※2012年6月からの抜粋。大晦日に読んでいて面白いなあと思ったのでブログにUP
(私が前務めていた会社では、本配属前に工場研修というものがあり、事務系社員でも技術系の部署もしくは、工場内のラインで3か月ほど働くことになる。これは研修のG工場において技術系の部署で働き始めて1か月と少し経ったころでO工場のライン作業への異動を命じられた時のエピソードである。個人名等はすべて仮名。)
実は最近仕事でとてつもなく大きな変化が起きた。それは異動である。
それまではG工場に勤務していたがある日出社したら急に「シェル君、白井君、角田君の3人はO工場でラインに入って仕事をしてもらうことになった」と三上マネージャーから言われた。
突然のことだった、火曜日の夕方に言われて翌日の朝にはO工場で受け入れ教育を受けることになったのだ。
「何故私が?!」というのが正直な思いである。私は正直なところ新人研修でプロセス技術という馴染みのない技術系の部署に配属されてから、はじめは嫌だったが先輩方の力になろうと日々努力して器具の使い方、エクセルの使い方などを覚えてきたのだ。
そして、他の同期のメンバーに比べて自分が一番仕事をしていると思った。みなが座学を強要されているときも防塵服を着て現場へ赴き先輩社員の補助をしたり、顕微鏡をのぞいたりしていた。よく無茶ぶりをされたり、自分の技術的知識の無さを嘆いたりとそれなりにプレッシャーの大きい職場ではあったが、やりがいは少しは感じていたし、幅の広い仕事をやらせてもらえていたし、勉強になることが多かったのでやりがいは感じていた。
だから選ばれるにしても私だけは絶対にこのG工場に残ることができると考えていたのだ。それだけにこの異動はかなりショックだった。そんなことで次の日にO工場に行って研修を受けていると他の同期のメンバーから様々な噂がまわってくる。
例えば「この工場勤務は実は9月まで続く」とか、「4勤2休で夜勤も入ってくる」などである。それならばまだマシだったのだが、更に私を不機嫌にさせたのは今週の金曜日からいきなり工場勤務が始まり金曜、土曜の日勤もしくは金曜の夜勤という2つの選択しか残されていないということだった。(どのみち土曜日は潰れるということ)
つまり金曜日の夜に彼女に会いに東京に行く予定をしていたが、前日になってそれが無理だとわかったということである。これにはかなり腹が立った。だいたい何故前日にそんな重要なことを言ってくるのだろうか。
今までのカレンダー通りの勤務体系から変わって工場勤務になるということは私にとってかなり重要な変化であったし、今週末、来週末には予定を入れてしまっているのである。そして木曜日の午前中までは私は金曜日に東京に行く気満々で出勤していたのだ。
例えば研修の始まる前にもう完全に日程を説明されて予定通りに研修を終えるならば充分納得がいく、100点満点である。しかし、今回はそんなものではない、工場勤務の可能性についても上司や人事からではなく、同期の噂話からまわってきて、それも初めは「来週の月曜日から」ということだった。
それが水曜日にもうO工場に呼び出されて、木曜日には週末がつぶれるということがわかるなんて急激に事態が明らかになって悪化していくのだ。政治家などが悪いことをやってどんどんそれが大きくなって明るみに出るのと似ている。
だいたいもし私たち新人をそうやって工場に駆り出す予定などがあれば何故もっと前もって言ってくれないのだろうか、こちらの都合など何も考えていない。しかし同時にそれはある意味社訓にある「顧客優先」を忠実に実行しているということなのかもしれない。
多分今回の変更も上の勝手で怠惰な判断という要素はぬぐいきれないとしても顧客から要請があり、納期を守らざるを得ない、もしくは早めるために一応フリーになっている新人にお願いしてラインを動かすという苦肉の策だったかもしれないのだ。
そこは会社という組織に所属する以上は覚悟しておかなければならないことなのである。特に私の会社のような部品メーカーは完成品を作る会社のいいなりにならなければやっていけないこともあるのでそこは宿命なのだ。
