※この旅行記は、インドを旅行中に実況中継的に書いているもので、誤字脱字や文のつながりがイマイチな場合がありますが、ご了承ください。追って完全版を出しますので、そちらも併せてご覧ください。
夢の世界から僕を現実に引き戻したのは、意外にも目覚まし時計の音だった。この音で目覚めるのは3日ぶりだ。インドに来てからは時差ボケの影響やら鶏の声やらで何かと自然に起きることのほうが多かった。ゆっくりと体を動かしてみて体調を確認する。うーん、どうも熱っぽい。目の奥の痛みもあまり取れていないことから、まだ体調はそれほど回復していないようである。あれほど寝たのにそれが回復に結びつかなかったことはちと悔しい。だがとりあえず起きてみないと全容を掴むことはできないのでベッドから起き上がってストレッチしたり軽く歩いてみたりする。それほどダルくはないし、昨日のフラフラしたような違和感は取れているものの、いつもの旅行先の朝のようなシャキッとした感じはなかった。ただ、食欲自体はあったのでそのまま食堂に向かって食券を出すと、インド式朝食か、アメリカ式朝食どちらが良いか聞かれた。そもそもアメリカ式朝食なんてあるのかどうかが疑問だったが、せっかくインドに来ているのだからとインド式の朝食を注文した。
するとまず、バナナの葉のうえに、少し柔らかめのおかゆのようになったライス、緑色のソース二種類が載ったものが来た。緑は緑でも黄緑色の食べ物だ。日本ではあまりお目にかかることができないものだったので、おそるおそる食べてみるととてもしょっぱかったが美味しかった。おかゆとよく合うのでアッと言う間に平らげてしまった。インド人は、朝はとても軽めなのだなあと思っていると、レストランの給仕が2品目を運んできた。どうやらインド式朝食はコース料理のようにひとつ食べ終わると次がくるという方式のようだ。2品目は大きなナンの中にじゃがいも、卵などを中心に野菜類が挟んであるクレープのようなものだった。これにスパイシーなスープがついてくる。スープはしゃれにならないほど本当にスパイシーで、インド人は朝からこんなに辛いものを食べるのか、と驚かされた。ちなみに注文したコーヒーは、今日も激アマだった。これを食べ終えると、最後にパンとまた別の種類のスープが出てきて終了となった。アメリカ式朝食がどんなものかわからないのだが、インド式朝食にはとても満足することができた。
食事を終えても体のだるさはあまり変わらなかったので、フロントへ行って体温計があるかどうか聞いた。しかし、そんなものはないと言われて代わりに、「もし体調が悪いならお湯を飲みなさい。そうすればよくなるよ」と言われた。そのスタッフの話によると、寒いところから暑いところに来て体調が悪くなっているのだから、お湯を飲んで体を温めれば万事うまくまわるのだという。本当にそんな簡単にいくのだろうか、とは思いつつも熱湯に近いものを覚ましつつ200mlほど飲み干した。するとだ!みるみるうちに今まで感じていた体のだるさやねつっぽさがどこかへと行ってしまい、予定通りに今日の観光に出ようと思えたのだった。やはり、どこまでいっても郷に入っては郷に従え、である。
もともと今日は、ティルバンナマライ近郊のジンジーという名前の町の近くにある、「ジンジー城塞」を観光するつもりだった。このジンジー要塞は12世紀になってから作られ、16世紀に支配者が変わるのと同時に作りも一新され、その後はインドを支配した欧米諸国の手に渡って、20世紀からは無人の状態のまま放置されているというものだった。ここに向かうのには、ローカルバスを使わなければならない。ホテルのスタッフにどうやって行くのか聞いたところ、ふたりの女性はその方法を巡って少し口論のようになってしまい、逆に聞いたこちらが気まずくなった。どうやらインド人は議論になるとなかなか引かないようである。
まず、ホテルの近くにあるバス停に向かった。バスターミナル自体はかなり遠くになってしまうが、そこまで行かなくともより簡単にバスに乗れるということなので、その簡単な方に行くことにした。そのジンジーという名前の町はチェンナイとティルバンナマライを結ぶ幹線道路上にあるらしくて、チェンナイに向かうバスならば全て停車すると言われた。ただ、そもそもの問題なのだが、バスの行先表示がタミル語になっているため、どのバスがチェンナイ行きなのかすらわからない。仕方がないので、近くで待っていた比較的若いお兄さんに聞くと、「俺が教えてやるから待ってな」と言ってくれた。しばらくして、昨日載ったような緑色のガバメントバスが入ってきたのを見て、お兄さんは「あれだ、乗りな!」と言いながら見送ってくれた。改めて南インドの人は優しいと思った。
