社会人。事実この言葉を聞いただけで何やら尊敬の念を抱き、無意識にすごいと思ってしまう。特に愚かな学生ほどこの傾向は顕著である。しかし、社会人になりさえすれば、全てはうまく、問題なく回っていくのだろうか。いや、そんなことはない。社会人になるとたしかに学生とは異なり、日々が見かけ上は忙しくなり、仕事に没頭していればなんとなくうまくまわっているように見えるかもしれないが、実際は簡単に解けぬ疑問や矛盾ばかり抱えているのだ。むしろ、日々に集中しさえしていればなんとなく流れに乗ることはできるのでそれが逆に自らの心の奥に目を向けてみる勇気を奪い去っていく。それがふとした瞬間に、自分の理想とはかけ離れたことをしているということ自分に気付いてしまう。つまり、学生が思っているほど、社会人など完璧な人間ではない。それだけ自己実現というものは難しい。特に高学歴化が進み、とてつもなく多くの道が目の前に用意されたこの現代においては、これが正解という明らかな答えなんて見つけることは不可能だ。かといって、例えばパイロット、医者、弁護士、教師など専門的で誰もが知っているような仕事に進むにはもう遅すぎるしなんか決まりきった人生バカらしい・・・そう思ったとき、若者の苦悩は始まる。社会人になるということは自立することだけではない。自分らしく生きることを苦しく、激しく求めるそんな長い旅の始まりなのだ。このエッセイでは、現在社会人になって3年目を迎えるふたりの女性の人生をちょっとだけ覗かせてもらって、社会人って何?ってことを考えようと思う。
蓬莱明子 編
彼女の名前は明子。彼女は多くの人が「破天荒だ」と言うような人生を歩んでいる。しかし、明子は別に自分が異質だ、狂っているなんて思っていない。大学を卒業したときは、他の多くの大学生たちと同じようにゲートが開いてヨーイドン。4月からは地元の栃木県に帰り地銀に就職した。しかし、彼女は最初からこれがベストだとは思っていなかった。そもそも就職活動という世間一般の行為をどうも自分らしいものとして捉えることができなかったのだ。周りがどんどん黒いスーツに身を包んでいく中、ただ一人パーカーを着て登校を続けた彼女だったが、結局は妥協して地元に帰るという道を取った。しかし4年生の秋になり東京への思い入れが強くなり大手の広告会社の面接を受けたが寸前のところで不採用となってしまい東京への未練を持ったまま体だけが栃木県へと切り離された。しかし、そんな状態に彼女が満足するはずがない。何度もプライベートで東京を訪れるうちにやはりこここそが自分のいるべき場所、何かが起こる予感のする場所だと思うようになった。東京には栃木にはい何かワクワクさせてくれるものがある。それに拍車をかけたのは地銀のお堅い仕事と家族との同居だった。明子は東京に来るたびに何か自分の背中に翼が生えたかのように感じただろう。このままで良いのか、このまま栃木に居たら自分だけが世間の流れから取り残されていってしまうような気がする。そう思ってからは速かった。あれよあれよという間に不動産関係の会社の内定を取り付けてまるで何事もなかったように北関東から去っていった、むしろ栃木県での暮らしのほうが今の彼女からしてみれば夢の中のような現実味のないものだったのだろう。さて、ここで彼女の心と体は再開した。約1年ぶりのリユニオンに仕事にも精が入った。何より一度失った東京を、スーツを着て自由に駆け巡ることができるのだ、これこそが生きていることだと感じていた。
しかし、そんな幸せは長くは続かなかった。とりあえず栃木のどん底からは這い上がったものの、果たしてこの今の仕事が自分に本当に合っているだろうかということは実は転職してから3、4か月で気付き始めたのだ。というのも、明子はどうも営業行為というのが好きになれなかった。コミュニケーションすること自体は苦手ではなかったが、何かを売るという営業の仕事をしているとき、自分は無理をしていると薄々気づき始めたのだ。それに契約が取れたからといって、それを自分の嬉しさと感じることができなかったのだ。東京に出たいという気持ちが大きく、転職の時にはあまり職種については考えていなかったが、どうやら営業は合っていない。だいたい今まで前に立って人を引っ張っていくような仕事をやってきただろうか。少なくとも学生時代は集団を代表するようなリーダー的な役割をこなすことはなく、コミュニケーションを取るときも小さな集団の中のメンバーとすることが多かった。ここからまた明子の苦悩が始まる。友人達に相談しても皆口をそろえて明子のことをコミュニケーションが上手い営業向きと言うのだ。しかし、自分の中ではそうやって他人から自分のことについて言われれば言われるほど、自分のみが本当に自分のことをわかっているような気分になり、結局また頭は転職のほうへ一歩ずつ近づいていくことになる。仕事は明子にとって人生の中で重要な意味を持つ。今までそれなりにこだわりを持って生きてきた彼女にとっては、本当に生きがいを持ってできる仕事に出会うことも生きてきた意味を見つけることにつながる。だから簡単に妥協はしたくない、それにまだ25歳だ。
