺こんなんだからなぁ。
困ったなぁ。」
ゆっくりながらもはっきりと答え
ケースワーカーは
初めて長文を話すこと
記憶していたこと
日時の感覚が全くなかったのに
この時はしっかりしていたこと
これにびっくりして弟君にすぐ電話。
それをラインで教えてもらい号泣。
例え、たまたまだとしても、
嬉しかった。
1日早い誕生日プレゼントだった。
でも
その後の本人から私の話はなし。
その瞬間だけで忘れてしまったのだろう。
9月
なんとか食事摂取が可能となり
経管栄養のチューブを抜去。
リハは拒否もありなかなか進まず。
面会禁止が続き認知機能の改善もなし。
出会って初めて
「お誕生日おめでとう」と言えなかった。
10月
弟君は在宅療養か施設入所か
悩みに悩み施設入所を決断。
11月初旬
施設入所。
1回あたり約10分の面会可能。
しかも家族のみと制限はなく
1日に何回行っても可能。
11月27日
やっと会えた。
私のことは記憶にあったけど
当然ながら
表情と口調は異なり今までとは全く違う。
それでも大切な人。
今までもこれからも
大切な人であることに変わりない。
片道1時間、往復2時間、かけて
10分のために行く。
高速を使えば半分ですむから
時間がない時は高速を使用している。
反応はその時による。
今のところは
比較的すぐに
「ペコちゃん」と認識はしてもらえる。
ひこにゃんのことも覚えており
「ひこちゃん元気?」
と言ってくれる時もある。
でも
調子が悪い時もある。
視点が定まらず混乱した様子で
「分からん。」「何でだ。」
と繰り返す時は
約10分の面会時間のほとんどを
「大丈夫だよ。」と言いながら
指先や手首付近や頬に触れている。
こんなことになると思っていなかった。
出会って31年
こんな日が来るとは思ってなかった。
いつも誰よりも近くで
見守ってもらった。
支えてもらった。
助けてもらった。
私に何ができるんだろう。
今までの罪滅ぼしと自己満足で
毎週会いに行ってる。

