複数の言語を勉強することをどう思うだろうか?

例えば日本で英語、中国語、タイ語、フランス語など4か国語を勉強したとする。

それで全てがある程度まで使えるようになればそれはそれで素晴らしい。


しかし、現実的にその可能性は極めて低い。

明日の授業の議題が、マルチリンガリズムMとプルーラリンガリズムPでその論文を読んだのだが、ヨーロッパでは母語以外いにも2~3以上の複数の言語を学ぶことが求められており、それによって相手のことを理解したり、言語全体に対する能力を高めようというのだ。


まあ、ヨーロッパならばこのような動きがあってもおかしくない。現実に国が接近したり、人と人の移動も盛んなので、多くの言語の知識を持っていても損はないだろう。

しかし、それでも私はこのプルーラリンガリズムの考えに賛成できない。

なぜなら、一番効率的な英語さえ全ての人が第二言語として習得してしまえばよりコミュニケーションがスムーズになるではないか。

そして現実に英語が一番広く使われているんだから、例えばロシア語とドイツ語をマスターしたとして、もしスペイン語とイタリア語しか話せないスペイン人と話すことになれば、ジェスチャーの世界に入ってしまう。

しかし、両方の人が英語を話せていればよりスムーズにコミュニケーションできるだろう。

たしかにオランダに住む人がオランダ語とフランス語と英語を選んで習得すれば、それはそれで国内に住むほぼ全ての人と話すことができるだろうが、もし他のヨーロッパの国へ行ったらどうか・・・


結局は英語を話すのではないか


また、様々な言語を学ぶことでその背景にある文化も学ぶことができ、相手の理解につながると主張されているが、言語を学ぶことと文化を学ぶことは必ずしもイコールでつながらない。

例えば第二言語でフランス語を取った人がいったい1年間の間でフランス人の何を知れたというのだろうか。少なくとも私はほとんど何も知れていない。


だったら、別に語学の授業で学ぶのではなく、「世界の文化を勉強しましょう」という趣旨の授業を英語か日本語でやったほうが効率的であるし、異文化の理解にもつながると思う。


よって、この多言語主義は少なくとも日本では根付かないと主張する。

よく、多くの言語の授業を取ろうとしたり、多くの言語を話せる人を無条件で崇拝するような発言を聞くが、私はそれらが嫌いである。


多くの言語を話せる=いったいどれほどまで実際に使えるのか?

多くの言語の授業を取っている=時間があれば、もっと他の有意義なことに使おうよ、どうせマスターできないんだから簡単には。

それよりも、英語をほぼ完璧にしゃべることができたほうが、世界中の多くの人とコミュニケーションできる可能性が広がるし、多くの情報にアクセスできる。

時間がなから、忙しいからこそ効率性が求められるのではないか。


また、学びは何も言語に限ったことではない。


他に学ぶべきことは数多く存在している。


日本にプルーラリンガリズムという考え方が根付くことはないだろう。





「へえ~、4か国語もしゃべれるんですね~、すごい!」


こんな発言を耳にしたら少し批判的になろう。