ということで私は少しでも東京に行く可能性を残すために金曜日の夜勤を選択して会社を後にした。
その埋め合わせをするという目的も兼ねて私は日野さんという主任に「どうか来週の土日だけはお休みがいただけるよう調整いただけますと幸いです、申し訳ありません」とお願いをしておいた。その結果、フタをあけてみると土日は休みになっていた。
翌日は夜勤ということで20時に出勤するまで暇だった。
夜勤が人生初ということでどう過ごせばよいのかわからない私はとりあえず10時すぎに起きて適当に時間を過ごしてO工場まで車の運転の練習をしてから母と一緒に買い物に行った。
帰宅後は少し仮眠を撮って勤務に向かった。
そして、今日この日こそが自動車運転デビューの日だった。今までは免許こそ持っていたが自分の車を持っていなかったし、1人で運転することも許されていなかった。今まで運転といえば必ず父が隣に乗ってどこか近場に行く程度のものだった。
しかし、最近では家の駐車スペースにバックで車を停めたり、ショッピングセンターの駐車場に駐車したりと少しずつ運転に慣れてきつつあった。また自動車を運転することでその特性をつかんだり、バックする感覚をつかむことにも慣れてきた。
だから、今回いきなり夜勤になって、夜自転車で通勤することと、1人で車を運転することを比べたら車のほうが安全だという結論になって1人で行くことにした。
それでもじいちゃんが「一緒に付いていって車を持って帰ってまた迎えにきてやる」と言ってきた。しかしいつかは独り立ちをすることも必要だと思っていたしその「けじめ」を早くつけることに越したことはないので今日をその日に選んだ。
時刻は夕方7時10分。辺りは次第に暗くなりはじめてライトを点灯する必要のある時間になった。街は次第にネオンによって色づき始めて街の空気全体が私たちに向かって「お疲れ様」を言っているように感じる時間帯である。
夕食を食べ終えてシャワーも済ませた私はフィットのエンジンをかけた。グオーンとうこのサイズの車にしては低音のエンジン音が鳴り響いた、もうこの音にもだいぶ耳が慣れてきた。道路は家路を急ぐ人々の車で若干混雑をしていた。金曜日の7時過ぎともなると社会人の頭の中にあるのはもう週末の休日のことだけであろう。
あるいは帰宅後のビールのことかもしれない。暖かい空気の中行き交う車のライトは安心感、またうきうきとした気分を反映するかのように揺れていた。その中を私は工場の夜勤へと向かうのである。
しかし今回は不思議と憂鬱な気分は無かった。それは「ビギナーズ効果」とでも呼べるものなのかもしれない。今まで自分は当然夜勤の経験などなくてそれは自分にとって「未知なもの」である。未知なものというのは、最悪でない限り人間はある種の興奮、高揚感をおぼえるものだと思うのだ。
例えば未知の来客が来るとか、自分が言ったことのない場所に行くとか。それは自分が今までの人生で知りえなかった「非日常」がその先に待っているからなのだ。
更にこのとき私はその目の前にある「工場夜勤」という非日常と車を1人で運転するということを同時に経験していたのだ。だから本来だと東京行きがなくなるという気分がとてつもなく沈んでもおかしくない状態なのにこのような高揚感を感じることが出来たのだと思う。
O工場は巨大な砦のような異彩を放っていた。日が暮れて空はだんだんと暗くなり深い青になっているのだが、その青をバックに聳え立つO工場を見るとそれがある部分だけ色が一段と深い青になってある種の不気味さを湛えている。
ところどころにある赤い点はまるでそれが私たち労働者を監視する赤い目のようにこちらのことを見つめてくる。その巨大な敷地内を歩く私の横を東海道線の列車が轟音を響かせて通り過ぎていく。
よく見るとその列車は2両編成だった。そう、研修のころは自分もあの列車に乗って家路を急いでいた時間だと急に懐かしく思えた。
ひょっとすると私の同期はあの列車に乗っているかもしれない。あの列車に乗っていた頃、近くに見えるO工場を目にして「私の会社は巨大な会社だからホワイトカラーの労働者もいるが、こういったところで夜勤をしている人もいるんだなあ~、まあ自分に関係のない世界かと思っていたが、今実際に私はその自らが描いた絵の中の1ピースとなっているのだ。
