春の東京の空は気まぐれだ。さっきまでまぶしいくらいの青空が広がっていたかと思えばじわりじわりと曇ってきてはるか遠くの新宿方面を見ると空から魔の手が忍び寄るように黒い雲に覆われ、それが線状になって地上に達しようとしている。それはすなわち、雨が降り始めたということを意味しているのだ。
その光景は荒川のサイクリングロードから見るとどこか遠くの世界の出来事のように見えるが実はそれほど遠くの出来事ではない。東京は駅の数はおそらく世界一を誇るが、それは複雑に鉄道網が張り巡らされているためであって、決して総面積が広いということを意味しているわけではないのだ。私は自転車を止めて、最近新調したアップル社の携帯電話を使って天気予報を確認した。今朝出発するときはたしか雨の予報はなかったはずだ。しかし、この悪化しつつある空模様を見ると雨の気配が迫っていることは明らかだった。場合によってはサイクリングのルートを変更してそのまま帰宅することも考えなければならない。Weather newsと名付けられたそのアプリは、今朝の並んだ曇り、晴れマークと打って変わって、水色の雨マークで午後を埋めていた。これは一雨くるなあ、心なしか時間は進んでいるのに気温が上がっている気配はないし、風も強くなっている。私はすぐさま引き返すことにした。
荒川を途中まで全力で飛ばしたあたりでポツンと冷たいものを頬に感じる。いよいよやってきたかとすぐに逃げ込める場所を探す。イギリスにいてトイレに行きたくなった時と同じ要領で近くにあるマクドナルドを探すと王子駅というJRの駅の近くにあると表示されていたのでとにかく王子駅を目指した。空は忙しく表情を変える。時には流れゆく雲の隙間から太陽の輪郭が見えたり、そんなに遠くない空に黒い雲がとぐろを巻くように浮いているのが見えたり。王子駅に着いたあたりで雨は一瞬強まったが、それは長続きするような気配を持っていなかった。結局マクドナルドへ到着したときには完全に止んでしまっていたがちょうど休憩には良いなあと思い自動ドアをくぐった。
知らない街のカフェや飲食店のテーブルに座ってパソコンを開くという行為は悪いものではない。この圧倒的な他者感の中でこそ、何も気にせずに頭を真っ白にして自分と向き合うことができるのかもしれない。図書館のような場所だと、どうしても勉強するための場所であるため、勉強へのプレッシャーが強くなり、ここまで無垢な気持ちで文章に向き合うことができないのだ。そう、普段学問をしている場所に行くと、いくら日記などの自由な創作行為を楽しもうとしても、「勉強しなければ」という義務感のような思いに襲われる。そして自分の書きたいという思いに逆らって論文を読み、また論文を読むという日々を修士時代は過ごしていた。だから修士の2年間で積み重ねた院生生活日誌は決して多くなく、学部時代の学生生活日記のほうが充実しているかもしれない。
しかし、この1週間はおどろくほどPCに向き合って文章を書いている。自分の素直な気持ちをキーボードにぶつけているのだ。一方で、いわゆる研究活動は一切しなくなった。図書案で本を読むといえば、今まで読んでいた難しい本ではなく、どのようにして英語の授業に一工夫加えるのかといった実践本が中心となっている。そして、まるでこの生活の中では今までが研究一色だったその痕跡さえも探ることができないほど研究から離れてしまっている。たしか、以前私は研究をしていても、「これは俺が好きだからやっている」ということを主張していたし、この日記にも書いていたような気がする。何故、そのように言ったり書いたりしていたのだろうか、と考えてみる。好きなことは人からの強制などなしにやり続けるものである、ということを考えると、私は決して研究が好きだからやっていたのではないという可能性を考えざるを得ない。好きだ、と言っていたのは心から愛しているのではなく、自分の将来の目標の達成のために必要だからやっていることを正当化し、自分を納得させようとしていたからではないだろうか。ある教授から言われたのだが、「研究をやっていく中では、時にはOOが俺は好きなんだ」と無理やり納得させなければならない時が来る、と。たしかその時の英語は、You sometimes have to force yourself to like what you study.だった気がする。しかしその教授はこれを言うときにforce yourself to like researchとは言っていない。つまり、研究行為自体は好きなことが前提で、それを進めていく中で好きではないことにぶち当たったら、好きだと思い込まなければならないという意味で言ってくれたんだと思う。では、博士に落ちた時点で今までの研究のことを一切考えなくなる私は研究者としての資格があるのだろうか、本当の研究者ならば、落ちたくらいでへこまずに自分の研究を続けていくことができるのではないだろうか、とそう思う。だとしたら、自分は博士課程に行く資格があるのだろうか。
