季節感の全くないまま、11月を迎えた。
ルワンダという国は自分の中で目新しさを失い、自分が行動できる範囲の狭さに呆れているのが現状だ。自分の行動範囲といえばおよそ1キロの中に限定されている。ウムバノホテルのテニスコート、近くの商店、そして大使館だ。この3つをひたすらぐるぐるまわるだけ。一見自由があるように見える。しかし、それは偽りの自由だ。どこへでも行けるようにみえて、実はどこにも行けない。これこそが娯楽が極端に少ない発展途上国勤務の罠なのではないかと改めて感じた。
本来、日本での自分はフットワークが軽く、ひとりでいろんな場所に出かけていた。特に、ルワンダ赴任前は横須賀、筑波、日光などに電車で、そして千葉、府中、平塚などには自転車で出かけた。サイクリングの醍醐味はなんといっても自らの足で進んでいくことにある。自分が力を入れて漕いだその一歩で確実に前進することができるのだ。そういった一歩一歩の距離を積み重ねていくと、今までに出会ったこともない新たな土地が自分の目の前に現れる。
「遠くまで来た」
その事実を前にして湧き上がる満足感と達成感、そして新たなものを前にした刺激。行く場所がどこであっても、サイクリングを終えて目的地に達した時の心地よさに変えられるものはない。そしてその夜は適当に近くにあるビジネスホテルや安い旅館に泊まって風呂に入り、大き目のビールを飲む。それだけで大満足なのだ。そう思えば、サイクリングとはなんと素晴らしい趣味なのだろう。今になって自分がいかにサイクリングを愛していたのかを実感する。
白子にサイクリングに行ったとき、東京から5時間漕いで「白子町」と書かれた看板の背後に広がっていた、どこまでも青い空、そしてその下で風に揺られるススキ。坂もなく、どこまでも続く一本道に最後のラストスパートをかけ海辺を目指した。
そして、地平線に沈む太陽を眺め、空の変化を楽しみつつ屋上の大浴場に浸かる。おおよそ7000円ほどしかかからなかった旅行だが、ここルワンダにおいては7万円ほど出しても楽しみたい夢物語だ。あの楽しみを2年間も諦めなければならないということの意味を、ここに来て初めて感じた。
サイクラーである時間は、どこまでも自分らしい。
自転車に乗って旅をしている時こそ、一番自分らしいと感じられるの。テニスをしている時より、競馬をしている時よりも、自分らしいと感じることができる。僕は、サイクリングの大切さを失ってみて初めて気付いた。また、サイクリングはその準備・計画も含めて楽しい。どの日にどこに行こうかと計画する。当日の天気予報を何度も確認し、どのルートを通れば坂などを回避し、かつ美しい景観に出会うことができるのかを詳細に考える。そして導き出した答えが合っていた時の喜びも大きい。そう、実際に走るということは、準備や計画の答え合わせをする行為でもあるのだ。
まだ朝の冷え切った空気の中、準備支度を初めてゆっくりと漕ぎだす。大抵土曜日か日曜日に出発するので、休日の人気の無い都会の中を駆け抜けることができる。そこまでも澄んだ空の下で、グレーの影となった高層ビルの間を縫うように真っ赤なボディが走り抜けていく。皇居辺りの東京の中心を走り抜けるのも、サイクリングの醍醐味だ。
しばらく行くと、大きな国道に出る。あまり変わり映えのしない景色が続き、道沿いに見られる店もファストフード店やコンビニを中心になるが、何と言っても大通りの楽しみはスピードが出せるということ。平坦で道幅も広いのでギアを最速に上げてイッキに加速する。それと同時に今まで7割ほどの力しか出していなかった全身の筋肉を解き放ち、躍動させる。だんだんと息が荒くなるのと同時に自転車はどんどん加速して車の速度に迫っていく。これを1時間ほど続けると程よい疲れとともにコンビニに立ち寄り、購入したスポーツドリンクを喉へと流し込む。
日本にいるわけではないのに、誰よりも強く日本でのサイクリングのことを思っている。国道を逸れると、東京からは想像もできないほどの田舎道に入る。しかしそこは日本。道はどこまでも舗装されており、のびのびとした田園風景の中、車も気にせずにゆっくりと走る。今までのハードランを癒すかのように、力を入れずに、ギアを軽くしてまるで空中を漂うように走る。周囲では季節の花が咲き、木々が揺れる。さあ、目的地も目前だ。
思えば思うほど、自分がいかにサイクリングを愛していたのかがわかる。
だが、それはここルワンダでは敵わぬ夢でしかない。ルワンダは呆れるほど坂が多く、バイクの数も多い。ここがサイクリングをするのにベストな場所だとはだれも思わないだろうし、ケガをするリスクも高まってしまう。このサイクリングという楽しみを奪われた代償は、あまりにも大きい。