嵯峨鳥居本の重要伝建地区は愛宕街道に
沿う延長650m程の区域です。
沿う延長650m程の区域です。
その途中には化野念仏寺もありました。
この辺りは平安時代以降、墓地だったところで、
空海が野ざらしになった遺骸を葬った事が
お寺の由来だそうです。
空海が野ざらしになった遺骸を葬った事が
お寺の由来だそうです。
境内には数多くの石仏がありました。
古い家並みは、この先にも続いていました。
嵐山・高尾パークウェイから眺める
嵯峨鳥居本の集落です。
嵯峨鳥居本の集落です。
この集落の北側に道路が通っていますが
この道路には第二次大戦まで、
愛宕鉄道という鉄道が走っていたそうです。
この道路には第二次大戦まで、
愛宕鉄道という鉄道が走っていたそうです。
この先にある愛宕神社一の鳥居。
嵯峨鳥居本の重要伝建地区はここまでです。
鳥居の脇にある古い料理屋の「平野屋」
鳥居の脇にある古い料理屋の「平野屋」
鮎料理で有名だそうです。
ここから山間となり、愛宕鉄道の廃線跡とも並走し、
愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)に至りました。
愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)に至りました。
ここにも多くの石仏がありました。
こちらの石仏はユニークな顔の
仏さんが多いと思っていたのですが、
調べてみると荒廃したお寺の復興に、
素人の参拝客が奉納したものだそうです。
こちらの石仏はユニークな顔の
仏さんが多いと思っていたのですが、
調べてみると荒廃したお寺の復興に、
素人の参拝客が奉納したものだそうです。
この愛宕念仏寺で、来た道を引き換えし、
嵐山駅へと戻りました。
嵐山駅へと戻りました。
既に時刻は午後1時過ぎ、
途中で軽食を摂りました。
途中で軽食を摂りました。
午後に入り、化野念仏寺周辺の
観光客は少なくなっていたのですが
常寂光寺から野宮神社、嵐山駅周辺は
多くの観光客でごった返していました。
観光客は少なくなっていたのですが
常寂光寺から野宮神社、嵐山駅周辺は
多くの観光客でごった返していました。
午前中に通った竹林の道などは、
自転車を降りないと進めない程でした。
自転車を降りないと進めない程でした。
嵐山駅で自転車を返し、
駅に近い天龍寺に向かいます。
駅に近い天龍寺に向かいます。
ここは蛤御門の戦いの時に長州藩が陣取ったところで、
さらには坂本龍馬や武市半平太、中岡慎太郎
吉村寅太郎といった土佐藩士らが密談を
交わした場とも言われています。
さらには坂本龍馬や武市半平太、中岡慎太郎
吉村寅太郎といった土佐藩士らが密談を
交わした場とも言われています。
この天龍寺は世界遺産に指定された為か
いつもとても多くの観光客で賑わっているので
つい、足が遠のく所です。
いつもとても多くの観光客で賑わっているので
つい、足が遠のく所です。
綺麗な庭園が残る天龍寺から
その隣の寶巌院に向かいました。
その隣の寶巌院に向かいました。
この寶巌院も庭の綺麗なお寺でした。
天龍寺とは異なり、訪れる人も少なく
静かに散策出来ました。
天龍寺とは異なり、訪れる人も少なく
静かに散策出来ました。
寶巌院から嵐山駅に戻る途中、
壽寧院という天龍寺の支院で
坂本龍馬夫人の「おりょうどの」の
永代供養墓を、おもいがけず見つけました。
壽寧院という天龍寺の支院で
坂本龍馬夫人の「おりょうどの」の
永代供養墓を、おもいがけず見つけました。
天龍寺を散策して嵐山駅に戻った時、
時刻は午後2時半過ぎ。
時刻は午後2時半過ぎ。
この写真は終点の北野白梅町に到着した時の様子です。
北野白梅町から歩いて5分程の所に北野天満宮があるのですが
ここは以前訪れたので、今度は仁和寺に向かいました。
ここは以前訪れたので、今度は仁和寺に向かいました。
仁和寺も以前訪れているのですが、その時はもう夕暮れに近く
境内をゆっくり見て回れなかったのです。
境内をゆっくり見て回れなかったのです。
今回は御殿の庭園や五重塔、
金堂などをゆっくりとみて回りました。
金堂などをゆっくりとみて回りました。
仁和寺をのんびり散策しているうちに、
時刻は午後4時を回ってしまいました。
時刻は午後4時を回ってしまいました。
もう、二条城の受付時間は終了している頃です。
結局、この日は3大目的のうち、
嵯峨鳥居本しか行けませんでしたが、
本当に久しぶりに嵯峨野を散策出来て、良かったです。
嵯峨鳥居本しか行けませんでしたが、
本当に久しぶりに嵯峨野を散策出来て、良かったです。