先週は雨が続いていましたが、
金曜日からいい天気になっています。
金曜日からいい天気になっています。
土曜日も、爽やかな晴れの天気。
そこで長篠城に行ってきました。
そこで長篠城に行ってきました。
長篠城は、あの長篠・設楽が原の戦いの舞台になったお城です。
もう何度も訪れたことのあるお城なのですが、
日本100名城のスタンプを未だ押していなかった事と、
その近くにある設楽が原古戦場の史跡を訪れたくて出掛けました。
もう何度も訪れたことのあるお城なのですが、
日本100名城のスタンプを未だ押していなかった事と、
その近くにある設楽が原古戦場の史跡を訪れたくて出掛けました。
まず向かったのは長篠城の北にある大通寺です。
この大通寺は、長篠城本丸から直線距離で僅か500m程。
長篠城を見下ろす高台にあります。
長篠城を見下ろす高台にあります。
1575年(天正3年)の武田勝頼の長篠城攻略戦の際には
ここに武田方の馬場信房、武田信豊そして
小山田昌行らが布陣したそうです。
ここに武田方の馬場信房、武田信豊そして
小山田昌行らが布陣したそうです。
大通寺から見ると、長篠城は
手が届きそうな低地にある事がよく判り、
いとも簡単に陥せそうな感じです。
手が届きそうな低地にある事がよく判り、
いとも簡単に陥せそうな感じです。
この大通寺の裏には「盃井戸」
と呼ばれる湧水があります。
と呼ばれる湧水があります。
弱冠21歳の奥平貞昌が死守する
長篠城は予想外にもなかなか陥ちず、
そうする間に、織田・徳川の援軍が駆けつけます。
長篠城は予想外にもなかなか陥ちず、
そうする間に、織田・徳川の援軍が駆けつけます。
一方、武田方は、1575年(天正3年) 5月19日の夜、
武田勝頼の本陣のある医王寺で行われた軍議で
総攻撃の方針が決まります。
武田勝頼の本陣のある医王寺で行われた軍議で
総攻撃の方針が決まります。
信玄以来の家臣・馬場信房、内藤昌豊、
山県昌景、土屋昌次らは、決選回避を進言しますが
これが、聞き入れられず、軍議の終わった後に
この泉の水を飲みながら今生の別れをしたそうです。
山県昌景、土屋昌次らは、決選回避を進言しますが
これが、聞き入れられず、軍議の終わった後に
この泉の水を飲みながら今生の別れをしたそうです。
大通寺の後に、長篠城に向かい、
100名城のスタンプを押した後、
近くにある蟻塚に向かいました。
100名城のスタンプを押した後、
近くにある蟻塚に向かいました。
ここは長篠・設楽が原の戦死者を葬ったところだそうですが、
蟻の大群が出たので、碑を建てて供養したそうです。
碑は戦いから200年近くも経った後に建てられていました。
蟻の大群が出たので、碑を建てて供養したそうです。
碑は戦いから200年近くも経った後に建てられていました。
その後、寒狭川に沿って遡ったところにある
馬場信房最期の地を訪れました。
馬場信房最期の地を訪れました。
武田軍は5月19日の軍議の後、長篠城から設楽が原へと進軍し、
ここで織田・徳川連合軍に大敗してしまいます。
ここで織田・徳川連合軍に大敗してしまいます。
馬場信房は、殿軍を務め、わずか数騎に守られた勝頼が
寒狭川に沿って落ち延びるのを見届けると
ここで、敵方に首を差し出したと伝えられています。
寒狭川に沿って落ち延びるのを見届けると
ここで、敵方に首を差し出したと伝えられています。
馬場信房の最期の地は、道路から
20~30m高い、急斜面の中腹にありました。
20~30m高い、急斜面の中腹にありました。
最期の地に近い谷合いから眺めた
寒狭川の上流の様子です。
寒狭川の上流の様子です。
馬場信房もその最期の時、
山間を行く勝頼を見送った際に、
この景色を眺めた事でしょう。
山間を行く勝頼を見送った際に、
この景色を眺めた事でしょう。
土曜日の長篠城と設楽が原古戦場の散策、
大通寺の盃井戸や、この馬場信房最期の地に佇み
かつてこの地であった、歴史の揺るがした
大きな戦いの事に思いを馳せていると
歴史の風を感じたように思いました。
大通寺の盃井戸や、この馬場信房最期の地に佇み
かつてこの地であった、歴史の揺るがした
大きな戦いの事に思いを馳せていると
歴史の風を感じたように思いました。