このところ数年ぶりに、大勢の前でマジックの演技をすることが何度かあったのですが、それなりに良い反応は返ってくるようには思うものの、正直に振り返ると、自分で理想とする演技にはほど遠いものしか出来ていません。
長くマジックという文化に接していて、技術や知識はもちろん蓄積されてゆくわけですが、その蓄積のスピード以上に、マジシャンとして理想とするイメージはどんどん上昇してしまいます。
知識や技術は、一歩ずつ積み重ねることによってしか身につきません。
その積み重ねのスピードは一様ではなく、同じ年月を過ごしていても、その密度や、下地となる才能によって到達点は当然変わってきます。
理想とされるべきマジシャンはたくさんいますが、彼らと同じ長さの人生をわたしが生きたとして、同じ到達点に達するとは限りません。
いや、むしろ到達できない可能性のほうが極めておおきい。
それでも、古今東西のいろいろなマジシャンの演技を直接間接問わず見る機会を得て、自分の中にある「理想のマジック」のイデアは、遥かなる高みに到達してしまっているのも事実。
マジックを、マジックマニアでない一般客に見せる以上、プロアマ問わず、一種の「責任」みたいなものが生まれると思っています。
マジックという文化は素晴らしく、歴史を背負った得がたい芸能であり、ある場面では芸術とすら見なされるべきものだと思います。
わたしもその歴史の末端に位置する以上は、その価値を貶めない義務があると認識します。
ありていに言えば、わたしのマジックを観た人に、
「マジックってこんなものか」「面白くない」
と思われてはならない。
否定的な印象を与えることはもちろんダメですが、肯定的な感想であっても、彼ら観客が経験した感情がじゅうぶんに良いものであったのかは問う必要があります。
マジックという芸能は先天的に、「不思議」という要素を含んでいるので、演技のレベルにかかわらず、失敗さえしなければ、タネさえばれなければ、相手に「すごい」と言わせることが出来ます。
観客も、不思議さが一応味わえれば、マジックというものを味わった気がして、満足するかも知れません。
しかし、ただ単にバレることなく演じられた手品による感想と、偉大なるマジシャンによって提供された「奇術体験」によって惹起される感情との間には、同じ「すごかった」の間でも計り知れないほど大きな深淵が横たわっています。
わたしのマジックがその深淵を超える日が来るのかどうか、それは分かりません。
しかし少なくとも、単にバレないだけのマジックでは無いだけの価値を持つようには心がけたいのです。
わたしの演技は、まだまだ「不思議さ」という価値に多くを依拠しているように思います。
自分が理想とする演技ができるまで演技をしないなどと言っていれば、恐らく一生演技ができない気がします。
理想とは行かないまでも、一応自分が演じても良いレベルの演技としては、
「不思議なだけでなく面白かった」
「是非もう一度見たい」
「他のマジシャンのライブも観てみたい」
まあこのような感想が返ってくる演技であれば、一応の及第点なのではないかと思っています。
言葉などというものは実際の経験に比べると絶望的なほど限定的で、相手が経験した感情がどのようなものであったか、感想だけではもちろん分からないのですが、自分の中に設けた一定の基準と、相手の感想によって、演技の質の閾値を設定するしかありません。
理想と現実のギャップに絶望しつつも、自分で設けたその閾値はなんとかクリアしていると判断して(自分を慰め?)ているからこそ、わたしは演技をするのです。
しかし、相手が一般観客と言えども、タマリッツやカップスの演技を見て観客が抱くであろう感情と、わたしの演技を観た観客の経験には、それこそ絶望的なまでの差が存在するのも事実。
わたしとて、自分で演技を見せた観客には、マジックの真の楽しさや不思議さを経験させてあげたいし、マジックという文化の素晴らしさも伝えてあげたいのです。
まあ、考えながら、練習と演技を繰り返すしかないんですよね。
誰だってそうなのでしょう・・・
★最後まで読んでくれてありがとう!
★よかったら応援のクリックをポチッとお願いしま~す♪
↓ ↓ ↓ ↓