もう先週の話ですが、水曜・木曜に、
グランパス vs ガンバ戦の観戦を兼ねて
関西地方のお城めぐりをしてきました。
グランパス vs ガンバ戦の観戦を兼ねて
関西地方のお城めぐりをしてきました。
大阪へはアーバンライナーを使いました。
プライベートで大阪に向かう際にはよく利用するのですが、
この日も快適な列車の旅になりました。
夏休みで、指定席も全部売り切れていたようです。
この日も快適な列車の旅になりました。
夏休みで、指定席も全部売り切れていたようです。
そして、2時間程で大阪上本町に着き、
駅近くのホテルに荷物を預け、
大坂城址を目指しました。
駅近くのホテルに荷物を預け、
大坂城址を目指しました。
大阪上本町駅から大坂城までは直線距離で約2km。
途中に大坂の陣で活躍した真田幸村(信繁)が
冬の陣の際に築いた真田丸出城跡を訪ねました。
途中に大坂の陣で活躍した真田幸村(信繁)が
冬の陣の際に築いた真田丸出城跡を訪ねました。
ここは大坂城への抜け道があり、
真田幸村の像のある三光神社です。
真田幸村の像のある三光神社です。
この神社は上町台地の東の縁に位置し、
急な崖になっていますが、
西側には台地が続いています。
急な崖になっていますが、
西側には台地が続いています。
真田丸出城の正確な位置はよく判っていないようで、
この辺りを色々彷徨っていました。
この辺りを色々彷徨っていました。
その際に足を踏み入れた宰相山公園です。
訪れてみて、墓石が整然と並ぶ様子に圧倒され、
そしてどことなく治安の悪そうな公園の雰囲気にも
心細さを覚えました・・・
そしてどことなく治安の悪そうな公園の雰囲気にも
心細さを覚えました・・・
ここは明治4年に初めて陸軍の鎮台が置かれたそうで、
その後に墓地になったようです。
その後に墓地になったようです。
その後、大坂城址に向かったのですが、
その途中で立ち寄ったのが難波宮跡です。
その途中で立ち寄ったのが難波宮跡です。
壬申の乱の7年後の679年(天武8年)に
ここに羅城が築かれ、飛鳥浄御原宮から
遷都の詔が出されたそうです。
ここに羅城が築かれ、飛鳥浄御原宮から
遷都の詔が出されたそうです。
その後、出火し全焼したそうですが、
756年に平城宮から遷都されたそうです。
756年に平城宮から遷都されたそうです。
以前、ここには市営団地があったそうですが
移転され、発掘調査が行われてきたそうです。
移転され、発掘調査が行われてきたそうです。
この難波宮跡と大坂城址は目と鼻の距離で
難波宮跡からも模擬天守閣も見えていますが、
当時は難波宮跡は大坂城三の丸だったようです。
難波宮跡からも模擬天守閣も見えていますが、
当時は難波宮跡は大坂城三の丸だったようです。
大坂城は、以前に本丸や二の丸は訪れた事があるので
今回は、外堀や内堀に沿って周囲を歩きました。
今回は、外堀や内堀に沿って周囲を歩きました。
南外堀沿いを歩き眺めた六番櫓です。
当時は、大坂城の南外堀に面して、
この様な二重櫓が7基も並んでいたので、
さぞ壮観な眺めだった事と思います。
この様な二重櫓が7基も並んでいたので、
さぞ壮観な眺めだった事と思います。
大坂城の周囲を南側から北に向かい
玉造口から大坂城の北側を内堀沿いを巡り、
京橋口から城外へと出ました。
玉造口から大坂城の北側を内堀沿いを巡り、
京橋口から城外へと出ました。
内堀越しに眺める大坂城の模擬天守閣です。
昭和9年に建てられたこの建物は
歴代の大坂城天守で最も
長い期間経っているそうです。
歴代の大坂城天守で最も
長い期間経っているそうです。
大阪上本町駅からここまで、お昼を挟んで5時間以上歩き詰め。
この日の大阪は日差しも強く、とても暑い一日で
かなりの汗を掻きました(^^;
この日の大阪は日差しも強く、とても暑い一日で
かなりの汗を掻きました(^^;
歩きすぎて、右脚の裏の筋が痛くなり出してしまいました(^^;
初日は、ここでグランパスの応援へ。
そして、2日目は大阪上本町から
近鉄特急で出掛けました。
そして、2日目は大阪上本町から
近鉄特急で出掛けました。
2日目の行先は、大阪府内のお城や
奈良の街巡りなど、候補が沢山あって迷いましたが
結局向かった先は、榛原駅からバスに乗った
大宇陀(宇陀市松山地区)でした。
奈良の街巡りなど、候補が沢山あって迷いましたが
結局向かった先は、榛原駅からバスに乗った
大宇陀(宇陀市松山地区)でした。
ここは、伝建地区(重要伝統的建造物保護地区)に
指定された古い町並みが残り、中世からの山城と
江戸時代に入ってからの陣屋があった
3点セットの揃ったところです。
指定された古い町並みが残り、中世からの山城と
江戸時代に入ってからの陣屋があった
3点セットの揃ったところです。
榛原駅からのバスを、終点大宇陀の
2つ手前で下車し、まずは江戸時代の領主
織田氏の菩提寺を訪れてから、
町の散策と山城・陣屋巡りを始めました。
2つ手前で下車し、まずは江戸時代の領主
織田氏の菩提寺を訪れてから、
町の散策と山城・陣屋巡りを始めました。
松山地区の西にある通称黒門です。
陣屋の門だったようです。
この門をくぐると、古い町並みが続いていました。
この門をくぐると、古い町並みが続いていました。
この黒門から真っ直ぐ東に向かうと春日神社があり
その神社脇が中世の山城・宇陀松山城
(別名・秋山城)への登城口になっていました。
その神社脇が中世の山城・宇陀松山城
(別名・秋山城)への登城口になっていました。
この宇陀松山城は、登城道が途中まで整備されていて
藪蚊や藪にそれ程悩まされずに済みました。
藪蚊や藪にそれ程悩まされずに済みました。
汗をかきつつ山道を登り、
草に覆われた本丸に辿り着くと、
南には遠く、吉野の山々が見えていました。
草に覆われた本丸に辿り着くと、
南には遠く、吉野の山々が見えていました。
城址はさすがに草に覆われ、
曲輪の散策はままなりませんでしたが、
この景色を眺められて良かったと思います。
曲輪の散策はままなりませんでしたが、
この景色を眺められて良かったと思います。
山城攻略で、汗を沢山掻きましたが
この後で、町並みの散策を続けました。
この後で、町並みの散策を続けました。
このような町並みが1㎞程も続いていました。
その中にあった幕末の頃の住宅です。
その中にあった幕末の頃の住宅です。
痛い右脚を引きずりながらでしたが
観光客の姿もまばらなこの町中を歩くのは
とても良かったです。
観光客の姿もまばらなこの町中を歩くのは
とても良かったです。
この後、榛原駅から近鉄で名張へ向かい
再び陣屋巡りをしましたが、脚の痛みがひどくなり、
もう一箇所予定していた久居陣屋はパスして
早めに帰宅しました(^^ゞ
再び陣屋巡りをしましたが、脚の痛みがひどくなり、
もう一箇所予定していた久居陣屋はパスして
早めに帰宅しました(^^ゞ
今回の大阪市内や宇陀松山の散策は
後日に本編のホームページで詳しく紹介しようと思います。
後日に本編のホームページで詳しく紹介しようと思います。