結局周囲の反対を押し切って明子は2度目の転職活動を始める。この時魅力的に思えたのは営業をしなくても良い職場である程度安定した仕事だ。現在の会社は、仕事は肉体的に楽ではないうえに給料が低かった。東京という大都会で生活していくには余裕があるとは言えず、経済面も重視して転職活動を行った。そんな彼女の頭の中に浮かんできたのはある漢字2文字だ。それは「事務」という言葉。これは今まで自分が全く触れてこなかったフィールドである。しかし、実は裏方仕事を無難にこなす自信は昔からあった。そこに、転職エージェントからいい話が飛び込んできた。それはエージェントの人も鼻息を荒くするほどの好条件ということだった。会社は今をときめく広告業界の雄であり、彼女が今まで自分の財産として温めてきた英語力も少しは生かす機会がありそうに書かれていた。これだ、そう決めた明子は転職面接に臨んだ。次こそが自分の求めるべき職場なのだとそう信じてやまなかった。そして・・・結果は合格。しかし、この合格という言葉は2つのことを意味している。一つ目は文字通り職業を変われるということ。そしてもうひとつは今の会社を去らねばならないということだ。前の銀行のときと異なり、今はちゃんとした担当先を持っており、引き継ぎ作業、そしてなんといっても中途の身分で受け入れてくれた会社に反旗を翻すという行為はいくら仕事内容が向いてはいないと言ってもあまり心地の良いものではなかった。しかし、それでも彼女の決意は固く9月を持って新しい職場へと移った。いったい明子のアイデンティティはどこにあるのだろう。
世間ではよく「3度目の正直」という言葉が使われる。同じことを3回繰り返せば満足のいく結果が得られるというものだ。この言葉の背後には、同じことを3回も続けられる人はなかなかいないということと、ある程度経験値が加算され、3回やるころにはスキルもついてくるという意味がある。はたして彼女の場合はどうだろう。この3度目の正直という言葉は明子においてもあてはまるのか?答えは「否」だった。実は2度目の転職はひょっとすると前の転職よりも失敗かもしれない。まず第一に不満に思ったのは仕事内容そのものだ。今までは大学、営業となんだかんだいってそれなりに頭や体を使う仕事が多かった。前職ではある程度責任あるポジションであり、自分にも裁量権があった。しかし、今はどうだろう。ただ言われた仕事を単調にこなすだけの日々。仕事内容も創造性に富んだものではなく、一度覚えてしまえばあとは完全な作業と化すようなものばかりだ。自分はこんなことをするためにわざわざあれほど苦しい思いをしてきたのだろうか。更にこの状況に拍車をかけたのは、周りの同僚たちだ。事務は完全に女の世界だった。しかも明子が苦手とする今風の女たちがマジョリティになっている世界。今まで明子が交流してきた女子たちは大学、不動産、営業のどの世界においても、どちらかというと男と比べても遜色ない感じで、わりと「女子」というよりは、同じ「人間」として考えられる存在だった。つまりあまり女の子女の子していないフラットな人たち。あまり世間体を気にすることもなければ、女子独特のノリのようなものもなく、自分も自然体でいられた。しかし、今回の職場にたむろする女たちはどうも好きになれない。自分たちが女であることをどこまでも意識していて、全ての行動やしぐさに女らしさ、可愛らしさを追求している。しかも自分たちのことを世間でも上質な女だと思っているようだ。現に昼休みは必ず事務の女たちは集まって食事をする。そのお弁当もみなちょっと高級な弁当屋で買ったようなもので、手作りのものや、ほっともっとなど安い弁当を買ってくる人は見当たらない。おそらく彼女たちは実家暮らしだったり、大手に努める安定した彼氏がいてお金にはそれほど困っていないのだろう。かたやこっちは芝居を志すフリーターの弟とふたりでアパートを借りているというのに。決して彼女たちが明子に何か嫌がらせをするわけではなかったが、前までの職場には必ずと言っても良いほどいてくれたふたりで飲みに行きたいと思えるような同僚、先輩は見当たらなかった。とりあえずこの職場では給与面などでの待遇には満足できたとしても、仕事の内容には絶対に満足できない。また転職かあ・・・ おそらくその時はまたすぐにやってくるのだろう。しかし、転職のことを考える時、明子は不思議と嫌な気分にはならなかった。
丸瀬里奈 編
彼女の名前は丸瀬里奈。ここでは里奈と呼ぶことにしよう。里奈は学生時代から割と真面目だった。私の知る限り彼女は学生特有のわちゃわちゃしたノリなどが好きなわけではなく、グループで集まるとしても2~3人まで。むしろ一対一の交友関係を好むというタイプだった。そんな里奈は就職活動には成功したと言っても良い。おそらく元々頭が良いので頭脳明晰な応答とスラっとした容姿端麗さが評価されたのだろう。内定をもらって就職を決めた先は有名なイギリスの証券会社の日本法人だった。このこれ以上ない就職先を選んだ理由は意外にもそのネームバリューや収入ではなかった。里奈が本当に重視したのはある程度の会社であればむしろ働きやすさ、特にどんな人と一緒に働くことになるのかということだった。人事の真摯な対応と居心地の良さから入社した会社に里奈は居心地の良さを感じた。