しかし、その「研究が好きで好きで仕方がない人だけが研究者になれる」という自分の思い込みがそもそも正しいのかという疑問が残る。世間一般に、「勉強」は決して楽しいものとみなされていはいない。高校生にとっての受験勉強など苦痛と思われているし、修士論文も「頑張る」ものだとされている。ということは、自分のように研究のことを無理やりでも好きだと思おうとする人にもチャンスがあっての良い気がしてくる。まあ、全てがforce myself to likeかと言えば、そうではない。特に留学系の論文を読んでいて何らかの新しい発見があると「楽しい」と思えて、もっとそのことについて知りたいと考えて論文をあさることもある。この現象をもっと詳しく分析すると、「だんだんと知識が積み重なっていくことが楽しい」とでもいえるかもしれない。机にむかって誰とも話さずに研究する行為が楽しいかと言えば、無条件に首を縦に振ることはできないが、自分の努力で少しずつ知っていることが増えていき、ある現象に関する理解が深まるプロセスは楽しいと断言することができる。
ただそれは、自分が研究のことを「仕事だから」と思ってやっているからなのかもしれない。同じ仕事ならば、前の会社でやっていたようなPCと向かう作業で正確さと気遣いを要求されるような仕事ではなく、図書館で論文を読み、それを成果としてまとめる仕事のほうが本質的に面白い、という比較の視点があることも否定しない。ただ、いくら私がこれを「仕事だ」と捉えていても、世間や社会はそのように捉えてくれるとは限らない。論文を50本読もうと、100本読もうとそれに基づいた報酬を受け取ることはできないのである。おまけにこれを続けたからといって、大学教員という、地位が保障され、お金をもらっているからこそ研究活動に打ち込むという状況を手に入れることができるとは限らない。つまり若いうちは先が見えないブラックホールの中にいるかのような生活になってしまう。安定した収入は望めない、恋人もできないなど世間一般の価値からは外れてしまうために誰もが気軽に目指すような道ではないのだろう。しかし、いったん成功街道に乗れば、平均よりも多い収入を手にすることができるし、時間にゆとりをもった生活をすることもできるし、OO教授と呼ばれることにもなる。何度も言うがハイリスクハイリターンの道なのだ。
話を元に戻すが、自分は研究が本当に心から好きだとは言えない。では、教えることはどうだろうか、英語を教えることは今までずっと好きだと思ってやってきたし、そもそも修士に進んだのも、英語を教えることについてもっと勉強したいから、という理由だった。家庭教師、ラオス、イーオンなど主要な教育現場を経験してきたが、まだ学校教育だけには向き合えていない。しかし、将来もし研究の道に進まないとなると、おそらく9割以上学校教育の道に入ることになるだろう。それは、自分の人生の軸を決める、おそらく最初で最後の大きな決断だ。一方でまだ、この決断をするには早いのではないか、と思う。なぜかと言えば、学校教育を経験していないのだから。修士の2年間で研究をするということがどういうことなのか、楽しいこと、つらいことなどはかじる程度には経験することができた。しかし、一方で当初の目的であった、英語を教えることに関してはそこまで経験できたとは言えない。やはり論文や教科書で扱われる多くの議論が学校教育を中心としたものである限りは、それは避けて通れない登竜門的な位置付けなのだと思う。だから、自分は研究を本当に愛せるのか、という質問に対する答えは先送りにしようと思う。教育を経験した後に、それは自然と見えてくるに違いない。遠く離れた恋人をそれでも想うならば、それが本物の愛であるように。
さあ、外の天気もかなり回復してきた。YAHOO天気によれば14時30分は傘のマークがなかったが、15時30分には再びそれが現れていた。つまり、今のうちに帰ったほうが良いとうことかもしれない。マクドナルドでは当初フィレオフィッシュとコーヒーだけにするつもりだったが、図らずしも100円割引の誘惑に負けてチキンナゲットを注文してしまった。このままではせっかくサイクリングに出たのに消費カロリーではプラスになってしまう・・・なんて笑えない話にもなりかねない。今日はサイクリングとジムで体を絞ることにする。では、また。