私はリュックを背負って長い長い通路をエントランスに向かって歩いていく。時間はまだ7時20分過ぎと余裕のある時間帯である。前から同じような私服を着た社員が次々と笑顔で工場内から出てくるのにすれ違った。この時間に出てくるのはどういった人なのだろうかとふと私は疑問に思う。おそらく技術系の社員達なのだろうがそれにしては中には柄の悪そうな人や頭が悪そうな人も混ざっている。
しかしこの工場は2交代制をとっていると聞いたので終わりの時間が20時ということを考えると少し早すぎるようにも思える。
おそらくその辺りはかなり流動的なのであろう。企業も余分に給料を払いたくないので早く仕事が終わればそのまま家に帰しているのかもしれない。
服を着替えて製造ラインに到着すると白井君は既に到着していたが他の2人はまだ来ていなかった。防塵服に着替えて中に入ると日勤の同期たちがまだ流動の作業を行っている最中であった。
その他にも製造の方、技術の方などかなり多くの人がそこにはいてなんだかごった返しているという印象があった。私たちは同期同士で言葉を交わしつつ作業についた。私が担当することになった仕事は、簡単に言えば機械が製造した製品を取り出して板に載せてそれを乾燥機の中に入れるという仕事だった。
本来ならばベルトコンベアの機械が担当するのだが、このO工場は大きい製品用にラインが組み立てられており、小さい製品を流すことはできないのだ。
よってこのコンベア装置の代わりを人間が行うことになったのだ。特に今回は単純作業の中の単純作業と言ってもよく、経験や知識を必要としないのでこれほどまで多くの新入社員が工場にまわされたのだと思っている。
勤務を開始してから1~2時間ほどは主任の日野さんが残って言葉をかけてくれたり、技術の丹沢さんが色々なデータを取っていたりと少しあわただしかったが、それが終わると工場の機械達が奏でる一定の騒音を除いては無音の空間となった。
そこには生気を感じさせるものがなく、全てが一定の枠組みの中に納まって物事が進行している。
時折聞こえてくる異常を知らせるランプ以外にそのリズムを乱すものはなく、いかにも工場労働をしているという気分に私たちはさせられたのだった。
私のポジションはもう1人の機械に製品を投入する同期と場所が近いこともあって少し話しつつ作業をしていたのだが、乾燥機ラインで仕事をしている白井君と角田君はかなり暑い中、誰とも話すことなくひたすらにラインに向かわねばならないのでかなり精神的にキツい仕事だと思った。
私たちのグループの担当の上司は青山さんという30過ぎのにいちゃんとおじさんの間といった人でかなり気さくで、いろいろとやさしく教えてくれる人だったので安心した。
他の人は安田さんと森さんという人なのだが、安田さんはかなり厳しくて、森さんは経験不足で中では一番青山さんが良いといわれていたのでそれはそれで幸運だ。
22時になると休憩の時間になった。今回は全ての作業が初めてやることだったので時間が経過するのがかなり早く感じられた。
噂によると青山さんは休憩をものすごく沢山くれる人だと聞いていたのだが、それは果たして本当だった。
私たちは明らかに30分くらい休憩していたのだがそれをとがめられることはなく、青山さんも30分くらい休憩を取ってから戻ってきたのだった。
休憩のときに廊下などを歩いているとその工場の雰囲気が明らかに昼と異なっているのに気がつく。活気があった廊下は暗闇の中に沈んでいて端っこのほうなど電気が点いてないところはその闇が果てしない深淵にまで伸びているかのようである。
外を見渡すと反対側にあるUI5という工場が見えるのだがそこは現在設備が入っていなくてまだ使われていないようでがらんどうになっていて不気味な雰囲気を醸し出している。
あそこに1人で行けといわれても簡単に首を縦に振る人はいないだろう。白井君曰くこの雰囲気はまるで夜の病院を思わせた、しかも開業して間もない無機質な病院である。そんな探検が終わって現場に戻ってからは全てが平穏に過ぎていった。
