ここで言う『 観』は、『感』ではない。
私は、仕事や生活をする上で大事にしていることがある。それはいかに効率的でかつ効果的に行うかである。システマティックに遂行していくかでもある。
しかし、このように生きていくなんて、機械的でまるで感情がなく、とんでもない人間だと思われてしまうが、実は私ほど感情的な人間はいないと自負している。
その理由にあるのが観覚である。感情の感ではないじゃないかと、すぐ突っ込みが来そうであるが、そうではない。
私は、そんなに長生きしているわけではないが、それなりの長さの人生を生きてきている。そして、当たり前ではあるが、これまで色々なことがあった。悲しいこともあれば、嬉しいことや悔しいこと、驚きなど、人並み(何をもって人並みとするかは、色々議論の余地はある)にあった。そして、知識や技能を身に付けてきた。
その知識や技能は、本等から学んだことももちろん多いが、私は常に自分の体験や経験との対比など、自分の立場や考えと照らし合わせることを常にしてきた。なぜ、このようになったのかは、別の機会に書いていくこととする。
簡単に言えば、客観的にみるのではなく、何事も自分に関わることとしてて考えてきた。
つまり、感情のおもむくままに行動するのではなく、自分のこととして、捉え、つかんできたのである。知識や技能を身に付けるというより、活用してきたのである。
だからこそ、心は常に動いており、それは色々な連鎖や螺旋となってつながっている。常に何事も自分と深くつながっている。全く機械のような画一的なものとはことなり、試行錯誤を繰り返している。かなり人間くさいものである。
そして、不思議なことにその繰り返しは、かなり論理的なもの、系統性のあるものへとつながっていく。
だから、仕事や生活では経験を重ねれば重ねるほど、無意識に全体像や今しないといけないことや他との関連が造作もなく、頭に組み立てられてしまうのである。仕事も当たり前ではあるが、初任から数年はかなり大変でもあったし、逆に適当であった。自分より周りに大変迷惑をかけてきたものと思う。
でも、今の方がある意味タチが悪いように感じる。論理的に系統的に畳み掛けるように理詰めしていくからである。世の中には理論や科学などでは立証されないことがたくさんあるのにである。

私のこのような考え方や生き方は今更変えられないものと考えている。性格というより傾向である。しかし、より多くの体験や経験は、柔軟性も生むものと考えている。

より自分らしく、そして豊かに生きていきたいと考えている。