自分が教壇に立ち始めてから1カ月の月日が過ぎた。

ちょうど4月9日が辞令式であり、最初の登校日だったのだ。

初めて出勤したときには自分の席もなく、とにかく焦りでいっぱいだったが、

1カ月経つとかなり慣れるものだ。

ある程度ルーティーン化できているところもあるし、まだまだだなあと思うところも多い。



それにしても最初教壇に立つことはとても緊張した。

一番最初は試験監督だったのだが、テストを配るだけでも指先が震えて声もうまく出なかった。

そして迎えた初回の授業。

今思うと張り切り過ぎたというか、生徒の実態に合わないことをやってしまったなあと。

いざ教科書に入っても、これまた失敗の連続だった。

細かいところまで伝えすぎようとして、生徒を混乱させてしまったり、

宿題のルールを固定化できなかったりと。


しかし、授業をやること自体はものすごく楽しい。

何故楽しいのかと言われて、いろいろと理由を並べることはできるが、

そういった細かい理由なしで楽しいと言える。

特に生徒が英語で何か発言してくれたり、

英語に関する素朴な疑問を口にした時は教師としてのやりがいを感じる。


いつも授業が終わっても、生徒のノートを見たり、英作文を添削したり、

単語テストを作ったり、ワークシートを作成したり。

ひとつひとつの仕事を取ってみてもどれも新鮮でやりがいに満ちている。



比較的各教師に自由がある学校なので、自分のやり方で授業を進めることができる。

ただテストでいい点数を取るためではなく、また盛り上がるだけでもなく、

モチベーションも上げつつ・・・といろいろ考えてひとつひとつの活動や全体の流れを考える。

そして一週間の終わりには、ダメだったところや良かったところを振り返る。

その中でまた、解決策やよりよい案が浮かんでくるのだ。


要は自分の好きにやれるところが良いのかもしれない。

例えば趣味は自分の好きなようにやれる。

一方で、世の中の多くの仕事は自分の好きなようにはやれない。

上や顧客から言われたことや、もう既に大枠が決まっていることを正確にやるということが多い



これをやったら実力がつくだろう、とか、これをやったら生徒が喜ぶだろう、とか

いろいろ考えながら授業の用意をして、パソコンに向かって、その結果できたプリントを

印刷室にて100枚単位で印刷するのだ。

これは、よくよく考えてみると、企画立案から、製品作成、そしてその製品を使ったサービス

までを全部ひとりでできる、果てしなく幅の広い仕事だと考えることもできなくはない。

常にそこに見ているのは生徒の顔であり、授業であり、テストや英検の結果なのだ。

これが、今までやっていた研究とは異なる点だとはっきりと思う。

研究の時は、論文の先に見ていたのは、実際の英語教育ではなく、論文を査定する教授の顔、

学会などであった。つまり、実際の生徒の顔がそこにはなかった。



だから、この仕事を始めてまだ1カ月だが、一度もつらいとか思ったことはないし、

毎日非常に楽しいと思いながらできている。

GWが終わるときだって、前の会社勤めのときは憂鬱で仕方がなかったが、今回はそんな憂鬱は

一切感じない。


おそらく、自分は研究をすることよりも、実際に教壇に立って教えることのほうが向いているん

だろうなあとはわかっている。そのことを最近ではますます確信している。



これからの課題もしかし、山積みである。

教師にとって必要なことは、よりひとりひとりの生徒に目を向けることにもある。

しかし、今はまだ、生徒を全体、クラスとして捉えてしまっており、自分の中で一人ひとりに

目を向ける余裕が生まれていないことも事実だ。

これからは、その点をもっと何とかしていきたいと思っている。生徒は曖昧な「students」とい

う集合体ではなく、individualsだ。


さて、明日からも頑張るか。