不文律というものは世界に多く存在する。スポーツの世界にも、例えば野球で点差が大きい時には3ボールからは打たないとか、テニスでスマッシュボールが来て前衛が近くにいても思い切り前衛に当てるようなことはしないだとか。まだこれらは不文律と言ってもただルールブックに書いていないだけであって、その競技をする人ならばほぼ全て心得ているようなものだ。しかし、世の中にはもっとやっかいなものが存在する。それは、酒の席での振る舞い方であったりとか、会議やミーティングなどでの座り方などである。しかし、それらもマナーブックを詳しく読めば素人でも簡単にマスターすることができる。

一方で今、私が直面している問題はもう少しだけ複雑な気がしてくる。それが何かというと、研究指導である。研究指導とは、例えば修士論文のようなものの指導を指導教官から受けることである。しかし、この「研究指導」の扱い方は非常に曖昧である。例えば、ゼミは単位数2、かつ曜日と時限が決まっており、その時間に確実に行われるべき指導携帯である。しかし、研究指導は、一応科目には存在しているものの、単位数ゼロ、そして曜日や時間は決まっていないし、成績もつかない。つまり、ルールブックに規定の無い指導形態なのだ。例えば、「最低でも2週間に1度は指導をすること、それ以上の指導は教員と相談することとする」のような但し書きがあれば、最低でも14日間に1時間以上は研究の話をする時間がルールによって保障されることになり、それを無視することはアカデミックハラスメントとなり審議の対象となる。だが、ルールに無い以上、こちらとしてはとても弱い立場に追い込まれることになってしまう。仮に2か月に一度しか指導してもらえなかったとしても、それがその指導教員の中のスタンダードであれば、「しっかりと指導している」と言い張ることさえ許されてしまうのだ。

しかし、ちょっと待ってほしい。今回は事情が違うではないか。なんといっても、指導教員が9月から海外での研究活動に出てしまい、その期間直接会って指導を受けることが不可能となる。それを見越してか、指導教員との間での共通認識として、修士論文を8月末日までに書き終えることを最終目標としてずっとこの半年以上の間取り組んできた。

しかし、そのような状況であるにも関わらず、1か月にわたって、私が4度送ったメールを全て無視されている。これはいかにもひどい対応なのではないかと最近思い始めた。仮に忙しくてすぐに対応できなくても、「今、忙しので数日後までに連絡します」などと言ってくれればこちらとしても気持ちの切り替えが付きやすいが、全く無視されるのは、まるで視界ゼロの中をコンパスも無しに進む大航海時代の船乗りにもなった気分である。(大航海時代の船乗りはコンパスくらいは持っていたか)これはこちらの思いを全く無視した行為であると言わざるを得なく、信頼性を損ない、修士論文執筆へのやる気をも大きく低下させる原因となる。だいたい、今まででも、満足のいく指導をうけてきたわけではない。特にアンケートの作り方、統計の取り方など方法論に関する指導はほとんどといって良いほど受けられず、教育研究科の授業や独学で補ってきた次第である。

これがもし、研究指導に関する明文化されたルールが存在するならば、事態は違ってきただろう。例えば、2週間に一度は必ず何かしらのコンタクトを取るであったりとか、夏休み中の対応についても、お盆期間は連絡が取れないなどと決まっていれば、こちらもそれに合わせて動けるはずだ。そういったところが全て曖昧にされており、個々の指導教員や学生に任せられている点はやはり混乱の元になる。こういったことに困っているのは、私だけではなく、友人のOなども困っているので大学には是非とも真摯ある対応をしてもらいたいものだ。

一方で、このように組織批判や指導教員批判ばかりしていても何の解決にもならない。今、自分に一番必要なことは何か?それは何としてでも修士論文を仕上げることである、しかもかなりデキの整った修士論文、次につながるものを書くことではないのか。自分の置かれた状況を嘆いても始まらない。とにかく前に進まなければならない。だいたい、指導をしてもらえないとか、不文律なんてクソだと言っていても現状、何の足しにもならない。今、小説で「海賊と呼ばれた男」を読んでいるが、主人公の国岡にはもっと多くの、かつとんでもない困難が襲いかかったにも関わらず、彼はあの手この手と限りを尽くして乗り越えていった。今の私に必要なことはそういったことではないのか。たしかに原田先生のゼミに入れていれば、こういった心配はなかったはずだ。熱心な研究サポートと共に学ぶ仲間に恵まれて、順調そのものな研究生活を送っていたに違いない。

しかし、それは「たら・れば」の話だ。現実にいる自分はその両方も無い。しかし、少なくとも、無いということに気付いているということが大事なんだと思いたい。つまり、無いものが何かということがわかっているので、目指すものも明確というわけだ。与えられない以上は自分の努力で何とかしていかなければならない。つまり、実質初めて、自分の真価が問われているのではないか。誰も現状を解決してくれない以上、私は自分で切り開いていかなければならない。つまり、ここが本当の勝負どころである。たしかに、修士論文とひたすら向き合うという作業は思った以上につらい。はじめの原稿に修正を必要とする箇所が幾つも見つかり、それをひとつひとつつぶしていく作業は思った以上に骨の折れる作業だし、本当に自分は成長しているのか、前に進んでいるのかと思ってしまう。しかし、そういった地道な作業無しに、ポンといい論文ができるなんてことはないし、それこそが一番大事なのかもしれない。

もう、文句や泣き言を言うのは辞めにしよう。先生のために研究しているわけではないし、自分で入ると決めた道なのだ。とにかく、博士課程につながる論文を独りで書いてみせる。