入社して任せられたのは営業。営業とは言っても、明子がしていたような個々人のお客さんのもとを訪ねて自社のサービスや製品を売って契約するというものではなく、特定の顧客の金融的なサポートだ。どの顧客も日本はもちろんのこと世界でも有名な会社ばかりで長い付き合いのところが多く、その顧客が少しでも良い環境でビジネスができるように金融面からサポートを行うというのがわかりやすい言い方かもしれない。しかし、いくら売らなければないというプレッシャーがないにしても、名だたる大企業を相手にごまかしのきかない専門的な話をしなければならないので、かなりの専門知識が要求される。とにかく入社してからは毎日日本経済新聞を読んだり、金融や証券の専門書を購入して勉強は怠らないようにしている。仕事はそれこそ9時10時まで残らなければならないようにかなり大変だが、それでも里奈はやりがいを感じていた。特に自分が気に入って入社を決めた人の良さは入って一緒に仕事をすればするほど感じるようになってきた。朝出社してまず、自分が尊敬できる人達が一生懸命働いていて、その中の一員として自分が一緒に仕事ができることが何よりも励みになった。特にチームの上司は丹念にサポートをしてくれ、それは重苦しくない程度だが十分だった。日本の古臭い会社のように重役がいばる飲み会は一切なく、チームで飲みに行って先輩たちに悩み事を相談したりアドバイスを求めたりすることが気軽にできた。だから1、2年目はとにかく社会人生活を駆け抜けた。脇目も触れることなくただただ一生懸命だった。プライベートで沸き立つようなこともなかったがそんなことはとりあえずどうでもよかった。今振り返ってみると里奈は仕事を楽しんでいたというよりも、一生懸命に仕事をして社会人生活を謳歌している自分を楽しんでいた。そして、少しでも会社や自分のことを暖かく見守ってくれている上司たちに役に立とうとがむしゃらに頑張っていたのだ。
そしてその思いはしばらくして具体的な形になる。里奈が務める証券会社の本社はイリギスのロンドンにあり、優秀な社員はイギリスの本社で1年間を目安にOJTを含んだ研修に派遣されることが恒例となっていた。そして、一番尊敬している上司の口から、次の派遣はどうやら里奈になりそうだということを伝えられたのだ。里奈はガッツポーズをしたくなるくらい嬉しかったが、とりあえず冷静を装った。そして家に帰ると喜びをかみしめながらうれし泣きをした。今まで短い間だったが、本当に頑張っていてよかった。やはりこの会社では頑張れば頑張っただけ認められるのだと、そう思った。この日を境に里奈の仕事に対する情熱は更に高まっていった。いざイギリスに行ったとなれば、おそらく英語力に関しては学部時代に培った力で何とか対応できるが、それ以外に様々な金融知識や社会に関する知識が必要となる。土日も書店で購入した本を読み漁り、いよいよプライベートと言えるプライベートはほとんどなくなっていった。しかし、それでも夢にまで見た海外勤務が目の前に迫っているとなるとこれらの努力はまったく苦しいと思わなかった。友人と食事に行くことがあったが、その時に一緒に旅行に行かないかと言われて、おそらくその期間はロンドンに行っているので行けないわと断るときも、悪い気はしなかった。その友人もどこか尊敬するようなまなざしで里奈のことを見つめていたからだ。今までは全てが順調に来ている、本当にこの会社を選んでよかった・・・
そう思っていた矢先だった。何の前触れも無しに会社の組織変更があったようで、急に社長やらチーム編成が変わってしまった。この話は課長以上の間では随分前からあったようだが、若手の里奈が知るのは発表されたその日だったのだ。その変更も里奈が想像していたものよりもはるかに悪い内容だった。それは里奈にとって一番起きてほしくないことだった。今までチームリーダーとしてお世話になってきた精神的支柱とも言えるべき直の上司がなんと会社を辞めることになってしまったのだ。彼は全く違ったフィールドで教師という自分のやりたいことをやるために会社を去ったのだ。その結果里奈のチームは暫定的に他のチームに吸収されて新しい上司が付いたが、その人は以前の上司のようにリベラルではなく、この環境に慣れ親しんだ里奈にとってはかなり居心地の悪いものとなってしまった。しかし、とりあえず里奈はイギリスに行くことだけを考えようと思った。後半年もしないうちに私はとりあえずイギリスに行って自分の夢見た生活を送ることができる、それまであと少しの我慢だ。そんな中、新しい上司からイギリス行きのことで話があると呼ばれたのは、ちょうどクールビズが始まったころだった。ただでさえクールなはずなのに、その話を聞いて里奈はクールを通り越して凍りついた。なんと、会社が新体制になってからちょうど3人ほどやめる人が出たらしくて、日本法人は里奈をイギリスに派遣する余裕がなくなってしまったということだった。「今すぐにっていうわけにはいかなくなったわけで、いずれまたチャンスがくれば君を一番におすよ・・・」そうフォローはしてくれたものの、今までモチベーションとしてきたものの一つが崩れ去った里奈はしばらく何も手につかなくなってしまった。いったい私はどうすれば良いのか・・・