乗ったバスは、Express busといって、止まるバス停が少ない急行タイプのバスだった。見た目は全く同じなのに、小さくEXPという紙が貼ってあるか否かで違ってくるようだ。そして毎度のことながら、バスの運転は荒い。基本的にこちらのルールとして徐行などは存在せず、いかにして目の前を走る車両をどかすかとういことが重要なのだ。だから例えば前に低速のバイクなどが走っていれば手あたり次第クラクションを鳴らしてとにかく脇にどかせようとする。もっとゆっくりと車両、例えばトラクターなども走っており、それらを追い抜くことももちろんあるのだが、そういう時は対向車線にはみ出て抜かすため、前方からやって来る車に接近を知らせるという意味でもクラクションを鳴らすことがあるのだ。制限速度も、交通ルールもあったものではない。ふと、バスの運転席をのぞき込んでみるとそこに本来あるはずの速度計がなかった。速度計無しではスピードリミットにも気を付けようがない。おそらく、インドの運転手は速度の概念などなくて、「ゆっくり」「速い」「ふつう」などの基準で車を運転しているのだろう。
目的地であるジンジーまではだいたいバスで1時間と地球の歩き方には書かれていたが、運転手がかなり飛ばしたために30分そこそこで到着してしまった。ありがたいのやら、恐ろしいのやら。
さて、ジンジーからジンジー城塞に行くまでにはここから更にオートリクシャで2キロほど行かなければならない。バスを降りてオートリクシャを探したのだが、そこはまさに典型的なインドの田舎だった。排気ガスをまき散らしてバイクが次々と流れるようにやってきては消えていく。人々は道路脇にたむろして何かを待っている。相変わらずゴミはそこらじゅうに転がっており、誰もそれを気にも留めない。一刻も早く立ち去りたくなるような街角の景色に変わりはないが、この景色にも少しだけは慣れてきたようだ。そういえば、おそらくこの南インドは今まで自分が旅行した場所の中で一番と言っても良いほど発展が遅れている。人々の衛生意識、インフラ、物価水準のどれを取っても日本から来た人が見れば驚いてしまう。世界の様々な国を旅行したことがある自分でさえも、チェンナイに着いた時はこんな国を10日間以上も旅行するのか・・・そもそも何故インドを選んでしまったのだ、と落胆したほどである。
しかし、いったん旅をすると決めた以上はそれを完了するのがトラベラーの務めだ。気を取り直して近くにオートリクシャがたむろしている場所へと向かう。ここは取り立てて料金交渉する必要すらなかった。地球の歩き方にはジンジー城塞までだいたい50ルピーと書かれており、今回提示された値段は50ルピーだったので大人しくそれに従うことにしたのだ。
リクシャの中で考えていたのは、そもそもここは観光地らしいのだが、一体誰が訪れるのだろうかということ。チェンナイに来てから外国人観光客らしき人物など右手一本で数えられるほどしか見ていないし、インド人が観光するのかという疑問がそもそも残る。田園風景の中を5分ほど走って現れたのは、3つの大きな岩山だった。よく見るとそれぞれの山の頂上には神殿のようにも見える建物があり、それがただの岩山なのではなく、城塞なのだということがわかる。入口の所まで行くと、白人女性の旅行者が一人いた。そしてなんと彼女は2人ものインド人ガイドを雇っているではないか。服装などを見ても典型的なバックパッカースタイルで、途上国を旅行することに慣れているようである。少なくとも旅行者がいることに安心して、チケット売り場へと向かった。
ここの入場料は100ルピー。そして1つのチケットで3つの岩山全てに登ることができるそうだ。ただ、この旅行記を割と涼しい場所で読んでいる人には想像できないかもしれないが、ここは常夏のインド、しかも気温はおそらく感覚的に32度を超えている。岩山には階段があり、昨日の山登りほどハードではないのだが、それでもかなり急で相当な体力を消費する。更にこの城塞は太陽光を遮るものが途中の2つの休憩所を除いてなく、照り付ける日差しをまともに浴びながら登らなければならない。登り始めて1分もしないうちに汗がダラダラと流れてくる。ここぞとばかりに持参した折り畳み傘を広げて日差しを遮るが、それでも流れる汗を止めることはできない。ようやく一つ目の休憩所に到着すると、先行していた白人女性とインド人ガイドが休んでいるところだった。しかしまだ先は長い、僕は水を一口飲んでからすぐに出発した。
だいたい15分ほど登ったところでやっと頂上らしきところに到着することができた。もう、シャツは完全に汗でびしょびしょで、喉もカラカラである。こんな時は冷えた炭酸系飲料をイッキに飲みたいところだが、当然山頂にそんな店はなく、手元のぬるくなった水をゴクゴクと飲んだ。
そして山頂は山頂でかなり涼しかった。特に廃墟となった建物の影に入ると風が吹き抜けて火照った体を冷やしてくれる。しばらく散歩がてら頂上のスペースを歩いてみると、インド人カップルに何組な遭遇した。みな20代そこそこの若いカップルである。よくよく見るとカップルたちは一目につきにくい影のような場所におり、親し気な様子で話したり、キスしたりしている。そうか、と合点がいった。ここはどうやらカップル達が一目をしのんで会う場所、もしくはデートで来るような場所なのかもしれない。男性は襟付きのシャツ、女性はインドの伝統衣装サリーという恰好だ。