その光景は荒川のサイクリングロードから見るとどこか遠くの世界の出来事のように見えるが実はそれほど遠くの出来事ではない。東京は駅の数はおそらく世界一を誇るが、それは複雑に鉄道網が張り巡らされているためであって、決して総面積が広いということを意味しているわけではないのだ。私は自転車を止めて、最近新調したアップル社の携帯電話を使って天気予報を確認した。今朝出発するときはたしか雨の予報はなかったはずだ。しかし、この悪化しつつある空模様を見ると雨の気配が迫っていることは明らかだった。場合によってはサイクリングのルートを変更してそのまま帰宅することも考えなければならない。Weather newsと名付けられたそのアプリは、今朝の並んだ曇り、晴れマークと打って変わって、水色の雨マークで午後を埋めていた。これは一雨くるなあ、心なしか時間は進んでいるのに気温が上がっている気配はないし、風も強くなっている。私はすぐさま引き返すことにした。
荒川を途中まで全力で飛ばしたあたりでポツンと冷たいものを頬に感じる。いよいよやってきたかとすぐに逃げ込める場所を探す。イギリスにいてトイレに行きたくなった時と同じ要領で近くにあるマクドナルドを探すと王子駅というJRの駅の近くにあると表示されていたのでとにかく王子駅を目指した。空は忙しく表情を変える。時には流れゆく雲の隙間から太陽の輪郭が見えたり、そんなに遠くない空に黒い雲がとぐろを巻くように浮いているのが見えたり。王子駅に着いたあたりで雨は一瞬強まったが、それは長続きするような気配を持っていなかった。結局マクドナルドへ到着したときには完全に止んでしまっていたがちょうど休憩には良いなあと思い自動ドアをくぐった。
知らない街のカフェや飲食店のテーブルに座ってパソコンを開くという行為は悪いものではない。この圧倒的な他者感の中でこそ、何も気にせずに頭を真っ白にして自分と向き合うことができるのかもしれない。図書館のような場所だと、どうしても勉強するための場所であるため、勉強へのプレッシャーが強くなり、ここまで無垢な気持ちで文章に向き合うことができないのだ。そう、普段学問をしている場所に行くと、いくら日記などの自由な創作行為を楽しもうとしても、「勉強しなければ」という義務感のような思いに襲われる。そして自分の書きたいという思いに逆らって論文を読み、また論文を読むという日々を修士時代は過ごしていた。だから修士の2年間で積み重ねた院生生活日誌は決して多くなく、学部時代の学生生活日記のほうが充実しているかもしれない。
しかし、この1週間はおどろくほどPCに向き合って文章を書いている。自分の素直な気持ちをキーボードにぶつけているのだ。一方で、いわゆる研究活動は一切しなくなった。図書案で本を読むといえば、今まで読んでいた難しい本ではなく、どのようにして英語の授業に一工夫加えるのかといった実践本が中心となっている。そして、まるでこの生活の中では今までが研究一色だったその痕跡さえも探ることができないほど研究から離れてしまっている。たしか、以前私は研究をしていても、「これは俺が好きだからやっている」ということを主張していたし、この日記にも書いていたような気がする。何故、そのように言ったり書いたりしていたのだろうか、と考えてみる。好きなことは人からの強制などなしにやり続けるものである、ということを考えると、私は決して研究が好きだからやっていたのではないという可能性を考えざるを得ない。好きだ、と言っていたのは心から愛しているのではなく、自分の将来の目標の達成のために必要だからやっていることを正当化し、自分を納得させようとしていたからではないだろうか。ある教授から言われたのだが、「研究をやっていく中では、時にはOOが俺は好きなんだ」と無理やり納得させなければならない時が来る、と。たしかその時の英語は、You sometimes have to force yourself to like what you study.だった気がする。しかしその教授はこれを言うときにforce yourself to like researchとは言っていない。つまり、研究行為自体は好きなことが前提で、それを進めていく中で好きではないことにぶち当たったら、好きだと思い込まなければならないという意味で言ってくれたんだと思う。では、博士に落ちた時点で今までの研究のことを一切考えなくなる私は研究者としての資格があるのだろうか、本当の研究者ならば、落ちたくらいでへこまずに自分の研究を続けていくことができるのではないだろうか、とそう思う。だとしたら、自分は博士課程に行く資格があるのだろうか。