一番尊敬していた上司が辞めたこと、イギリスに行けなくなったことで里奈は初めて冷静に自分の仕事というものを一歩引いたところから見つめる機会を持った。今まではとにかく上司の期待に応えるためにがむしゃらに働いてきた。目の前にある全ての仕事が価値のあるものに見えたし、それらのためならば夜遅くまで残って仕事をすることも苦にならなかった。しかし、今、自分が信じていたものが全て手元から離れてしまい、まるで広い大海原にひとりだけ放り出されてしまったかのような感覚を覚えた。そうすると急に足元がフワフワしだして、果たして今自分が立っている場所が本当に実在しているものなのかということまでもが怪しくなってきた。思えば今まではほとんど自宅と会社の往復になっていた。休みにしたって仕事関連の勉強などをすることも多く、容姿に自信がないわけではなかったが、若い女性がするような合コンなどの遊びを楽しんでいたわけでもなかった。実際、里奈が心の奥に思い描いている理想は実はもっと、「普通」のものだった。ある程度仕事内容も充実しているが、プライベートもしっかりしていて30歳になる前までに結婚して幸せな母親としての家庭を築く。今、周りの友人が少しずつ結婚し始めたのも相まって、そんなふつうの暮らしがとても自分からは遠いものに感じられてきたのだ。いったい、今の仕事を続けていて、このような幸せを手に入れることはできるのだろうか・・・この日はとうとう一睡もできないまま朝を迎えた。
その日を境に里奈の仕事に対する姿勢は少し醒めたものになってきた。もちろん、顧客へのサポートに支障があってはならないので、必要とされていることに手を抜くことはなかったが、少し前まであった情熱というものがもう心の中からは消えつつあることにも気付いていた。あれほど熱心に読み漁っていた経済新聞や専門書も今ではどこか遠い世界の出来事や文字の羅列のように思えた。そう考えると、自分は「金融、証券」に対して本質的な興味や面白さを感じているわけではなかったのだと今更ながら気付く。何故今まで見えなかったのかというと、とりあえずは、社会人として世の中のために貢献するといったことや上司の期待に応えるということばかりに目が行ってしまい、それをもって仕事にモチベーションがあると判断していたのだ。ところが尊敬する上司がいなくなり、イギリス行きが消えた今、金融は自分の中で急速に色褪せつつあった。それと同時に、じゃあ本当に自分がやりたいことは何なのだろうか、やるべきことは何なのだろうかというとてつもなく広くて形のつかめない問いが気付くと意識を支配しているということが前よりもずっと多くなってきたのも事実だ。
それに拍車をかけたのが周りの上司たちの彼女に対する期待である。里奈が今まで身を粉にして仕事を頑張ってきたのは直の上司以外でも誰もが認める事実だった。よって、それらの人は彼女に多くの期待をするようになった。「丸瀬さんがいなければもうここの部署はまわっていかないよ~」とか「将来はこの銀行を動かすような人間になってほしい」というような言葉だ。同期が少ない分、若手社員一人ひとりにかかるプレッシャーも大きくなっていた。今まではこのようなプレッシャーさえも完全に「期待」と割り切ってそれをモチベーションに変えていた里奈だったが、最近いろいろなことがあって、この仕事を続けて果たして本当にやりたいことや女性としての幸せに行きつけるのかということに対して真剣に悩むようになった今の彼女には、鉛のように重くのしかかるのであった。自分はひょっとすればここを去るかもしれないのに、そんなに先のことまで言わないで!彼女の心の声はそう訴えていた。いったい、私が本当にやりがいことをやって幸せになることはできるのだろうか。そんな里奈の悩みに関係なく、給与が振り込まれる預金通帳だけは、相変わらず右肩上がりで景気の良い数字を刻んでいた。
私が思ったこと。
以上、これは私が2人の友人の女性から聞いたライフストーリである。このふたりの明子と里奈は一見して全く違った人生を歩んでいる。明子は現状に満足できなければとにかくすぐ行動を起こす女の子であり、保守性というものが全く感じられない。彼氏にしたって今まで3か月以上連続していたことがないという。では、何故彼女はこちらから見るところころと仕事を変えるのだろうか。それはおそらく彼女なりの理想の仕事というイメージがあり、それを求めているからであろう。ただ、里奈との違いは少しでもやりたいことに近いかなあと思うとあまり後先考えずに、とにかく行動するという点だ。本当の行動力というのはこういうことなのだろう。一方で里奈は一見してものすごく人生がうまくいっているように見える。整った容姿、世間からも高く評価される仕事、高い給料・・・どれをとっても世間の多くの人があこがれるものである。しかし、彼女自体は決してこれらのものにあこがれてもいないし、満足もしていない。名門大学を卒業して要領が良かったことが彼女を今の場所へと導いたのだが、結局は女性としての当たりまえの幸せというものを意識するようになってからは、このままで自分は本当に幸せなのだろうか・・・という大きな問いにぶつかることになる。その意味で、明子も里奈も同じ悩みと想いを抱えている。それは、自分の本当のアイデンティティを求めているが今それが手に入っているとは言えず、彼女達なりにもがいているということだ。しかし、ここに私は彼女達を誇りに思う。一般的な女性だと、「まあ、こんなものでしょう。」と割り切って適当な仕事に適当な結婚をしてしまうのだが、彼女たちは少なくともそんなことには満足しなさそうだ。そこには今まで培った経験や留学の経験もあるのだろう。様々なものを目にして、体験することで、彼女達の中には漠然とではあるが、「理想の自分」という精神的なイメージが備わっている。逆に理想の自分があるからこそ、今の自分とその理想の間にまだ距離があることを自覚し、更に様々な行動を起こすのである。社会人という言葉がいかにアンブレラタームであるかをこの2人のお話を通してわかっていただけたら幸いである。社、会、人。この3つの漢字はそう呼ばれる人々が抱えるありとあらゆる矛盾や苦悩を覆い隠しつつ、今日も学生たちに固定されたいいイメージだけを与え続けるのだ。