インドでは公共の場で男女があまりイチャイチャするのを見たことがない。その代りにこういった場所が用意されているのかもしれない。ただ、ガイドブックにはそんなことは全く書かれておらず歴史上で重要な役割をはたしてきた城塞とだけ書かれているため初めてやってきた僕は少しびっくりしてしまったのだ。そしてこの城塞は上の開けた部分がかなり広くなっており、そこには教会のようなものの跡地などがあった。しばらく探検していると疲れを感じた。どこか横になって休める場所がないものかと探し回っていると、石造りの教会廃墟があった。全体的に影が多くてどこで休もうか、と探していたところとんでもないものが目に飛び込んできた。なんと、中年のカップルが、通常人前でしてはいけない行為をしていたのだった。女性がかがんでおり、男性が後ろから・・・僕は一瞬で目を逸らしてその場所を離れたのだが、彼らも見られてしまったことをマズいと思ったらしくてすぐに終えてどこかへ去ってしまった。もしかすると、ここは事情のあるカップルが情事を行うための場所なのか・・・とさえ考えてしまう出来事だったが、周囲に他に人はおらずに、ちょうどよい場所を見つけたためしばらくそこで横になることにした。
時刻はちょうど12時30分になろうとしているところで、一日の中で最も暑い時刻だ。周囲を見渡しても暑さで一面が白く霞んで見える。気温が高すぎてこうなっているのか、それとも空気が埃で汚れているからこうなっているのかはわからないが、東南アジアの暑い国を訪れた時に度々みられる現象だった。そんな下界の暑さなど全く知らぬかのように石でできた教会の床はひんやりとして冷たい。僕は肩に掛けていた鞄などを降ろして床に寝転がってみた。すると、背中を通して石の冷たさが伝わって来た。おそらく、これまでも何十年、何百年に渡って、この酷暑のインドに生きる背中を冷やしてきたであろうこの岩に、つかの間の旅行者である自分も癒されたのだった。
静かなる昼下がりの教会で、そっと目を閉じると浅い瞑想の世界に入る。インドでは、瞑想することが善しとされていて、ティルバンナマライにある寺院でも瞑想を行っている人が多かった。瞑想というからには人生の大きなテーマである生や死について考える必要がある。僕は自分が生まれてから今に至るまでのことを、時間を追って思い出すことにした。ここでは何ら焦る必要なんてない、時間なんていくらでもある。まず、小学校時代から、そして中学校へ・・・と、瞑想の世界に入っていたところ、周囲がいきなり騒がしくなった。一体何事かと思ってふと目を開けると周囲にいくつものインド人の顔があった。目を閉じていたからこんなに近くにいるとは気づなかったが、彼らはすぐそばまで来ていたのだった。
“Hello, are you okay?”
そのうちの一人が僕に向かって話しかけた。声のかけ方からして、僕が暑さで参ってしまったと思ったようである。大丈夫だよ、と返事して立ち上がるとそこにはおおよそ10人くらいの若者が立っていた。しかし、ガラの悪い奴らにからまれてしまったというよりは、フレンドリーな若者集団に歓迎されたという雰囲気だった。英語で話してみると、彼らはこの近くの大学の学生だといい、理系の専攻ということだった。たしかに顔つきはまだあどけなさが残っており、社会人というよりは学生だった。
彼らはこんなところで寝ていた日本人にかなり興味があるようで、何故ここにいるのか、どこの国の出身か、結婚しているのかなど矢継ぎ早に質問を浴びせた。さすがに理系の大学生ということもあり、他のインド人よりもかなり英語は通じるものの、彼らの話す言葉が分かりやすかったかと聞かれると決してそんなことはない。彼らが言っていたことで2つ興味深いことがあったので、それらについて書いてみようと思う。
1つ目は、僕の肌の色が彼らに比べてかなり白いのを見て「いくら出せば肌の色を交換してくれるか?」と質問してきたことである。(イ:インド人学生 開:筆者)
イ「とにかく俺たちは黒いのが嫌なんだよ!笑」
開「そんなこと思う必要なないよ、黒だっていいじゃん。それに神様が定めた運命でしょ?」
イ「でも、マイケルジャクソンはもともと黒かったけど、白くなったよ。」
開「よく知ってるね、でも俺は黒いマイケルジャクソンの方が好きだよ。それに彼は、白くなってからおかしくなってしまったじゃないか。」
イ「なるほど、たしかにそうだね笑」
南インドの人々は北に比べてかなり黒くて、ほぼ黒人と同じくらいの黒さの人もいる。しかし、彼らが白い肌に対して憧れを持っていたというのは意外な事実だった。やはりイギリスの植民地であったインドでは、「白=白人=支配者→自分たちよりも優れたもの」というイメージ付けがなされてしまっているのだろうか。
2つ目は、今何が欲しいか、と聞いたところ「仕事が欲しい!」と答えたことである。
開「いま、欲しいものってある?」
イ「俺は仕事が欲しいよ。」
開「え、なんでそんなに現実的なの?笑」
イ「インドでは、大学を卒業しても仕事が無いんだ。だから、失業率がものすごく高くて、少ない仕事をみんなが争うみたいな感じになってる」
開「じゃあ、仕事をもらえるとして、どんな仕事がほしい?」