私たちは11時過ぎに再び夜食の休憩をもらえた。みなで食堂に集まって弁当やらおにぎりを食べるのだが、だだっ広い食堂は全て灯りの下に照らされているわけではなく休憩使用が禁止されている部分はまた闇に支配されていた。
私たちはおのおの買った弁当などを食べて時間を過ごした。他の労働者達もそこでおにぎりやらカップ麺を食べているのだが、一様に無口で覇気がなかった。長らく夜勤をやっているとこのようになってしまうのだろうかと少し気の毒に思えた。
しかしどんなことをしていても平等に時計の針は進む。午前1、2時に永遠と続くのではないかとさえ思えた思い時間はだんだんと軽くなり、それにつれて夜も明けて辺りも明るくなっていった。
眠気は2時くらいに襲ってきて3時間ほど私を苦しめたが、休憩のたびに少し寝て、コーヒーを飲むことでそれほど難なくしのぐことができたのだった。
そして6時になったところで製品の流動が全て終了して私たちの夜勤や終了となった。これは青山さんに大いに感謝している。本来ならば8時までの夜勤なのだが、残りの作業は自分ひとりでやっておくからということで帰してくれたのだった。
外に出るともう完全に明るくなった空の下、街が少しずつ活動を始めているのだった。ゲートのところでは警備員のおじさんたちが体操を行っている。
このような大工場では警備の人たちも24時間体制で勤務されているのだ。駐車場を見渡すとあんなにたくさんあった車の大半が消えていた。
特にB駐車場に至っては車はゴマ粒のように点在しているだけで私の遠くからでも初心者マークをつけたフィットを見るけることができた。これからまた1人でドライブできると考えると少し心が浮き立った。
そう、この時間に家に帰るのはまるで学生時代のオールのようなものである。だから夜勤明けというよりもオール明けという感じのノリでそのまま運転して吉野家に入った。
そこで牛丼を食べていると学生の最後にしたオールを思い出した。文字通り学生最終日で、馴染みのメンバーでオールしていた。その時も終わりに吉野家で食べたのだった。そんな非日常的な半日と共に家路についたのであった。
(私が前務めていた会社では、本配属前に工場研修というものがあり、事務系社員でも技術系の部署もしくは、工場内のラインで3か月ほど働くことになる。これは研修のG工場において技術系の部署で働き始めて1か月と少し経ったころでO工場のライン作業への異動を命じられた時のエピソードである。個人名等はすべて仮名。)
実は最近仕事でとてつもなく大きな変化が起きた。それは異動である。
それまではG工場に勤務していたがある日出社したら急に「シェル君、白井君、角田君の3人はO工場でラインに入って仕事をしてもらうことになった」と三上マネージャーから言われた。
突然のことだった、火曜日の夕方に言われて翌日の朝にはO工場で受け入れ教育を受けることになったのだ。
「何故私が?!」というのが正直な思いである。私は正直なところ新人研修でプロセス技術という馴染みのない技術系の部署に配属されてから、はじめは嫌だったが先輩方の力になろうと日々努力して器具の使い方、エクセルの使い方などを覚えてきたのだ。
そして、他の同期のメンバーに比べて自分が一番仕事をしていると思った。みなが座学を強要されているときも防塵服を着て現場へ赴き先輩社員の補助をしたり、顕微鏡をのぞいたりしていた。よく無茶ぶりをされたり、自分の技術的知識の無さを嘆いたりとそれなりにプレッシャーの大きい職場ではあったが、やりがいは少しは感じていたし、幅の広い仕事をやらせてもらえていたし、勉強になることが多かったのでやりがいは感じていた。
だから選ばれるにしても私だけは絶対にこのG工場に残ることができると考えていたのだ。それだけにこの異動はかなりショックだった。そんなことで次の日にO工場に行って研修を受けていると他の同期のメンバーから様々な噂がまわってくる。
例えば「この工場勤務は実は9月まで続く」とか、「4勤2休で夜勤も入ってくる」などである。それならばまだマシだったのだが、更に私を不機嫌にさせたのは今週の金曜日からいきなり工場勤務が始まり金曜、土曜の日勤もしくは金曜の夜勤という2つの選択しか残されていないということだった。(どのみち土曜日は潰れるということ)