蓬莱明子 編
彼女の名前は明子。彼女は多くの人が「破天荒だ」と言うような人生を歩んでいる。しかし、明子は別に自分が異質だ、狂っているなんて思っていない。大学を卒業したときは、他の多くの大学生たちと同じようにゲートが開いてヨーイドン。4月からは地元の栃木県に帰り地銀に就職した。しかし、彼女は最初からこれがベストだとは思っていなかった。そもそも就職活動という世間一般の行為をどうも自分らしいものとして捉えることができなかったのだ。周りがどんどん黒いスーツに身を包んでいく中、ただ一人パーカーを着て登校を続けた彼女だったが、結局は妥協して地元に帰るという道を取った。しかし4年生の秋になり東京への思い入れが強くなり大手の広告会社の面接を受けたが寸前のところで不採用となってしまい東京への未練を持ったまま体だけが栃木県へと切り離された。しかし、そんな状態に彼女が満足するはずがない。何度もプライベートで東京を訪れるうちにやはりこここそが自分のいるべき場所、何かが起こる予感のする場所だと思うようになった。東京には栃木にはい何かワクワクさせてくれるものがある。それに拍車をかけたのは地銀のお堅い仕事と家族との同居だった。明子は東京に来るたびに何か自分の背中に翼が生えたかのように感じただろう。このままで良いのか、このまま栃木に居たら自分だけが世間の流れから取り残されていってしまうような気がする。そう思ってからは速かった。あれよあれよという間に不動産関係の会社の内定を取り付けてまるで何事もなかったように北関東から去っていった、むしろ栃木県での暮らしのほうが今の彼女からしてみれば夢の中のような現実味のないものだったのだろう。さて、ここで彼女の心と体は再開した。約1年ぶりのリユニオンに仕事にも精が入った。何より一度失った東京を、スーツを着て自由に駆け巡ることができるのだ、これこそが生きていることだと感じていた。
しかし、そんな幸せは長くは続かなかった。とりあえず栃木のどん底からは這い上がったものの、果たしてこの今の仕事が自分に本当に合っているだろうかということは実は転職してから3、4か月で気付き始めたのだ。というのも、明子はどうも営業行為というのが好きになれなかった。コミュニケーションすること自体は苦手ではなかったが、何かを売るという営業の仕事をしているとき、自分は無理をしていると薄々気づき始めたのだ。それに契約が取れたからといって、それを自分の嬉しさと感じることができなかったのだ。東京に出たいという気持ちが大きく、転職の時にはあまり職種については考えていなかったが、どうやら営業は合っていない。だいたい今まで前に立って人を引っ張っていくような仕事をやってきただろうか。少なくとも学生時代は集団を代表するようなリーダー的な役割をこなすことはなく、コミュニケーションを取るときも小さな集団の中のメンバーとすることが多かった。ここからまた明子の苦悩が始まる。友人達に相談しても皆口をそろえて明子のことをコミュニケーションが上手い営業向きと言うのだ。しかし、自分の中ではそうやって他人から自分のことについて言われれば言われるほど、自分のみが本当に自分のことをわかっているような気分になり、結局また頭は転職のほうへ一歩ずつ近づいていくことになる。仕事は明子にとって人生の中で重要な意味を持つ。今までそれなりにこだわりを持って生きてきた彼女にとっては、本当に生きがいを持ってできる仕事に出会うことも生きてきた意味を見つけることにつながる。だから簡単に妥協はしたくない、それにまだ25歳だ。
結局周囲の反対を押し切って明子は2度目の転職活動を始める。この時魅力的に思えたのは営業をしなくても良い職場である程度安定した仕事だ。現在の会社は、仕事は肉体的に楽ではないうえに給料が低かった。東京という大都会で生活していくには余裕があるとは言えず、経済面も重視して転職活動を行った。そんな彼女の頭の中に浮かんできたのはある漢字2文字だ。それは「事務」という言葉。これは今まで自分が全く触れてこなかったフィールドである。しかし、実は裏方仕事を無難にこなす自信は昔からあった。そこに、転職エージェントからいい話が飛び込んできた。それはエージェントの人も鼻息を荒くするほどの好条件ということだった。会社は今をときめく広告業界の雄であり、彼女が今まで自分の財産として温めてきた英語力も少しは生かす機会がありそうに書かれていた。これだ、そう決めた明子は転職面接に臨んだ。次こそが自分の求めるべき職場なのだとそう信じてやまなかった。そして・・・結果は合格。しかし、この合格という言葉は2つのことを意味している。一つ目は文字通り職業を変われるということ。そしてもうひとつは今の会社を去らねばならないということだ。前の銀行のときと異なり、今はちゃんとした担当先を持っており、引き継ぎ作業、そしてなんといっても中途の身分で受け入れてくれた会社に反旗を翻すという行為はいくら仕事内容が向いてはいないと言ってもあまり心地の良いものではなかった。しかし、それでも彼女の決意は固く9月を持って新しい職場へと移った。いったい明子のアイデンティティはどこにあるのだろう。