イ「もう、仕事なら何でもいいよ。安定してて、お金がもらえる仕事ならね」
開「でも、エンジニアリングの知識を生かせなくてもいいの?」
イ「もちろん生かしたいけど、そんなこと言ったら食べていけないよ。Kai,インドで会社を作って何かビジネスをやってよ。そうしたら俺たちを雇用してほしいな笑」
インド人で、工学やコンピューター関連の知識があれば引く手あまただというイメージが日本人の頭の中にはあるかもしれない。しかし、ここ南インドでの現実はそれほど甘くなかった。大学を卒業してもいきなり正社員の仕事が得られることなどほとんどないらしくて、みな家業を継いだり、仕方がないから農業をやったりすることになるそうだ。(もちろん例外もあるが)ぱっと見たところ南インドには日本企業もそれほど進出しておらず、現地に工場を作って雇用することは行われていないようだった。この話をするときは、今まで笑顔が多かった彼らの顔が急に真剣みが宿ってこちらをはっとさせた。ここに、南インドの貧困の現実を見たような気がした。
ただ、会話が少し暗くなりかけたところで、グループの中の一人が、結婚はしているのかとか、彼女はいるのかという話に持って行ったので、再び会話に明るさが戻って来た。どこのグループにも、こういう空気の読めるキャラクターはいるものだ。僕は27歳だが結婚はしていない、と言うとOh my godなどと言われて、何故結婚しないんだとかいろいろと聞かれたのだが、I’m not popular among girls.と言うと一同の間で笑いが起きた。すると彼らの中の一人が、また別の一人を指さして、「こいつは彼女が10人もいるんだぜ」という冗談を飛ばした。それに対して、僕が「じゃあ、みんなに一人ずつ分けてあげろよ、そしたらここにいるみんながリア充になれるじゃないか!」と言ったところ先ほどよりも大きな笑いが起きた。
彼らとは結局1時間近く話してフェイスブックを交換したり、一緒に写真を撮ったりしたのだが、この会話でインドの若者と交流して、この国が抱える事情について学べたのは嬉しかった。やはり、海外旅行の楽しみは現地の人々との交流に尽きると思う。彼らと別れた後ももう一度周囲を一回りしてから下ることにした。今度は怪しいカップルにも会わずに平和に下まで降りることができた。
このジンジー城塞は、本来3つの砦によって構成されており、僕が登ったのともう一つの砦がメインとなっているということだった。チケットも1枚購入すれば他の2つにも入れるというお得なものだったが、正直もうひとつに登る気力がなかった。時刻は14時近くになり、一日のうちで一番暑い時間が近づいてきたこともあり、もう日の当たるところに立っているだけでも汗が出た。ただ、この暑さが心地よいか、気持ち悪いかと聞かれると、どちらかというと心地よい暑さだと言うことができる。日本の夏は湿気に富んだじとじととした夏だが、ここ南インドの夏は非常にからりとしており汗もさらさらと流れる。言ってみれば乾燥したサウナに入ったかのように気持ち良い気分にもなれるのは事実で、日本の機械化された生活で体の中に溜まった悪い人工物が汗とともに対外へと出されていく快感はあった。それに加えて体重が落ちてくれれば尚良いのだが。
再びオートリクシャで、拠点のジンジーの町まで戻ってティルバンナマライへと戻るバスに乗ることにした。そして、そこで僕を待っていたものはバス停の近くにあるジューススタンドだった。スプライト、コーラ、水など様々なペットボトル飲料がキンキンに冷えた状態で売っている。買うか、買わまいか・・・値段は大したことがない25ルピ(40円)だ。だが、夕食のビールまではまだ時間があるし、ここで飲んでもまた喉が渇くだろうと思ってその中からセブンアップを買った。特製の冷蔵庫で冷やされたセブンアップはこれでもかというほどに冷えており、口の中に入れた瞬間に全身に快感が走った。ただの炭酸飲料をここまで美味しく感じたことがあるだろうか。物の価値というのはその状況に応じて変わるが、ここしばらく炭酸飲料を飲んでいない、ものすごく暑い、たくさん体を動かして汗を流したというこの現状においてこそ、冷えたセブンアップはその価値を最高に発揮するのだった。普段炭酸飲料を一気飲みすることなんてほとんどないが、あまりの心地よさに耐えきれず4分の3ほど飲み干してしまったのだった。
ホテルに帰って水のシャワーを浴びて、昨日のような眠気がまた襲ってくるか待ってみたが今日は大丈夫だった。だるさも眠さもほとんど感じないということは、体がだんだんとインドの気候に適応してきたということなのかもしれない。
ひたすら旅行記を書いたら時間は7時になったので、昨日のようにバーに向かった。昨日と全く同じメニューを注文してビールを飲んだ。相変わらずインド人はあまりアルコールを飲まないのだが、おそらく宗教的な理由がなければみな毎晩のように飲み明かしているのではないか?と思ってしまう。なんでもこんなに暑いのだから、冷えたビールは相当美味しく感じられるに違いない。
コラム:インドでの足、オートリクシャとは?
