12月17日 修論提出
やっとこの日が来たか・・・という感じだった。今まで大事に育て続けてきた馬を初めてレースに出す想いだ。

こいつに取り組み始めたのは1年半以上前になる。図書館の自習室で勉強しているときにふとアイデアが浮かんできて結局そのアイデアをもとにしてここまで発展させてきた。思えばこいつのおかげでいろいろ学ばせてもらった。まずは基礎的な土台を作るためにどうやって研究を進めていけばよいのかということを学んだ。何もわからないところから履修した研究方法の授業ではいつも新しい発見の連続と自分ができないことを突きつけられて、悔しい想いばかりが残った。2013年の夏、親友の助けもあって神田外国語大学でパイロット研究を行うこともできた。そこで出会うことができた被験者たちからもいろいろと学ばせてもらった。普段交流がない大学の学生ともこの研究によってつながることができた。

もちろん本を読んでOOについて学んだ、とかそういうことも大事なのだが、一番大事だと思えることはやはりこういった大きな目標に向かってどのように取り組んでいけばよいのかを必死になって考えて、それを試行錯誤して実行し、最終的にはやり遂げるところまでもっていけたということだろう。はじめはとてつもなく大きな目標に見えた。学部生の時に修士論文を書くという大学院生と仲良くなって話したこともあるが、よくこんな大変なことを自ら選んでやるものだと自分とは関係のないことのように思えた。

実際に大学院に入ってからも最初からやる気があったわけではない。どちらかというと、「書かなければならないもの」だった修士論文。しかし、途中から自分の中で意識が変わり始めたのは事実だ。そもそも何故「書かなければならない」のだろうか。書かなければ俺は死ぬのか、書かないのがむしろ普通だろと。書かなければならないと思うようならば、書かないほうがマシだ。書かなければならないと言っていたあるゼミの学生は結果辞めたが、そもそも大学院は書かなければならないと思っているような人が来るべき場所ではないのだと悟った。今でも私はその時のことを覚えている。ゼミが終わってエレベータに乗るときに、「ああ、修論が憂鬱だ・・・」と漏らしていたその学生。そこで私は大きな違和感を覚えた。なぜそんな憂鬱にしているならそもそも大学院などに来たのかと。自慢ではないが、今まで修論が憂鬱とか嫌だなんて思ったこともないし、人が思っている気持ちを理解できたこともない。理由は簡単だ。嫌ならそもそも来なければ良い。

同時にだんだんと自分の中で知識が積みあがっていき、パイロット研究のデータ分析などから実際の研究のデザインが確立されてくるにつれて、自分の中でモチベ―ションが変化していった。何とかして良質なデータを取りたい。そしてデータを取ったら、いかにしてこれらに語らせることができるのだろうかと気になって分析法について勉強する。しかし、当然付け焼刃の分析法などでは問題の本質にたどり着くことはできずにこんなもので良いのだろうかと悩み、壁にぶち当たる。しばらく全く異なった文献を読んでいるうちに、別の見方もあるのだと気づき、学生へのインタビューなどを盛り込む。インタビューをすると実際の参加者から生の声を聴くことができ、「そうか、学習者はこんなふうに考えていたのか」という新しい発見につながる。さて、データはそろった、じゃあいかにしてこれらを文章にまとめていくのかというところでまた戸惑う。一体全体どんなふうにしたら自分の言いたいことが伝わるのか!そんなことは到底不可能だ、と思い、また壁にぶち当たる。しかし、今度は根気よく小さな部分に分けて書いていくと少しずつだが「自分の作品」が出来上がっていく感覚が伝わってくる。そうするともっと全体像、完成系を見たいと思ってどんどん集中できるようになる。それの積み重ねでやっと完成系ができた!と思って、心躍る思いでパソコン室に行きプリントアウトする。しかし、途中は完璧なつもりで書いていてもいくつものミスや分かりにくい点が見つかり、またその原稿をもとにして作り直していく。だんだんと、だんだんとそれは美しいものに仕上がっていく。表現の一つから、引用の一つまで、ここじゃなきゃだめだとか、これじゃなきゃ不自然だというものを見つけるまで原稿や文献を行ったり来たりする。中には何も進まずに一日が終わることもあれば、大きな進展がみられる日もある。しかし、これら全部含めてこの研究の面白さなのだ。

気づけば初めて「完成系を作った!」とはしゃいでから、もう延べ5回も修正を重ねた原稿をプリントアウトし直している。自分の本棚には、初めて全体をプリントアウトしたもの、それを直したもの、英語表現をチェックしなおしたもの、そこから最後に追い込んでかなり変えたもの、最終チェックのためにもう一度印刷したものがある。それらを見比べてみると、全く変わっていないところもあれば、大きく変えられたところもある。それと同時に、これらをプリントアウトしたときの自分を思い出すことができる。それぞれの原稿の中に、それぞれの自分が生きているのだ。これはただ、「書かなければいけないから」書いたものではない。書きたくて書きたくて、うまく表現したくてしたくて、でもできなくて、そんな堂々巡りを乗り越えて自分が成長した足跡そのものなのだ。結果、今僕はこれを書く機会を与えてもらえてとても良かったと心から言える。思えばこいつだけではない。他にこの修士2年間を通して書いてきたペーパーは、20は下らない。それらの中でもいろいろな本や考え方に出会い、ライティングについても勉強し、何度か書き直すというプロセスを経てきた。だから、それぞれの文書の中にそこにしかない思いが詰まっている。自分にとって、これこそが「生きた証」を意味するものだと思っている。機械でもできる仕事で、自分がそこを去ったら何も残らない。そんなものは自分に向いていない。自分でしかできないもの、何か形に残るもの、それを残せるのはこの世界だけな気がする。

次はいよいよこうした文章の集大成である博士論文に挑戦する予定だ。いや、それは勘違いかもしれない。僕の指導教員はいつも言っていた。博士論文こそあらゆる科学的創作活動のはじまりなのだと。