世間ではよく「3度目の正直」という言葉が使われる。同じことを3回繰り返せば満足のいく結果が得られるというものだ。この言葉の背後には、同じことを3回も続けられる人はなかなかいないということと、ある程度経験値が加算され、3回やるころにはスキルもついてくるという意味がある。はたして彼女の場合はどうだろう。この3度目の正直という言葉は明子においてもあてはまるのか?答えは「否」だった。実は2度目の転職はひょっとすると前の転職よりも失敗かもしれない。まず第一に不満に思ったのは仕事内容そのものだ。今までは大学、営業となんだかんだいってそれなりに頭や体を使う仕事が多かった。前職ではある程度責任あるポジションであり、自分にも裁量権があった。しかし、今はどうだろう。ただ言われた仕事を単調にこなすだけの日々。仕事内容も創造性に富んだものではなく、一度覚えてしまえばあとは完全な作業と化すようなものばかりだ。自分はこんなことをするためにわざわざあれほど苦しい思いをしてきたのだろうか。更にこの状況に拍車をかけたのは、周りの同僚たちだ。事務は完全に女の世界だった。しかも明子が苦手とする今風の女たちがマジョリティになっている世界。今まで明子が交流してきた女子たちは大学、不動産、営業のどの世界においても、どちらかというと男と比べても遜色ない感じで、わりと「女子」というよりは、同じ「人間」として考えられる存在だった。つまりあまり女の子女の子していないフラットな人たち。あまり世間体を気にすることもなければ、女子独特のノリのようなものもなく、自分も自然体でいられた。しかし、今回の職場にたむろする女たちはどうも好きになれない。自分たちが女であることをどこまでも意識していて、全ての行動やしぐさに女らしさ、可愛らしさを追求している。しかも自分たちのことを世間でも上質な女だと思っているようだ。現に昼休みは必ず事務の女たちは集まって食事をする。そのお弁当もみなちょっと高級な弁当屋で買ったようなもので、手作りのものや、ほっともっとなど安い弁当を買ってくる人は見当たらない。おそらく彼女たちは実家暮らしだったり、大手に努める安定した彼氏がいてお金にはそれほど困っていないのだろう。かたやこっちは芝居を志すフリーターの弟とふたりでアパートを借りているというのに。決して彼女たちが明子に何か嫌がらせをするわけではなかったが、前までの職場には必ずと言っても良いほどいてくれたふたりで飲みに行きたいと思えるような同僚、先輩は見当たらなかった。とりあえずこの職場では給与面などでの待遇には満足できたとしても、仕事の内容には絶対に満足できない。また転職かあ・・・ おそらくその時はまたすぐにやってくるのだろう。しかし、転職のことを考える時、明子は不思議と嫌な気分にはならなかった。
丸瀬里奈 編
彼女の名前は丸瀬里奈。ここでは里奈と呼ぶことにしよう。里奈は学生時代から割と真面目だった。私の知る限り彼女は学生特有のわちゃわちゃしたノリなどが好きなわけではなく、グループで集まるとしても2~3人まで。むしろ一対一の交友関係を好むというタイプだった。そんな里奈は就職活動には成功したと言っても良い。おそらく元々頭が良いので頭脳明晰な応答とスラっとした容姿端麗さが評価されたのだろう。内定をもらって就職を決めた先は有名なイギリスの証券会社の日本法人だった。このこれ以上ない就職先を選んだ理由は意外にもそのネームバリューや収入ではなかった。里奈が本当に重視したのはある程度の会社であればむしろ働きやすさ、特にどんな人と一緒に働くことになるのかということだった。人事の真摯な対応と居心地の良さから入社した会社に里奈は居心地の良さを感じた。
入社して任せられたのは営業。営業とは言っても、明子がしていたような個々人のお客さんのもとを訪ねて自社のサービスや製品を売って契約するというものではなく、特定の顧客の金融的なサポートだ。どの顧客も日本はもちろんのこと世界でも有名な会社ばかりで長い付き合いのところが多く、その顧客が少しでも良い環境でビジネスができるように金融面からサポートを行うというのがわかりやすい言い方かもしれない。しかし、いくら売らなければないというプレッシャーがないにしても、名だたる大企業を相手にごまかしのきかない専門的な話をしなければならないので、かなりの専門知識が要求される。とにかく入社してからは毎日日本経済新聞を読んだり、金融や証券の専門書を購入して勉強は怠らないようにしている。仕事はそれこそ9時10時まで残らなければならないようにかなり大変だが、それでも里奈はやりがいを感じていた。