6月11日の土曜日の午前中に、近所の土呂の集落を訪れ、
土呂陣屋や土呂城の訪問記を紹介しましたが、
その際に、土呂の町を歩いた時の様子も
本編のホームページにアップしました:
http://www.geocities.jp/shane_hsmt/index.html
土呂陣屋や土呂城の訪問記を紹介しましたが、
その際に、土呂の町を歩いた時の様子も
本編のホームページにアップしました:
http://www.geocities.jp/shane_hsmt/index.html
江戸時代には土呂御坊という一向宗の拠点になった
東西十町(約1km)、南北八町(約800m)もの
広さを持つ集落がありました。
東西十町(約1km)、南北八町(約800m)もの
広さを持つ集落がありました。
土呂の集落が栄えたのは、戦国時代の
1468年(応仁2年)に蓮如上人が本宗寺を
創建して以来、栄えたそうです。
1468年(応仁2年)に蓮如上人が本宗寺を
創建して以来、栄えたそうです。
往時の本宗寺の寺域が東西約1km、
南北に800mにもおよび、この寺域に、
1,000軒もの人家が建つ治外法権の
宗教都市が出来ていたそうです。
南北に800mにもおよび、この寺域に、
1,000軒もの人家が建つ治外法権の
宗教都市が出来ていたそうです。
ちなみに、「泥棒」という言葉の語源は、
この土呂の坊から来ているそうです。
この土呂の坊から来ているそうです。
土呂の衆が、家康に立ち向かった事からとも
戦費調達の為に盗みを働いたからとも言われているようです。
戦費調達の為に盗みを働いたからとも言われているようです。
この土呂には蓮如上人に纏わる
お寺や史跡が数多く残っています。
お寺や史跡が数多く残っています。
このお墓は、蓮如上人の遺骨の一部を分骨して
築かれたものですが、遺骨をを譲り受けた譲り状が
遺されている浄専寺が集落の東にありました。
築かれたものですが、遺骨をを譲り受けた譲り状が
遺されている浄専寺が集落の東にありました。
この浄専寺から小路を北に進むと
土呂殿本宗寺がありました。
土呂殿本宗寺がありました。
この本宗寺は一向一揆の戦火で焼かれ
その後、20年間復興が許されず、復興した後は
岡崎市東部の美合に移されたとの事でしたが
土呂にも本宗寺が残されていたようです。
その後、20年間復興が許されず、復興した後は
岡崎市東部の美合に移されたとの事でしたが
土呂にも本宗寺が残されていたようです。
土呂の集落を歩いている時に見つけた貼り紙です。
「蓮如さん」という土呂のお祭りは賑やかで
子供の頃にはワクワクしながら
出掛けていた事を思い出しました。
子供の頃にはワクワクしながら
出掛けていた事を思い出しました。
当時の面影が薄れつつある土呂の集落ですが、
至る所に蓮如上人所縁のお寺が残り、
今でも戦国時代からの歴史が脈々と
受け継がれていると実感しました。
至る所に蓮如上人所縁のお寺が残り、
今でも戦国時代からの歴史が脈々と
受け継がれていると実感しました。
本編のホームページには土呂の集落の様子を詳しく載せています。