これは日本で言うオート三輪のことだ。オート三輪の本来荷台の部分を客席にして最大で3人まで乗ることが可能となる。まだまだ個人が車を持つことなど不可能なインドでは、少し遠くに用事があるときはみなこのオートリクシャを使う。料金は本来メーターがあるはずなのだが、全く機能しておらず走り出す前に交渉で決定する。オートリクシャはいろんな国にあり、タイではトゥクトゥクと呼ばれたりしているが、よく料金トラブルの元となる。ただ、南インドでは極めて良心的なドライバーが多く、だいたい10分くらいの移動であれば50ルピーくらい、20分以内だったら100くらいで行ってくれる。小回りが利くのでインド旅行では欠かせない乗り物だ。
夢の世界から僕を現実に引き戻したのは、意外にも目覚まし時計の音だった。この音で目覚めるのは3日ぶりだ。インドに来てからは時差ボケの影響やら鶏の声やらで何かと自然に起きることのほうが多かった。ゆっくりと体を動かしてみて体調を確認する。うーん、どうも熱っぽい。目の奥の痛みもあまり取れていないことから、まだ体調はそれほど回復していないようである。あれほど寝たのにそれが回復に結びつかなかったことはちと悔しい。だがとりあえず起きてみないと全容を掴むことはできないのでベッドから起き上がってストレッチしたり軽く歩いてみたりする。それほどダルくはないし、昨日のフラフラしたような違和感は取れているものの、いつもの旅行先の朝のようなシャキッとした感じはなかった。ただ、食欲自体はあったのでそのまま食堂に向かって食券を出すと、インド式朝食か、アメリカ式朝食どちらが良いか聞かれた。そもそもアメリカ式朝食なんてあるのかどうかが疑問だったが、せっかくインドに来ているのだからとインド式の朝食を注文した。
するとまず、バナナの葉のうえに、少し柔らかめのおかゆのようになったライス、緑色のソース二種類が載ったものが来た。緑は緑でも黄緑色の食べ物だ。日本ではあまりお目にかかることができないものだったので、おそるおそる食べてみるととてもしょっぱかったが美味しかった。おかゆとよく合うのでアッと言う間に平らげてしまった。インド人は、朝はとても軽めなのだなあと思っていると、レストランの給仕が2品目を運んできた。どうやらインド式朝食はコース料理のようにひとつ食べ終わると次がくるという方式のようだ。2品目は大きなナンの中にじゃがいも、卵などを中心に野菜類が挟んであるクレープのようなものだった。これにスパイシーなスープがついてくる。スープはしゃれにならないほど本当にスパイシーで、インド人は朝からこんなに辛いものを食べるのか、と驚かされた。ちなみに注文したコーヒーは、今日も激アマだった。これを食べ終えると、最後にパンとまた別の種類のスープが出てきて終了となった。アメリカ式朝食がどんなものかわからないのだが、インド式朝食にはとても満足することができた。
食事を終えても体のだるさはあまり変わらなかったので、フロントへ行って体温計があるかどうか聞いた。しかし、そんなものはないと言われて代わりに、「もし体調が悪いならお湯を飲みなさい。そうすればよくなるよ」と言われた。そのスタッフの話によると、寒いところから暑いところに来て体調が悪くなっているのだから、お湯を飲んで体を温めれば万事うまくまわるのだという。本当にそんな簡単にいくのだろうか、とは思いつつも熱湯に近いものを覚ましつつ200mlほど飲み干した。するとだ!みるみるうちに今まで感じていた体のだるさやねつっぽさがどこかへと行ってしまい、予定通りに今日の観光に出ようと思えたのだった。やはり、どこまでいっても郷に入っては郷に従え、である。
もともと今日は、ティルバンナマライ近郊のジンジーという名前の町の近くにある、「ジンジー城塞」を観光するつもりだった。このジンジー要塞は12世紀になってから作られ、16世紀に支配者が変わるのと同時に作りも一新され、その後はインドを支配した欧米諸国の手に渡って、20世紀からは無人の状態のまま放置されているというものだった。ここに向かうのには、ローカルバスを使わなければならない。ホテルのスタッフにどうやって行くのか聞いたところ、ふたりの女性はその方法を巡って少し口論のようになってしまい、逆に聞いたこちらが気まずくなった。どうやらインド人は議論になるとなかなか引かないようである。
まず、ホテルの近くにあるバス停に向かった。バスターミナル自体はかなり遠くになってしまうが、そこまで行かなくともより簡単にバスに乗れるということなので、その簡単な方に行くことにした。そのジンジーという名前の町はチェンナイとティルバンナマライを結ぶ幹線道路上にあるらしくて、チェンナイに向かうバスならば全て停車すると言われた。ただ、そもそもの問題なのだが、バスの行先表示がタミル語になっているため、どのバスがチェンナイ行きなのかすらわからない。仕方がないので、近くで待っていた比較的若いお兄さんに聞くと、「俺が教えてやるから待ってな」と言ってくれた。しばらくして、昨日載ったような緑色のガバメントバスが入ってきたのを見て、お兄さんは「あれだ、乗りな!」と言いながら見送ってくれた。改めて南インドの人は優しいと思った。
