最近、おそらく自分の人生の中で最も「友達」がいない。
小学校、中学校は仲間に囲まれていた。
高校一年生では友達は少なかったが、二年三年で一気に増えた。
大学では寮に入っていたし、留学もしていたから多くの友人がいた。
社会人になってからも「同期」と出かけたり、会社で飯を食べたり・・・
大学院では同じような考え方を持った仲間たちと授業で会えたし、よく飲んだ。
しかし今、こういった社会的なつながりはほとんどと言って良いほどない。
勤務先では「非常勤講師」という極めて他との関わりの薄い仕事をしているし、
一人暮らしをしていて恋人もいないので基本的に家に帰っても一人だ。
もちろん僕は一人が好きなほうだから、悪くはないと思っている。
別にこの状況を嘆いているわけではない。
ただ、ここで「友達」って何だろう?と考えた。
中学高校の友達はとっくにつながりが切れているし、
大学で仲が良かった友達もほとんどつながりが切れている。
大学院の友人はひとりは関西に行ってしまい、もう一人は仕事が忙しくて会えていない。
結果的に、今まで培ってきたFacebook800人の友達は、実質ほぼゼロだ。
では、自分に友達がいない理由を自分なりに考えてみた。
1:組織に深くは属してこなかった
いや、一応テニスサークルや留学ボランティアなどには入ってはいたが(寮も)、基幹メンバーではなかった。割と一人行動をする合間にこれらの活動に参加していたような感じで、解散してからもわざわざ集まりたい、とかそういうモチベーションは起きなかった。もちろん、これらの団体の人で今でも集まっているメンバーはいると思う。
2:一対一の関係のほうが好き
1の裏返しでもあるが、基本的に数人で群れるよりも一対一の関係での会話などを望んだ。今まで仲の良かった友人達も、仲良しグループの一人というよりは、はじめから一対一の関係を築いた。ところが、こういった友人が関西に行ってしまったり、仕事が猛烈に忙しくなったりすると会えなくなる。
3:人に合わせるのが苦手
かなり自己中心的な?というかこだわりの強いほうで、何か人に合わせるのが得意か、と言われるとそうではない。だから、集団や他人からしていたら、僕のことを誘いにくいのだろう。実際に、友人と会う時もこちらから誘うことのほうが多かった。
1~3の理由を考えるとむしろこの一人で自由に行動できている状態を喜ぶべきなのかもしれない。
しかし、全く友人との交流がなくなってしまうのは少しは寂しい。
休日になると、誰とも会話せずに、「イワタ~!」と騎手の名前だけを叫ぶという日がよくある。
どっちが良いんだろう?とは思う。
でも、これも流れなのかもしれない。今の状態があるということは、少なくとも自分が望んでいなくもないのだ。
ということを先ほどある人にメールで相談して考えていたら、
「人は人生のステージを進むにつれて、いろいろと社会的な基準を背負うようになり、生き方は
今までと比べてより細分化、個別化され、同じ経験を共有できる人が少なくなる」ということに
気付かされた。
たしかにそうだ。
会社員、大学院生、非常勤講師、役員、ニート、主婦、主婦大学院生・・・
主婦大学院生(子供無)とかだと、おそらく同じ経験を共有したりできる人って、かなり少ないんだろうなあと思うし、なかなか本音で話せなさそう。
高校や大学までは、それほどまで生き方は個別化していない。
同じ「高校生」や「大学生」というアイデンティティを持っていた。
彼らの制服は、彼らを彼らたらしめるものだ。
いわば彼らは制服によって守られ、仲間であることを保障されている。
いったんそれを脱ぐと、大学生、専門学校生、ミュージシャン志望、公務員・・・
もう、二度と彼らが同じ関係に戻れることはない。
そんなことを思いながら授業をやっていた。
小学校、中学校は仲間に囲まれていた。
高校一年生では友達は少なかったが、二年三年で一気に増えた。
大学では寮に入っていたし、留学もしていたから多くの友人がいた。
社会人になってからも「同期」と出かけたり、会社で飯を食べたり・・・
大学院では同じような考え方を持った仲間たちと授業で会えたし、よく飲んだ。
しかし今、こういった社会的なつながりはほとんどと言って良いほどない。
勤務先では「非常勤講師」という極めて他との関わりの薄い仕事をしているし、
一人暮らしをしていて恋人もいないので基本的に家に帰っても一人だ。
もちろん僕は一人が好きなほうだから、悪くはないと思っている。
別にこの状況を嘆いているわけではない。
ただ、ここで「友達」って何だろう?と考えた。
中学高校の友達はとっくにつながりが切れているし、
大学で仲が良かった友達もほとんどつながりが切れている。
大学院の友人はひとりは関西に行ってしまい、もう一人は仕事が忙しくて会えていない。
結果的に、今まで培ってきたFacebook800人の友達は、実質ほぼゼロだ。
では、自分に友達がいない理由を自分なりに考えてみた。
1:組織に深くは属してこなかった
いや、一応テニスサークルや留学ボランティアなどには入ってはいたが(寮も)、基幹メンバーではなかった。割と一人行動をする合間にこれらの活動に参加していたような感じで、解散してからもわざわざ集まりたい、とかそういうモチベーションは起きなかった。もちろん、これらの団体の人で今でも集まっているメンバーはいると思う。
2:一対一の関係のほうが好き
1の裏返しでもあるが、基本的に数人で群れるよりも一対一の関係での会話などを望んだ。今まで仲の良かった友人達も、仲良しグループの一人というよりは、はじめから一対一の関係を築いた。ところが、こういった友人が関西に行ってしまったり、仕事が猛烈に忙しくなったりすると会えなくなる。
3:人に合わせるのが苦手
かなり自己中心的な?というかこだわりの強いほうで、何か人に合わせるのが得意か、と言われるとそうではない。だから、集団や他人からしていたら、僕のことを誘いにくいのだろう。実際に、友人と会う時もこちらから誘うことのほうが多かった。
1~3の理由を考えるとむしろこの一人で自由に行動できている状態を喜ぶべきなのかもしれない。
しかし、全く友人との交流がなくなってしまうのは少しは寂しい。
休日になると、誰とも会話せずに、「イワタ~!」と騎手の名前だけを叫ぶという日がよくある。
どっちが良いんだろう?とは思う。
でも、これも流れなのかもしれない。今の状態があるということは、少なくとも自分が望んでいなくもないのだ。
ということを先ほどある人にメールで相談して考えていたら、
「人は人生のステージを進むにつれて、いろいろと社会的な基準を背負うようになり、生き方は
今までと比べてより細分化、個別化され、同じ経験を共有できる人が少なくなる」ということに
気付かされた。
たしかにそうだ。
会社員、大学院生、非常勤講師、役員、ニート、主婦、主婦大学院生・・・
主婦大学院生(子供無)とかだと、おそらく同じ経験を共有したりできる人って、かなり少ないんだろうなあと思うし、なかなか本音で話せなさそう。
高校や大学までは、それほどまで生き方は個別化していない。
同じ「高校生」や「大学生」というアイデンティティを持っていた。
彼らの制服は、彼らを彼らたらしめるものだ。
いわば彼らは制服によって守られ、仲間であることを保障されている。
いったんそれを脱ぐと、大学生、専門学校生、ミュージシャン志望、公務員・・・
もう、二度と彼らが同じ関係に戻れることはない。
そんなことを思いながら授業をやっていた。