つまり金曜日の夜に彼女に会いに東京に行く予定をしていたが、前日になってそれが無理だとわかったということである。これにはかなり腹が立った。だいたい何故前日にそんな重要なことを言ってくるのだろうか。
今までのカレンダー通りの勤務体系から変わって工場勤務になるということは私にとってかなり重要な変化であったし、今週末、来週末には予定を入れてしまっているのである。そして木曜日の午前中までは私は金曜日に東京に行く気満々で出勤していたのだ。
例えば研修の始まる前にもう完全に日程を説明されて予定通りに研修を終えるならば充分納得がいく、100点満点である。しかし、今回はそんなものではない、工場勤務の可能性についても上司や人事からではなく、同期の噂話からまわってきて、それも初めは「来週の月曜日から」ということだった。
それが水曜日にもうO工場に呼び出されて、木曜日には週末がつぶれるということがわかるなんて急激に事態が明らかになって悪化していくのだ。政治家などが悪いことをやってどんどんそれが大きくなって明るみに出るのと似ている。
だいたいもし私たち新人をそうやって工場に駆り出す予定などがあれば何故もっと前もって言ってくれないのだろうか、こちらの都合など何も考えていない。しかし同時にそれはある意味社訓にある「顧客優先」を忠実に実行しているということなのかもしれない。
多分今回の変更も上の勝手で怠惰な判断という要素はぬぐいきれないとしても顧客から要請があり、納期を守らざるを得ない、もしくは早めるために一応フリーになっている新人にお願いしてラインを動かすという苦肉の策だったかもしれないのだ。
そこは会社という組織に所属する以上は覚悟しておかなければならないことなのである。特に私の会社のような部品メーカーは完成品を作る会社のいいなりにならなければやっていけないこともあるのでそこは宿命なのだ。
ということで私は少しでも東京に行く可能性を残すために金曜日の夜勤を選択して会社を後にした。
その埋め合わせをするという目的も兼ねて私は日野さんという主任に「どうか来週の土日だけはお休みがいただけるよう調整いただけますと幸いです、申し訳ありません」とお願いをしておいた。その結果、フタをあけてみると土日は休みになっていた。
翌日は夜勤ということで20時に出勤するまで暇だった。
夜勤が人生初ということでどう過ごせばよいのかわからない私はとりあえず10時すぎに起きて適当に時間を過ごしてO工場まで車の運転の練習をしてから母と一緒に買い物に行った。
帰宅後は少し仮眠を撮って勤務に向かった。
そして、今日この日こそが自動車運転デビューの日だった。今までは免許こそ持っていたが自分の車を持っていなかったし、1人で運転することも許されていなかった。今まで運転といえば必ず父が隣に乗ってどこか近場に行く程度のものだった。
しかし、最近では家の駐車スペースにバックで車を停めたり、ショッピングセンターの駐車場に駐車したりと少しずつ運転に慣れてきつつあった。また自動車を運転することでその特性をつかんだり、バックする感覚をつかむことにも慣れてきた。
だから、今回いきなり夜勤になって、夜自転車で通勤することと、1人で車を運転することを比べたら車のほうが安全だという結論になって1人で行くことにした。
それでもじいちゃんが「一緒に付いていって車を持って帰ってまた迎えにきてやる」と言ってきた。しかしいつかは独り立ちをすることも必要だと思っていたしその「けじめ」を早くつけることに越したことはないので今日をその日に選んだ。
時刻は夕方7時10分。辺りは次第に暗くなりはじめてライトを点灯する必要のある時間になった。街は次第にネオンによって色づき始めて街の空気全体が私たちに向かって「お疲れ様」を言っているように感じる時間帯である。
夕食を食べ終えてシャワーも済ませた私はフィットのエンジンをかけた。グオーンとうこのサイズの車にしては低音のエンジン音が鳴り響いた、もうこの音にもだいぶ耳が慣れてきた。道路は家路を急ぐ人々の車で若干混雑をしていた。金曜日の7時過ぎともなると社会人の頭の中にあるのはもう週末の休日のことだけであろう。