乗ったバスは、Express busといって、止まるバス停が少ない急行タイプのバスだった。見た目は全く同じなのに、小さくEXPという紙が貼ってあるか否かで違ってくるようだ。そして毎度のことながら、バスの運転は荒い。基本的にこちらのルールとして徐行などは存在せず、いかにして目の前を走る車両をどかすかとういことが重要なのだ。だから例えば前に低速のバイクなどが走っていれば手あたり次第クラクションを鳴らしてとにかく脇にどかせようとする。もっとゆっくりと車両、例えばトラクターなども走っており、それらを追い抜くことももちろんあるのだが、そういう時は対向車線にはみ出て抜かすため、前方からやって来る車に接近を知らせるという意味でもクラクションを鳴らすことがあるのだ。制限速度も、交通ルールもあったものではない。ふと、バスの運転席をのぞき込んでみるとそこに本来あるはずの速度計がなかった。速度計無しではスピードリミットにも気を付けようがない。おそらく、インドの運転手は速度の概念などなくて、「ゆっくり」「速い」「ふつう」などの基準で車を運転しているのだろう。
目的地であるジンジーまではだいたいバスで1時間と地球の歩き方には書かれていたが、運転手がかなり飛ばしたために30分そこそこで到着してしまった。ありがたいのやら、恐ろしいのやら。
さて、ジンジーからジンジー城塞に行くまでにはここから更にオートリクシャで2キロほど行かなければならない。バスを降りてオートリクシャを探したのだが、そこはまさに典型的なインドの田舎だった。排気ガスをまき散らしてバイクが次々と流れるようにやってきては消えていく。人々は道路脇にたむろして何かを待っている。相変わらずゴミはそこらじゅうに転がっており、誰もそれを気にも留めない。一刻も早く立ち去りたくなるような街角の景色に変わりはないが、この景色にも少しだけは慣れてきたようだ。そういえば、おそらくこの南インドは今まで自分が旅行した場所の中で一番と言っても良いほど発展が遅れている。人々の衛生意識、インフラ、物価水準のどれを取っても日本から来た人が見れば驚いてしまう。世界の様々な国を旅行したことがある自分でさえも、チェンナイに着いた時はこんな国を10日間以上も旅行するのか・・・そもそも何故インドを選んでしまったのだ、と落胆したほどである。
しかし、いったん旅をすると決めた以上はそれを完了するのがトラベラーの務めだ。気を取り直して近くにオートリクシャがたむろしている場所へと向かう。ここは取り立てて料金交渉する必要すらなかった。地球の歩き方にはジンジー城塞までだいたい50ルピーと書かれており、今回提示された値段は50ルピーだったので大人しくそれに従うことにしたのだ。
リクシャの中で考えていたのは、そもそもここは観光地らしいのだが、一体誰が訪れるのだろうかということ。チェンナイに来てから外国人観光客らしき人物など右手一本で数えられるほどしか見ていないし、インド人が観光するのかという疑問がそもそも残る。田園風景の中を5分ほど走って現れたのは、3つの大きな岩山だった。よく見るとそれぞれの山の頂上には神殿のようにも見える建物があり、それがただの岩山なのではなく、城塞なのだということがわかる。入口の所まで行くと、白人女性の旅行者が一人いた。そしてなんと彼女は2人ものインド人ガイドを雇っているではないか。服装などを見ても典型的なバックパッカースタイルで、途上国を旅行することに慣れているようである。少なくとも旅行者がいることに安心して、チケット売り場へと向かった。
ここの入場料は100ルピー。そして1つのチケットで3つの岩山全てに登ることができるそうだ。ただ、この旅行記を割と涼しい場所で読んでいる人には想像できないかもしれないが、ここは常夏のインド、しかも気温はおそらく感覚的に32度を超えている。岩山には階段があり、昨日の山登りほどハードではないのだが、それでもかなり急で相当な体力を消費する。更にこの城塞は太陽光を遮るものが途中の2つの休憩所を除いてなく、照り付ける日差しをまともに浴びながら登らなければならない。登り始めて1分もしないうちに汗がダラダラと流れてくる。ここぞとばかりに持参した折り畳み傘を広げて日差しを遮るが、それでも流れる汗を止めることはできない。ようやく一つ目の休憩所に到着すると、先行していた白人女性とインド人ガイドが休んでいるところだった。しかしまだ先は長い、僕は水を一口飲んでからすぐに出発した。
だいたい15分ほど登ったところでやっと頂上らしきところに到着することができた。もう、シャツは完全に汗でびしょびしょで、喉もカラカラである。こんな時は冷えた炭酸系飲料をイッキに飲みたいところだが、当然山頂にそんな店はなく、手元のぬるくなった水をゴクゴクと飲んだ。
そして山頂は山頂でかなり涼しかった。特に廃墟となった建物の影に入ると風が吹き抜けて火照った体を冷やしてくれる。しばらく散歩がてら頂上のスペースを歩いてみると、インド人カップルに何組な遭遇した。みな20代そこそこの若いカップルである。よくよく見るとカップルたちは一目につきにくい影のような場所におり、親し気な様子で話したり、キスしたりしている。そうか、と合点がいった。ここはどうやらカップル達が一目をしのんで会う場所、もしくはデートで来るような場所なのかもしれない。男性は襟付きのシャツ、女性はインドの伝統衣装サリーという恰好だ。
