今日は、本編のホームページに、川中島古戦場巡りの散策記をアップしました。

本編のホームページは こちら です:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html







2回目の今回は、川中島古戦場史跡公園と胴合橋の様子です。

典厩寺から、メインストリートに戻り、長野の中心街の方向に向かいました。
1.5km程離れた所に川中島古戦場史跡公園があります。



撮影: 2011年10月


ここが第四次川中島の戦いで武田信玄が本陣を敷いた場所と謂れています。
公園に入ると参道が続いていました。
信玄の本陣跡に建てられた八幡社です。


撮影: 2011年10月


第四次川中島の戦いでは、当初、武田信玄は海津城に入り、上杉軍は海津城の西にある妻女山に陣取り、膠着状態となりました。
 海津城は後に松代城と改名されています。
 松代城の登城記はこちらです:
 http://shanehashi.html.xdomain.jp/Oshiromeguri/KoshinetsuHokuriku/MatsushiroJyo.html


膠着状態を打破しようとした武田信玄は軍師・山本勘助に打開策を命じます。

山本勘助は馬場信春と共にその策を練ります。
その策は、2万人の武田軍から1万2千人の別動隊を妻女山に向かわせ、麓に降りた上杉軍を八幡原に陣取った8千の武田軍本隊で迎え撃つというものです。

ところが上杉軍は、武田別動隊が妻女山を襲う前に八幡原に進軍した為、濃霧となった1561年(永禄4年)の旧暦の9月10日早朝、両軍は八幡原で遭遇しました。この遭遇戦は、両軍とも予期せずに始まったものですが、別動隊に多くの兵を割いていた武田軍は総崩れに近い敗勢となり、多くの武将が討たれます。


この武田本陣にも上杉勢が襲い掛かる事態となりました。
有名な逸話になっていますが、この時、本陣に構える武田信玄に馬上の上杉謙信が太刀を浴びせ、信玄は軍配でそれを防いだと伝わります。


撮影: 2015年5月


この逸話の像が八幡社の近くにありました。
八幡社の本殿の周囲には、本殿を取り囲むように土塁の跡が認められました。


撮影: 2011年10月


この土塁は信玄本陣の跡を示す桝形陣形跡です。


第四次川中島の戦いは、その後、妻女山を目指していた武田別動隊が、上杉軍が既に陣を引き払った事を知り、八幡原の本体と合流しようと駆け付けた為、上杉軍を挟撃する形となり、戦況は一気に武田方に傾きます。
この事態を受け、上杉軍が陣を引き、武田軍も海津城に引き上げた為、この戦いは終結しました。


この後、第四次川中島の戦いで命を落とした武田軍軍師の山本勘助の首と胴を合わせたという胴合橋を訪れ、千曲川の堤防を走って、次の目的地に向かいました。


撮影: 2011年10月


堤防道路からは、千曲川の広々とした河原を眺めることが出来ました。


今日紹介したホームページの川中島の散策記は こちら です:
http://shanehsmt.html.xdomain.jp/Travel/Japan/Chubu0/KawanakaJima.html#Hachimanbara

 

 

http://shanehsmt.html.xdomain.jp/index.html



"Explore Historical and Exotic Japan"
http://handejapan19.html.xdomain.jp/index.html