特に自分が気に入って入社を決めた人の良さは入って一緒に仕事をすればするほど感じるようになってきた。朝出社してまず、自分が尊敬できる人達が一生懸命働いていて、その中の一員として自分が一緒に仕事ができることが何よりも励みになった。特にチームの上司は丹念にサポートをしてくれ、それは重苦しくない程度だが十分だった。日本の古臭い会社のように重役がいばる飲み会は一切なく、チームで飲みに行って先輩たちに悩み事を相談したりアドバイスを求めたりすることが気軽にできた。だから1、2年目はとにかく社会人生活を駆け抜けた。脇目も触れることなくただただ一生懸命だった。プライベートで沸き立つようなこともなかったがそんなことはとりあえずどうでもよかった。今振り返ってみると里奈は仕事を楽しんでいたというよりも、一生懸命に仕事をして社会人生活を謳歌している自分を楽しんでいた。そして、少しでも会社や自分のことを暖かく見守ってくれている上司たちに役に立とうとがむしゃらに頑張っていたのだ。
そしてその思いはしばらくして具体的な形になる。里奈が務める証券会社の本社はイリギスのロンドンにあり、優秀な社員はイギリスの本社で1年間を目安にOJTを含んだ研修に派遣されることが恒例となっていた。そして、一番尊敬している上司の口から、次の派遣はどうやら里奈になりそうだということを伝えられたのだ。里奈はガッツポーズをしたくなるくらい嬉しかったが、とりあえず冷静を装った。そして家に帰ると喜びをかみしめながらうれし泣きをした。今まで短い間だったが、本当に頑張っていてよかった。やはりこの会社では頑張れば頑張っただけ認められるのだと、そう思った。この日を境に里奈の仕事に対する情熱は更に高まっていった。いざイギリスに行ったとなれば、おそらく英語力に関しては学部時代に培った力で何とか対応できるが、それ以外に様々な金融知識や社会に関する知識が必要となる。土日も書店で購入した本を読み漁り、いよいよプライベートと言えるプライベートはほとんどなくなっていった。しかし、それでも夢にまで見た海外勤務が目の前に迫っているとなるとこれらの努力はまったく苦しいと思わなかった。友人と食事に行くことがあったが、その時に一緒に旅行に行かないかと言われて、おそらくその期間はロンドンに行っているので行けないわと断るときも、悪い気はしなかった。その友人もどこか尊敬するようなまなざしで里奈のことを見つめていたからだ。今までは全てが順調に来ている、本当にこの会社を選んでよかった・・・
そう思っていた矢先だった。何の前触れも無しに会社の組織変更があったようで、急に社長やらチーム編成が変わってしまった。この話は課長以上の間では随分前からあったようだが、若手の里奈が知るのは発表されたその日だったのだ。その変更も里奈が想像していたものよりもはるかに悪い内容だった。それは里奈にとって一番起きてほしくないことだった。今までチームリーダーとしてお世話になってきた精神的支柱とも言えるべき直の上司がなんと会社を辞めることになってしまったのだ。彼は全く違ったフィールドで教師という自分のやりたいことをやるために会社を去ったのだ。その結果里奈のチームは暫定的に他のチームに吸収されて新しい上司が付いたが、その人は以前の上司のようにリベラルではなく、この環境に慣れ親しんだ里奈にとってはかなり居心地の悪いものとなってしまった。しかし、とりあえず里奈はイギリスに行くことだけを考えようと思った。後半年もしないうちに私はとりあえずイギリスに行って自分の夢見た生活を送ることができる、それまであと少しの我慢だ。そんな中、新しい上司からイギリス行きのことで話があると呼ばれたのは、ちょうどクールビズが始まったころだった。ただでさえクールなはずなのに、その話を聞いて里奈はクールを通り越して凍りついた。なんと、会社が新体制になってからちょうど3人ほどやめる人が出たらしくて、日本法人は里奈をイギリスに派遣する余裕がなくなってしまったということだった。「今すぐにっていうわけにはいかなくなったわけで、いずれまたチャンスがくれば君を一番におすよ・・・」そうフォローはしてくれたものの、今までモチベーションとしてきたものの一つが崩れ去った里奈はしばらく何も手につかなくなってしまった。いったい私はどうすれば良いのか・・・
一番尊敬していた上司が辞めたこと、イギリスに行けなくなったことで里奈は初めて冷静に自分の仕事というものを一歩引いたところから見つめる機会を持った。今まではとにかく上司の期待に応えるためにがむしゃらに働いてきた。目の前にある全ての仕事が価値のあるものに見えたし、それらのためならば夜遅くまで残って仕事をすることも苦にならなかった。しかし、今、自分が信じていたものが全て手元から離れてしまい、まるで広い大海原にひとりだけ放り出されてしまったかのような感覚を覚えた。そうすると急に足元がフワフワしだして、果たして今自分が立っている場所が本当に実在しているものなのかということまでもが怪しくなってきた。思えば今まではほとんど自宅と会社の往復になっていた。休みにしたって仕事関連の勉強などをすることも多く、容姿に自信がないわけではなかったが、若い女性がするような合コンなどの遊びを楽しんでいたわけでもなかった。実際、里奈が心の奥に思い描いている理想は実はもっと、「普通」のものだった。ある程度仕事内容も充実しているが、プライベートもしっかりしていて30歳になる前までに結婚して幸せな母親としての家庭を築く。今、周りの友人が少しずつ結婚し始めたのも相まって、そんなふつうの暮らしがとても自分からは遠いものに感じられてきたのだ。いったい、今の仕事を続けていて、このような幸せを手に入れることはできるのだろうか・・・この日はとうとう一睡もできないまま朝を迎えた。
