新年度、と聞いた時にどんなことを思い浮かべるだろうか。

 

入社式、リクルートスーツ、桜、クラシック(競馬)・・・

 

総じて新年度が持つイメージはプラスなのではないだろうか。何か日本中が浮足立って、春本番に向けていよいよスタートが切られるというそんな時期。

 

しかし、僕は今、ルワンダで全く逆の体験をしている。

 

「空白が空間を埋め尽くしている。」

 

色々考えたが、どうやらこの言葉が一番しっくりくるようだ。

 

4月2日、自分の同僚が離任した。

 

彼とは全く同じ日に着任して以来約1年間、同じ執務室(3人部屋)で勤務し、同じアパート(隣室)に住み、仕事でもプライベートでも一緒に行動することが多かった。

 

何かあれば気軽に彼の部屋に行き、話した。残業をしている時に馬鹿な話をしたこともあった。これほどまで深い人間づきあいをしていることに驚くこともあった。

 

 

 

でも、空港に見送りに行く時もまだ現実感が無かった。

ゲートの向こうに消えても、戻ってアパートの彼の部屋をノックすればひょっこりと現れるような感覚だった。

 

しかし、月曜日仕事に行ってみると彼の机は綺麗に片づけられていた。

 

束になった書類、私物、食べ物が入った袋など、全てが消えていた。

 

そこで初めて、もう彼がいないのだという事実が現実のものとして自分の前に立ちはだかった。彼はルワンダという世界から出ていき、自分はそこに残った。

 

他の人が見れば、綺麗に片付いた、何もない空間だ。

 

ただ、僕にとっては、空白が空間を埋め尽くしている。

 

何もないのではない。今まであったはずのものがなくなり、そこにいたはずの人がいなくなったことによって発生してしまった空白。それが執務室を埋め尽くしている。

 

そこで、「見送る側は辛い」ということに人生で初めて気付いた。

 

見送られる側、つまりある世界を出ていく人は、また別の新しい世界に入っていくわけだ。

 

だが、送る側はそれまでいた世界に留まる。

送られる側の人がいなくなったことで生じた空白を抱えた世界に、留まらねばならない。

そして、その空白と向き合わねばならない。

 

今まで、僕は「送られる側」だったことがほとんどだ。

 

大学生になって実家を出て、東京という新しい世界に入って行った。

家族は、一人息子がいなくなった空間と向き合ったのだろう。

 

社会人になって入った会社。1年で退職した。

同期は、親友がいなくなった社員食堂でひとり、ご飯を食べていたのだろう。

 

遠距離恋愛で東京に残された恋人。

一緒に過ごした部屋から消えた彼氏が残した空白を、ひとり見つめていたのだろう。

アフリカに来て辛いのは自分だと思っていたが、もっと辛いのは相手の方だったのかもしれない。でも、僕はそれに気付けなかった。

 

何かが消えた「空白」と向き合わねばならないのは、人間にとって辛い行為だ。

 

幸か不幸か、今まで僕はそういったものから逃れて生きてきた。

 

しかし、今回3人の仕事部屋で仲の良かった2人がほぼ同時に離任したことにより、

これ以上ないほどはっきりと、人が消えた空白と向き合うことになった。

 

送られる側が見出す新たな世界と、送る側が向き合う空白の世界は、全く違うものに見えて、実は表裏一体の関係上にある。何故なら、送られる人がいるということは、必ず送る側に立つ人がいるからだ。

 

もし、一般的な会社のように、同じタイミングで新しい人が入って来たならば、

このように感じることはなかっただろう。

 

でも、一方で今までほとんど立ったことがなかった送る側の立場を経験することができて良かったと思っている。何故なら、次に送られる側になった時、送る側の人の気持ちを考えることができるからだ。

 

「空白が空間を埋め尽くしている。」

 

しばらくそんな状態と向き合ってみることにしよう。