インドでは公共の場で男女があまりイチャイチャするのを見たことがない。その代りにこういった場所が用意されているのかもしれない。ただ、ガイドブックにはそんなことは全く書かれておらず歴史上で重要な役割をはたしてきた城塞とだけ書かれているため初めてやってきた僕は少しびっくりしてしまったのだ。そしてこの城塞は上の開けた部分がかなり広くなっており、そこには教会のようなものの跡地などがあった。しばらく探検していると疲れを感じた。どこか横になって休める場所がないものかと探し回っていると、石造りの教会廃墟があった。全体的に影が多くてどこで休もうか、と探していたところとんでもないものが目に飛び込んできた。なんと、中年のカップルが、通常人前でしてはいけない行為をしていたのだった。女性がかがんでおり、男性が後ろから・・・僕は一瞬で目を逸らしてその場所を離れたのだが、彼らも見られてしまったことをマズいと思ったらしくてすぐに終えてどこかへ去ってしまった。もしかすると、ここは事情のあるカップルが情事を行うための場所なのか・・・とさえ考えてしまう出来事だったが、周囲に他に人はおらずに、ちょうどよい場所を見つけたためしばらくそこで横になることにした。
時刻はちょうど12時30分になろうとしているところで、一日の中で最も暑い時刻だ。周囲を見渡しても暑さで一面が白く霞んで見える。気温が高すぎてこうなっているのか、それとも空気が埃で汚れているからこうなっているのかはわからないが、東南アジアの暑い国を訪れた時に度々みられる現象だった。そんな下界の暑さなど全く知らぬかのように石でできた教会の床はひんやりとして冷たい。僕は肩に掛けていた鞄などを降ろして床に寝転がってみた。すると、背中を通して石の冷たさが伝わって来た。おそらく、これまでも何十年、何百年に渡って、この酷暑のインドに生きる背中を冷やしてきたであろうこの岩に、つかの間の旅行者である自分も癒されたのだった。
静かなる昼下がりの教会で、そっと目を閉じると浅い瞑想の世界に入る。インドでは、瞑想することが善しとされていて、ティルバンナマライにある寺院でも瞑想を行っている人が多かった。瞑想というからには人生の大きなテーマである生や死について考える必要がある。僕は自分が生まれてから今に至るまでのことを、時間を追って思い出すことにした。ここでは何ら焦る必要なんてない、時間なんていくらでもある。まず、小学校時代から、そして中学校へ・・・と、瞑想の世界に入っていたところ、周囲がいきなり騒がしくなった。一体何事かと思ってふと目を開けると周囲にいくつものインド人の顔があった。目を閉じていたからこんなに近くにいるとは気づなかったが、彼らはすぐそばまで来ていたのだった。
“Hello, are you okay?”
そのうちの一人が僕に向かって話しかけた。声のかけ方からして、僕が暑さで参ってしまったと思ったようである。大丈夫だよ、と返事して立ち上がるとそこにはおおよそ10人くらいの若者が立っていた。しかし、ガラの悪い奴らにからまれてしまったというよりは、フレンドリーな若者集団に歓迎されたという雰囲気だった。英語で話してみると、彼らはこの近くの大学の学生だといい、理系の専攻ということだった。たしかに顔つきはまだあどけなさが残っており、社会人というよりは学生だった。
彼らはこんなところで寝ていた日本人にかなり興味があるようで、何故ここにいるのか、どこの国の出身か、結婚しているのかなど矢継ぎ早に質問を浴びせた。さすがに理系の大学生ということもあり、他のインド人よりもかなり英語は通じるものの、彼らの話す言葉が分かりやすかったかと聞かれると決してそんなことはない。彼らが言っていたことで2つ興味深いことがあったので、それらについて書いてみようと思う。
1つ目は、僕の肌の色が彼らに比べてかなり白いのを見て「いくら出せば肌の色を交換してくれるか?」と質問してきたことである。(イ:インド人学生 開:筆者)
イ「とにかく俺たちは黒いのが嫌なんだよ!笑」
開「そんなこと思う必要なないよ、黒だっていいじゃん。それに神様が定めた運命でしょ?」
イ「でも、マイケルジャクソンはもともと黒かったけど、白くなったよ。」
開「よく知ってるね、でも俺は黒いマイケルジャクソンの方が好きだよ。それに彼は、白くなってからおかしくなってしまったじゃないか。」
イ「なるほど、たしかにそうだね笑」
南インドの人々は北に比べてかなり黒くて、ほぼ黒人と同じくらいの黒さの人もいる。しかし、彼らが白い肌に対して憧れを持っていたというのは意外な事実だった。やはりイギリスの植民地であったインドでは、「白=白人=支配者→自分たちよりも優れたもの」というイメージ付けがなされてしまっているのだろうか。
2つ目は、今何が欲しいか、と聞いたところ「仕事が欲しい!」と答えたことである。
開「いま、欲しいものってある?」
イ「俺は仕事が欲しいよ。」
開「え、なんでそんなに現実的なの?笑」
イ「インドでは、大学を卒業しても仕事が無いんだ。だから、失業率がものすごく高くて、少ない仕事をみんなが争うみたいな感じになってる」
開「じゃあ、仕事をもらえるとして、どんな仕事がほしい?」
イ「もう、仕事なら何でもいいよ。安定してて、お金がもらえる仕事ならね」
開「でも、エンジニアリングの知識を生かせなくてもいいの?」
イ「もちろん生かしたいけど、そんなこと言ったら食べていけないよ。Kai,インドで会社を作って何かビジネスをやってよ。そうしたら俺たちを雇用してほしいな笑」