あるいは帰宅後のビールのことかもしれない。暖かい空気の中行き交う車のライトは安心感、またうきうきとした気分を反映するかのように揺れていた。その中を私は工場の夜勤へと向かうのである。
しかし今回は不思議と憂鬱な気分は無かった。それは「ビギナーズ効果」とでも呼べるものなのかもしれない。今まで自分は当然夜勤の経験などなくてそれは自分にとって「未知なもの」である。未知なものというのは、最悪でない限り人間はある種の興奮、高揚感をおぼえるものだと思うのだ。
例えば未知の来客が来るとか、自分が言ったことのない場所に行くとか。それは自分が今までの人生で知りえなかった「非日常」がその先に待っているからなのだ。
更にこのとき私はその目の前にある「工場夜勤」という非日常と車を1人で運転するということを同時に経験していたのだ。だから本来だと東京行きがなくなるという気分がとてつもなく沈んでもおかしくない状態なのにこのような高揚感を感じることが出来たのだと思う。
O工場は巨大な砦のような異彩を放っていた。日が暮れて空はだんだんと暗くなり深い青になっているのだが、その青をバックに聳え立つO工場を見るとそれがある部分だけ色が一段と深い青になってある種の不気味さを湛えている。
ところどころにある赤い点はまるでそれが私たち労働者を監視する赤い目のようにこちらのことを見つめてくる。その巨大な敷地内を歩く私の横を東海道線の列車が轟音を響かせて通り過ぎていく。
よく見るとその列車は2両編成だった。そう、研修のころは自分もあの列車に乗って家路を急いでいた時間だと急に懐かしく思えた。
ひょっとすると私の同期はあの列車に乗っているかもしれない。あの列車に乗っていた頃、近くに見えるO工場を目にして「私の会社は巨大な会社だからホワイトカラーの労働者もいるが、こういったところで夜勤をしている人もいるんだなあ~、まあ自分に関係のない世界かと思っていたが、今実際に私はその自らが描いた絵の中の1ピースとなっているのだ。
私はリュックを背負って長い長い通路をエントランスに向かって歩いていく。時間はまだ7時20分過ぎと余裕のある時間帯である。前から同じような私服を着た社員が次々と笑顔で工場内から出てくるのにすれ違った。この時間に出てくるのはどういった人なのだろうかとふと私は疑問に思う。おそらく技術系の社員達なのだろうがそれにしては中には柄の悪そうな人や頭が悪そうな人も混ざっている。
しかしこの工場は2交代制をとっていると聞いたので終わりの時間が20時ということを考えると少し早すぎるようにも思える。
おそらくその辺りはかなり流動的なのであろう。企業も余分に給料を払いたくないので早く仕事が終わればそのまま家に帰しているのかもしれない。
服を着替えて製造ラインに到着すると白井君は既に到着していたが他の2人はまだ来ていなかった。防塵服に着替えて中に入ると日勤の同期たちがまだ流動の作業を行っている最中であった。
その他にも製造の方、技術の方などかなり多くの人がそこにはいてなんだかごった返しているという印象があった。私たちは同期同士で言葉を交わしつつ作業についた。私が担当することになった仕事は、簡単に言えば機械が製造した製品を取り出して板に載せてそれを乾燥機の中に入れるという仕事だった。
本来ならばベルトコンベアの機械が担当するのだが、このO工場は大きい製品用にラインが組み立てられており、小さい製品を流すことはできないのだ。
よってこのコンベア装置の代わりを人間が行うことになったのだ。特に今回は単純作業の中の単純作業と言ってもよく、経験や知識を必要としないのでこれほどまで多くの新入社員が工場にまわされたのだと思っている。
勤務を開始してから1~2時間ほどは主任の日野さんが残って言葉をかけてくれたり、技術の丹沢さんが色々なデータを取っていたりと少しあわただしかったが、それが終わると工場の機械達が奏でる一定の騒音を除いては無音の空間となった。
そこには生気を感じさせるものがなく、全てが一定の枠組みの中に納まって物事が進行している。