その日を境に里奈の仕事に対する姿勢は少し醒めたものになってきた。もちろん、顧客へのサポートに支障があってはならないので、必要とされていることに手を抜くことはなかったが、少し前まであった情熱というものがもう心の中からは消えつつあることにも気付いていた。あれほど熱心に読み漁っていた経済新聞や専門書も今ではどこか遠い世界の出来事や文字の羅列のように思えた。そう考えると、自分は「金融、証券」に対して本質的な興味や面白さを感じているわけではなかったのだと今更ながら気付く。何故今まで見えなかったのかというと、とりあえずは、社会人として世の中のために貢献するといったことや上司の期待に応えるということばかりに目が行ってしまい、それをもって仕事にモチベーションがあると判断していたのだ。ところが尊敬する上司がいなくなり、イギリス行きが消えた今、金融は自分の中で急速に色褪せつつあった。それと同時に、じゃあ本当に自分がやりたいことは何なのだろうか、やるべきことは何なのだろうかというとてつもなく広くて形のつかめない問いが気付くと意識を支配しているということが前よりもずっと多くなってきたのも事実だ。
それに拍車をかけたのが周りの上司たちの彼女に対する期待である。里奈が今まで身を粉にして仕事を頑張ってきたのは直の上司以外でも誰もが認める事実だった。よって、それらの人は彼女に多くの期待をするようになった。「丸瀬さんがいなければもうここの部署はまわっていかないよ~」とか「将来はこの銀行を動かすような人間になってほしい」というような言葉だ。同期が少ない分、若手社員一人ひとりにかかるプレッシャーも大きくなっていた。今まではこのようなプレッシャーさえも完全に「期待」と割り切ってそれをモチベーションに変えていた里奈だったが、最近いろいろなことがあって、この仕事を続けて果たして本当にやりたいことや女性としての幸せに行きつけるのかということに対して真剣に悩むようになった今の彼女には、鉛のように重くのしかかるのであった。自分はひょっとすればここを去るかもしれないのに、そんなに先のことまで言わないで!彼女の心の声はそう訴えていた。いったい、私が本当にやりがいことをやって幸せになることはできるのだろうか。そんな里奈の悩みに関係なく、給与が振り込まれる預金通帳だけは、相変わらず右肩上がりで景気の良い数字を刻んでいた。
私が思ったこと。
以上、これは私が2人の友人の女性から聞いたライフストーリである。このふたりの明子と里奈は一見して全く違った人生を歩んでいる。明子は現状に満足できなければとにかくすぐ行動を起こす女の子であり、保守性というものが全く感じられない。彼氏にしたって今まで3か月以上連続していたことがないという。では、何故彼女はこちらから見るところころと仕事を変えるのだろうか。それはおそらく彼女なりの理想の仕事というイメージがあり、それを求めているからであろう。ただ、里奈との違いは少しでもやりたいことに近いかなあと思うとあまり後先考えずに、とにかく行動するという点だ。本当の行動力というのはこういうことなのだろう。一方で里奈は一見してものすごく人生がうまくいっているように見える。整った容姿、世間からも高く評価される仕事、高い給料・・・どれをとっても世間の多くの人があこがれるものである。しかし、彼女自体は決してこれらのものにあこがれてもいないし、満足もしていない。名門大学を卒業して要領が良かったことが彼女を今の場所へと導いたのだが、結局は女性としての当たりまえの幸せというものを意識するようになってからは、このままで自分は本当に幸せなのだろうか・・・という大きな問いにぶつかることになる。その意味で、明子も里奈も同じ悩みと想いを抱えている。それは、自分の本当のアイデンティティを求めているが今それが手に入っているとは言えず、彼女達なりにもがいているということだ。しかし、ここに私は彼女達を誇りに思う。一般的な女性だと、「まあ、こんなものでしょう。」と割り切って適当な仕事に適当な結婚をしてしまうのだが、彼女たちは少なくともそんなことには満足しなさそうだ。そこには今まで培った経験や留学の経験もあるのだろう。様々なものを目にして、体験することで、彼女達の中には漠然とではあるが、「理想の自分」という精神的なイメージが備わっている。逆に理想の自分があるからこそ、今の自分とその理想の間にまだ距離があることを自覚し、更に様々な行動を起こすのである。社会人という言葉がいかにアンブレラタームであるかをこの2人のお話を通してわかっていただけたら幸いである。社、会、人。この3つの漢字はそう呼ばれる人々が抱えるありとあらゆる矛盾や苦悩を覆い隠しつつ、今日も学生たちに固定されたいいイメージだけを与え続けるのだ。