最近、「未来に不安や絶望しか感じられません」というようなご相談をたびたび受けました。
私たちみんなが、まるで永遠にこの日常の連続に存在するのが当然のようにめくるめく日々を生きていらっしゃるかもしれませんが、
必ず肉体の死を迎える日が来ます。
リアイティなく認識していらっしゃるかもしれませんが、
自分の架空の命日を決めると、少し実感が湧いてくるかもしれません。
私が今までもこれからもあんまりなにかに囚われることなくひゅうひゅう駆けぬけるようにしてきた生き方の原点にある小話をひとつ。
無邪気にころころ笑い転げながら輝きながら生き生きとした青春時代を謳歌していた私が17歳のとき、
小さいころから大大大好きだったhideさんが突然亡くなりました。
夢も希望も明日の光も世界の全てがhideさんだった当時の私にとっては
全くもって自分すらも見失い自分の周りに広がる世界も見えなくなるゼロになった瞬間でした。
ゼロを知った瞬間でした。
涙も出ない感情もない言葉も紡げないゼロの世界。
ゼロの世界は長くは続かず、
起こった現実を理解していくのと同時に深い深い悲しみと今まで味わったこともないような絶望に落ちていきました。
いつも胸の中に熱く燃やしていた目標を見失って、
生きる気力がまるでなくなってしまった17歳の初夏。
全てを忘れて眠りつづけたいと願う時の中に存在していました。
なにひとつ不自由のない満ちたりたしあわせな日々だったはずなのに、
死んじゃお。。。
なんて気軽に死を選びかけたその時、
私の心に閃光のようにメッセージがズドンと届いたことを今でもはっきりと覚えています。
「あなたはhideさんとお誕生日が同じなんだから、
せっかくだからhideさんと同じだけ生きてから死んだらいいんじゃない?」
稲光で目の前が見えなくなるようなゼロポイントに再び引き戻されて、
そしてその時私は決めました。
よし、2014年5月2日に死のう、それまで生きてみよう。(素直)。
それからは、自分の命日と共にただひたむきに駆け抜けるように生きました。
高校3年の夏だったのに、
理系だった進路をぐるっと180度変えて美大を目指しました。
もう諦めていたhideさんの創作に携わるようなお仕事がしたいという夢も、hideさんブランドのヘア&ファッションショーのモデルをやってくれないと突然お声がかかりある意味hideさんと一緒にステージの上に立つことができてあっさり実現しました。
地球上のいろんな場所を見てみたくて、重たいライカをぶら下げてひとりで世界の果てを求めていろんな場所に行きました。
究極はニューギニアの奥地の電気も水道もない裸族のところで1ヶ月暮らしたりもしました。
いろいろ全て日本に置いて、心惹かれたバリ島に直感でやってきてゼロから人生をスタートしてみたり。
たくさんの未曾有の挑戦を繰り返すなかで
奇跡や偶然が巻き起こって追い風になっていく神秘を感じながらも
めくるめく日々をただ夢中になって走り続けてみました。
自分の命日を知っていたから、
本当の本当の本当は、怖いものがなにもありませんでした。
本当の本当の本当は、失うものなどなにもないということをわかっていました。
ひたすら、自分を生きてみました。
常識も一般論も無視して、
ただただ、直感を信じて、自分のために生きました。
悩み立ち止まるときももちろんありましたが、
2014年5月2日の死の意識と、
あのとき体感したゼロポイントへ意識を戻すと、
恐れや不安や心配など一瞬で消えてなくなりました。
人に無謀だと言われるようなこともぽんぽんとこなしていきました。
人生は無謀なことなどなにもなくて、
人生は難しいものでもなんでもなくて、
小さなものから大きすぎるものまで、夢はなんでも叶えていきました。叶っていきました。
気づいたときには、子どもの頃から描いていた夢は叶いすぎるほど全て叶っていたし、
私にとって人生はただ驚きとギフトの連続のように展開していきました。
2014年5月2日、私は子どもたちを連れてhideさんのお墓に行きました。
「たくさんの夢を描かせてくれて実現させるパワーを与え続けてくれてどうもありがとう。
あのときなにもなかった場所から創造が始まって、こんなところまで私を連れてきてくれて本当にどうもありがとう。
私はこれからも命尽きるその日までこの人生を楽しんでいきます。」
そう誓いにいきました。
あれからまた6年が経って、
いまもなおめくるめく夢の中を走り抜けるようにしていろいろな体験の中を色鮮やかに生きています。
誰かやなにかのために生きるのではなくて、
自分のために今を生きましょう。
「やりたいことがわかりません」
しっかりとご自身の心に耳を傾けてください。
ささやかなやりたいことたちがささやかに声をあげてきませんか。
ただ世界に流れるままに呑みこまれるように存在するのではなく
どう受けとって行くのか自分で舵をとれば、
喜びあるいは心地よさあるいはしあわせの「今」の中にいることができます。
自分のために自分の生命を体験しましょう。
いつかこの肉体やこの現実から離れる時が来るのだ、と知っていると、
星空や太陽の光や好きな人からの優しい言葉はもちろんのこと
子どもがパタパタ向こうへかけていくのが壁に映ったその影すらもただ愛おしく、
今、ここに私を包む全てが愛おしく、
自分というこの肉体すらもただ愛おしく、
生きていることがただただ愛おしく感じられませんか。
嬉しい、楽しい、ばかりでなくて、
時に苦しい、悲しいと感じる体験もあるでしょう。
ですがそれすらも貴重な宝石のような体験に感じられませんか。
なぜなら、
永遠に同じものなどなにひとつない、変化のスパイラルと共にあるこの世界で、
「今」しか感じることが体験することができないのですから。
恐れるものなどなにかあるでしょうか?
失うものなどなにがあるでしょうか?
本当の本当の本当は、ただただ自由な自分の世界が広大無限に広がっているのではありませんか?
制限やルールがあるのだとしたら、自分で自らに足かせをしているだけではありませんか。
私が私のために私の人生を生き抜くと決意したその瞬間から、
世界はまるでギフトだらけの夢のような宇宙の広がりを感じられませんか。
「〜しなければ」「〜だから」、自分への言い訳は砂粒のごときさらさら消えてなくなりませんか。
ただ全ての体験を宝石のように受け取って感じていく連続のなかに身を置いてみませんか。
やりたいことが溢れでてきたら、
ひとつ残らずやりましょう。
やりきりましょう。
ただひたむきに夢中になりましょう。
次の瞬間に何かあって死ぬのだとしても、
はっきり言って私はなんの後悔もありません。
「あぁ楽しかった〜どうもありがとう」
満面の笑みでこの肉体を去るでしょう。
そんなふうに
夢幻泡影なこの美しい生命を私はいまも
生きています。