時折聞こえてくる異常を知らせるランプ以外にそのリズムを乱すものはなく、いかにも工場労働をしているという気分に私たちはさせられたのだった。
私のポジションはもう1人の機械に製品を投入する同期と場所が近いこともあって少し話しつつ作業をしていたのだが、乾燥機ラインで仕事をしている白井君と角田君はかなり暑い中、誰とも話すことなくひたすらにラインに向かわねばならないのでかなり精神的にキツい仕事だと思った。
私たちのグループの担当の上司は青山さんという30過ぎのにいちゃんとおじさんの間といった人でかなり気さくで、いろいろとやさしく教えてくれる人だったので安心した。
他の人は安田さんと森さんという人なのだが、安田さんはかなり厳しくて、森さんは経験不足で中では一番青山さんが良いといわれていたのでそれはそれで幸運だ。
22時になると休憩の時間になった。今回は全ての作業が初めてやることだったので時間が経過するのがかなり早く感じられた。
噂によると青山さんは休憩をものすごく沢山くれる人だと聞いていたのだが、それは果たして本当だった。
私たちは明らかに30分くらい休憩していたのだがそれをとがめられることはなく、青山さんも30分くらい休憩を取ってから戻ってきたのだった。
休憩のときに廊下などを歩いているとその工場の雰囲気が明らかに昼と異なっているのに気がつく。活気があった廊下は暗闇の中に沈んでいて端っこのほうなど電気が点いてないところはその闇が果てしない深淵にまで伸びているかのようである。
外を見渡すと反対側にあるUI5という工場が見えるのだがそこは現在設備が入っていなくてまだ使われていないようでがらんどうになっていて不気味な雰囲気を醸し出している。
あそこに1人で行けといわれても簡単に首を縦に振る人はいないだろう。白井君曰くこの雰囲気はまるで夜の病院を思わせた、しかも開業して間もない無機質な病院である。そんな探検が終わって現場に戻ってからは全てが平穏に過ぎていった。
私たちは11時過ぎに再び夜食の休憩をもらえた。みなで食堂に集まって弁当やらおにぎりを食べるのだが、だだっ広い食堂は全て灯りの下に照らされているわけではなく休憩使用が禁止されている部分はまた闇に支配されていた。
私たちはおのおの買った弁当などを食べて時間を過ごした。他の労働者達もそこでおにぎりやらカップ麺を食べているのだが、一様に無口で覇気がなかった。長らく夜勤をやっているとこのようになってしまうのだろうかと少し気の毒に思えた。
しかしどんなことをしていても平等に時計の針は進む。午前1、2時に永遠と続くのではないかとさえ思えた思い時間はだんだんと軽くなり、それにつれて夜も明けて辺りも明るくなっていった。
眠気は2時くらいに襲ってきて3時間ほど私を苦しめたが、休憩のたびに少し寝て、コーヒーを飲むことでそれほど難なくしのぐことができたのだった。
そして6時になったところで製品の流動が全て終了して私たちの夜勤や終了となった。これは青山さんに大いに感謝している。本来ならば8時までの夜勤なのだが、残りの作業は自分ひとりでやっておくからということで帰してくれたのだった。
外に出るともう完全に明るくなった空の下、街が少しずつ活動を始めているのだった。ゲートのところでは警備員のおじさんたちが体操を行っている。
このような大工場では警備の人たちも24時間体制で勤務されているのだ。駐車場を見渡すとあんなにたくさんあった車の大半が消えていた。
特にB駐車場に至っては車はゴマ粒のように点在しているだけで私の遠くからでも初心者マークをつけたフィットを見るけることができた。これからまた1人でドライブできると考えると少し心が浮き立った。
そう、この時間に家に帰るのはまるで学生時代のオールのようなものである。だから夜勤明けというよりもオール明けという感じのノリでそのまま運転して吉野家に入った。
そこで牛丼を食べていると学生の最後にしたオールを思い出した。文字通り学生最終日で、馴染みのメンバーでオールしていた。その時も終わりに吉野家で食べたのだった。そんな非日常的な半日と共に家路についたのであった。