インド人で、工学やコンピューター関連の知識があれば引く手あまただというイメージが日本人の頭の中にはあるかもしれない。しかし、ここ南インドでの現実はそれほど甘くなかった。大学を卒業してもいきなり正社員の仕事が得られることなどほとんどないらしくて、みな家業を継いだり、仕方がないから農業をやったりすることになるそうだ。(もちろん例外もあるが)ぱっと見たところ南インドには日本企業もそれほど進出しておらず、現地に工場を作って雇用することは行われていないようだった。この話をするときは、今まで笑顔が多かった彼らの顔が急に真剣みが宿ってこちらをはっとさせた。ここに、南インドの貧困の現実を見たような気がした。
ただ、会話が少し暗くなりかけたところで、グループの中の一人が、結婚はしているのかとか、彼女はいるのかという話に持って行ったので、再び会話に明るさが戻って来た。どこのグループにも、こういう空気の読めるキャラクターはいるものだ。僕は27歳だが結婚はしていない、と言うとOh my godなどと言われて、何故結婚しないんだとかいろいろと聞かれたのだが、I’m not popular among girls.と言うと一同の間で笑いが起きた。すると彼らの中の一人が、また別の一人を指さして、「こいつは彼女が10人もいるんだぜ」という冗談を飛ばした。それに対して、僕が「じゃあ、みんなに一人ずつ分けてあげろよ、そしたらここにいるみんながリア充になれるじゃないか!」と言ったところ先ほどよりも大きな笑いが起きた。
彼らとは結局1時間近く話してフェイスブックを交換したり、一緒に写真を撮ったりしたのだが、この会話でインドの若者と交流して、この国が抱える事情について学べたのは嬉しかった。やはり、海外旅行の楽しみは現地の人々との交流に尽きると思う。彼らと別れた後ももう一度周囲を一回りしてから下ることにした。今度は怪しいカップルにも会わずに平和に下まで降りることができた。
このジンジー城塞は、本来3つの砦によって構成されており、僕が登ったのともう一つの砦がメインとなっているということだった。チケットも1枚購入すれば他の2つにも入れるというお得なものだったが、正直もうひとつに登る気力がなかった。時刻は14時近くになり、一日のうちで一番暑い時間が近づいてきたこともあり、もう日の当たるところに立っているだけでも汗が出た。ただ、この暑さが心地よいか、気持ち悪いかと聞かれると、どちらかというと心地よい暑さだと言うことができる。日本の夏は湿気に富んだじとじととした夏だが、ここ南インドの夏は非常にからりとしており汗もさらさらと流れる。言ってみれば乾燥したサウナに入ったかのように気持ち良い気分にもなれるのは事実で、日本の機械化された生活で体の中に溜まった悪い人工物が汗とともに対外へと出されていく快感はあった。それに加えて体重が落ちてくれれば尚良いのだが。
再びオートリクシャで、拠点のジンジーの町まで戻ってティルバンナマライへと戻るバスに乗ることにした。そして、そこで僕を待っていたものはバス停の近くにあるジューススタンドだった。スプライト、コーラ、水など様々なペットボトル飲料がキンキンに冷えた状態で売っている。買うか、買わまいか・・・値段は大したことがない25ルピ(40円)だ。だが、夕食のビールまではまだ時間があるし、ここで飲んでもまた喉が渇くだろうと思ってその中からセブンアップを買った。特製の冷蔵庫で冷やされたセブンアップはこれでもかというほどに冷えており、口の中に入れた瞬間に全身に快感が走った。ただの炭酸飲料をここまで美味しく感じたことがあるだろうか。物の価値というのはその状況に応じて変わるが、ここしばらく炭酸飲料を飲んでいない、ものすごく暑い、たくさん体を動かして汗を流したというこの現状においてこそ、冷えたセブンアップはその価値を最高に発揮するのだった。普段炭酸飲料を一気飲みすることなんてほとんどないが、あまりの心地よさに耐えきれず4分の3ほど飲み干してしまったのだった。
ホテルに帰って水のシャワーを浴びて、昨日のような眠気がまた襲ってくるか待ってみたが今日は大丈夫だった。だるさも眠さもほとんど感じないということは、体がだんだんとインドの気候に適応してきたということなのかもしれない。
ひたすら旅行記を書いたら時間は7時になったので、昨日のようにバーに向かった。昨日と全く同じメニューを注文してビールを飲んだ。相変わらずインド人はあまりアルコールを飲まないのだが、おそらく宗教的な理由がなければみな毎晩のように飲み明かしているのではないか?と思ってしまう。なんでもこんなに暑いのだから、冷えたビールは相当美味しく感じられるに違いない。
コラム:インドでの足、オートリクシャとは?
これは日本で言うオート三輪のことだ。オート三輪の本来荷台の部分を客席にして最大で3人まで乗ることが可能となる。まだまだ個人が車を持つことなど不可能なインドでは、少し遠くに用事があるときはみなこのオートリクシャを使う。料金は本来メーターがあるはずなのだが、全く機能しておらず走り出す前に交渉で決定する。オートリクシャはいろんな国にあり、タイではトゥクトゥクと呼ばれたりしているが、よく料金トラブルの元となる。ただ、南インドでは極めて良心的なドライバーが多く、だいたい10分くらいの移動であれば50ルピーくらい、20分以内だったら100くらいで行ってくれる。小回りが利くのでインド旅行では欠かせない乗り物だ。