しかし、その「研究が好きで好きで仕方がない人だけが研究者になれる」という自分の思い込みがそもそも正しいのかという疑問が残る。世間一般に、「勉強」は決して楽しいものとみなされていはいない。高校生にとっての受験勉強など苦痛と思われているし、修士論文も「頑張る」ものだとされている。ということは、自分のように研究のことを無理やりでも好きだと思おうとする人にもチャンスがあっての良い気がしてくる。まあ、全てがforce myself to likeかと言えば、そうではない。特に留学系の論文を読んでいて何らかの新しい発見があると「楽しい」と思えて、もっとそのことについて知りたいと考えて論文をあさることもある。この現象をもっと詳しく分析すると、「だんだんと知識が積み重なっていくことが楽しい」とでもいえるかもしれない。机にむかって誰とも話さずに研究する行為が楽しいかと言えば、無条件に首を縦に振ることはできないが、自分の努力で少しずつ知っていることが増えていき、ある現象に関する理解が深まるプロセスは楽しいと断言することができる。
ただそれは、自分が研究のことを「仕事だから」と思ってやっているからなのかもしれない。同じ仕事ならば、前の会社でやっていたようなPCと向かう作業で正確さと気遣いを要求されるような仕事ではなく、図書館で論文を読み、それを成果としてまとめる仕事のほうが本質的に面白い、という比較の視点があることも否定しない。ただ、いくら私がこれを「仕事だ」と捉えていても、世間や社会はそのように捉えてくれるとは限らない。論文を50本読もうと、100本読もうとそれに基づいた報酬を受け取ることはできないのである。おまけにこれを続けたからといって、大学教員という、地位が保障され、お金をもらっているからこそ研究活動に打ち込むという状況を手に入れることができるとは限らない。つまり若いうちは先が見えないブラックホールの中にいるかのような生活になってしまう。安定した収入は望めない、恋人もできないなど世間一般の価値からは外れてしまうために誰もが気軽に目指すような道ではないのだろう。しかし、いったん成功街道に乗れば、平均よりも多い収入を手にすることができるし、時間にゆとりをもった生活をすることもできるし、OO教授と呼ばれることにもなる。何度も言うがハイリスクハイリターンの道なのだ。
話を元に戻すが、自分は研究が本当に心から好きだとは言えない。では、教えることはどうだろうか、英語を教えることは今までずっと好きだと思ってやってきたし、そもそも修士に進んだのも、英語を教えることについてもっと勉強したいから、という理由だった。家庭教師、ラオス、イーオンなど主要な教育現場を経験してきたが、まだ学校教育だけには向き合えていない。しかし、将来もし研究の道に進まないとなると、おそらく9割以上学校教育の道に入ることになるだろう。それは、自分の人生の軸を決める、おそらく最初で最後の大きな決断だ。一方でまだ、この決断をするには早いのではないか、と思う。なぜかと言えば、学校教育を経験していないのだから。修士の2年間で研究をするということがどういうことなのか、楽しいこと、つらいことなどはかじる程度には経験することができた。しかし、一方で当初の目的であった、英語を教えることに関してはそこまで経験できたとは言えない。やはり論文や教科書で扱われる多くの議論が学校教育を中心としたものである限りは、それは避けて通れない登竜門的な位置付けなのだと思う。だから、自分は研究を本当に愛せるのか、という質問に対する答えは先送りにしようと思う。教育を経験した後に、それは自然と見えてくるに違いない。遠く離れた恋人をそれでも想うならば、それが本物の愛であるように。
さあ、外の天気もかなり回復してきた。YAHOO天気によれば14時30分は傘のマークがなかったが、15時30分には再びそれが現れていた。つまり、今のうちに帰ったほうが良いとうことかもしれない。マクドナルドでは当初フィレオフィッシュとコーヒーだけにするつもりだったが、図らずしも100円割引の誘惑に負けてチキンナゲットを注文してしまった。このままではせっかくサイクリングに出たのに消費カロリーではプラスになってしまう・・・なんて笑えない話にもなりかねない。今日はサイクリングとジムで体を絞ることにする。では、また。

