異質な他者と関わることの重要性

異質な他者と関わることは、その他者が持つ考え方を知ることから始まる。現在から30年以上さかのぼった日本には様々な思想が存在して学生はそれをもとに学生運動を行っていた。大学に入った学生にとって異なる他者と出会い、意見を交わすことは異なる意見を自分の中に取り込むことを意味する。 それによって、今まで自分が信じてきた価値観を新たな価値観という視点を通して見直すことができる。こうしてどんどん自身の中にある常識をぶち壊していく過程で私たちは成長していくのではないか。(現在ではクリティカルシンキングスキルとも言う)
様々な価値観を身に着けていくということはその中で一番自分に合った価値観と出会う可能性が高まること、つまり究極的な自己実現につながるのではないか。例えば私が今までの人生で異質な他者と出会い、自らの価値観を良い意味で壊してこれたのは英語というものの力が大きい。今まで自分が信じてきた価値観が全く機能せずに通用しないということは英語による説明を聞くことでしか起こりえなかったのだ。例えばラオスに行ったときに私は生徒や他の国のボランティアと話して多様な価値観を吸収する。そして今度はその多様な価値観というフィルターを通して今まで自身が持っていた価値観や信念を批判するのである。つまり自身の中で絶えず意見を戦わせているのだ。
 例えば日本人の「企業戦士文化」ともいえる国や会社のために身を粉にして働くことは日本社会の中ではかっこいい、善とされていて、少なくともそれを面と向かって批判したりバカにしたりはしないだろう。 しかし、他国の文化の中では、人生とは神から授けられた80年のプレゼントと考えることができ、それなのに自己の幸せや自己実現に費やさないなど全く持って人生を無駄にしていると考えることもできる。彼らからしてそのように過重労働をすることは、人生や家族を無駄にしている危険な行為であり、貨幣への異常なまでの信頼とみられる。このような価値観を通して私は自分が今まで1年弱の間身を置いていた世界のことを見返してみるとその当時常識だったことがいかに幻想、まやかしで自分自身が納得していなかったかということが理解できた。この新しい価値観を身に着け、私は自分自身に問いかけるのか。さあ、どちらが良いのだろうか、またそれぞれの妥協点はどこに見つけることができるのだろうかと。私にとって日記とは日常の記録に加えて、様々な外部刺激を通して再び自己を見つめなおすというある意味、他者の価値観で自己を見つめなおす外部との対話の役割も担っていた。そして、何より大切なのは、自分自身を批評的に見直す機会を提供していたということにある。

しかし、現代社会において、こういった異質な他者との意見のぶつかり合い、そしてそこから意見を取り入れることをしていないものが多い。もともと社会が安定してきたということも異質なものが身の回りに存在しにくくなった要因かもしれないが、そのある意味敵とも言える異質な他者の欠如は、極度なまでの狭い人間関係の重視をもたらした。私たちは異質な敵、他者を失った今、身の回りにおける狭い人間関係の中に閉じ込められてしまったのである。その中では上に述べたようになるべく他者を傷つけない優しい関係が求められる。その結果、極度にコンサバで変化や非難を恐れる人間が誕生してしまうのである。どこまでも保守的で人と異なること、人から非難されることを恐れて個性を持たぬ者だ。 現代の日本において我々が異質な他者と関わり、自己を再構築するためにはもはや海外とのかかわりにそれを求めるのが一番現実的となっている。年配が「若者は外に出ろ!」と叫ぶのはこういった原因があるかもしれない。彼らの世代に日本国内に豊富に存在していたものは、もはや国の外においてしか見つけることができなくなったのかもしれない。


「友達地獄」 土井隆義氏 を読んだ感想。