我が友の運命は尽きたようだ。500万以下のレースで僅差の一着となり、見事ダービートライアルのG2弥生賞に出走したが、ここでは先行した他馬に及ばず5着に敗れた。これで彼が父世間の手から逃れることは困難になった。人間は運命からは逃れられないのだろうか、自ら果敢に挑んで努力しても、大きな力の前には屈してしまうのだろうか。そこを何とかしてやる、何とかこじ開けてやるという人間の努力はいったいどうやったらその力を発揮できるのだろうか。
私はこういった種々の問題を考えさせられた。いったいどうすれば大きな外的な価値観、世間を支配する圧倒的な枠組みから抜け出して、奴らの術中に大人しくはめられることなく、自らの勝利をつかみ取ることができるのだろう。世間の多くの大人たちは飼いならされている。大人しく生きる変わりに、時々報酬を与えられる。しかもそれは限度のある、いってみればこれまた誰かが作り出した人工的な器から溢れ出ない報酬なのだ。彼とは、そんな世間に蔓延している無気力な価値観を破って、突き抜けてやろうという心構えの元、ここまで共に戦ってきた。ただ外的な価値観、例えば重労働を美徳とするような日本文化や有名企業で我慢して働くことを善しとする女性の考え方などに左右されるのではなく、自分の中で何が一番大事なのか、何を糧として生きるのか。そういったことを徹底的に考えて、それに誇りを持ち、それが世界で一番だと信じて生きることこそ、私たちが目指してきたことではなかったのか。
ここに文学の授業で学んだ、エマソンの「transcendentalism」を感じることができる。エマソンは外的な宗教の神を信じるのではなく、自身の内側に宿る神を信じ、自分にとっての真実を徹底的に追及せよと述べている。世間一般的な価値観は常に疑ってかかるべきであり、何事もとりあえず試みてみよということだ。ウォールデンでソローが生活しているときに、彼は様々なことに気付き、生きているという実感を得ることができる。そこで彼にその価値を教えてくれたのが、ウォールデンの自然であったのだ。
私の今の生活をソローの生活にたとえるこはできまいかと考える。彼はトランセンダリズムを身を持って実践した人間だ。私も一方でそれを実践していると思っている。ソローのように、いったん人間の社会に入ったものの、その価値観に疑問を感じ、大学院という森に入ることにした。森に入ってだいたい2年目になるが、この森の居心地は良く、私が人間として求めるあらゆる学びの場が揃っている。ソローがそうしていたように、私もお金のピンチ(?)になると時として世間と関わり合い、英会話の講師をするのだ。そんな今、当時の世間での生活を振り返ってみるとどうだろう。心は虚しかった。日々、自分の好きなことなどやらせてもらえず、ただただ絶望する毎日。せめてもの慰めに考えることといえば、女と飲むこととか、車を買うこと。これらは自分が考えたことではなく、世間が我々に与えてくれる飼葉だ。それを盲目的に貪り食おうとしていたのが、当時の私である。休日は外出したり、予定を入れなければダメだと世間に紛れてもがき、狂ったように遊びに出ていたこともあった。しかし、いくらその飼葉をむさぼろうとも、決して真の意味で満腹になることはないのだ。永遠に満たれない時間が無限のタイムループで過ぎ去っていく感じ。一度その中に入ってしまえば、死ぬまで付き合わなければならない。あの時、私に決断の神が宿らなければ、いったいいつまであの果てしない輪の中へ引きずり込まれていたかわからない。そうした、世間の価値を超えてやろうともがいて、ジャンプした結果、私は早稲田の森にたどり着いたのだ。
さて、話をもとに戻そう。しかし、このようにいったん森に入ったものは、なかなかそこで活躍することが難しいのも事実だと言わざるを得ない。いってみれば、自分自身を商売道具にしていくわけだから、そこでは相当な専門知識やスキル、または情熱を兼ね備えたうえで、周到な計画を立てることが求められ、世間でのように簡単な成功をつかみとることはできない。これは森に入る者なら全て覚悟しなければならないことである。実際に今回、私は森の生活が簡単ではないことを友の経験を通して学び知った。そしてそういう私も、フィールドこそ違えど、世間の壁に跳ね返されてしまった。金色の王冠をかぶった、世間の頂点の一つである称号を持つ者との戦いに敗れてしまったのだ!しかし、こういった敗北は励みになる。そして、今度こそ絶対的な自分の価値観を何とか輝かせたいと飽き足りぬ努力をするのだ。7月18日。あと残すところ大学院生活も半年となった。このままでは終われない、何とかして輝きをつかめるか。