昨日は久しぶりにしっかりと雨が降っていましたが
今日はまた爽やかな青空が広がり、
ちょっと汗ばむほどの陽気です。
今日はまた爽やかな青空が広がり、
ちょっと汗ばむほどの陽気です。
今日は、午前中に隣町の幸田町の
本光寺に行ってきました。
本光寺に行ってきました。
2009年8月の豪雨で、本光寺に祀られている
深溝松平氏のお墓が水に漬かった為に修復したところ、
数多くの埋蔵物が見つかったそうです。
そこで、この近くの深溝城跡に立ち寄りながら
本光寺を再訪したのでした。
深溝松平氏のお墓が水に漬かった為に修復したところ、
数多くの埋蔵物が見つかったそうです。
そこで、この近くの深溝城跡に立ち寄りながら
本光寺を再訪したのでした。
本光寺では、たまたま住職が他の方にお寺の説明をしていて、
その方と一緒に説明を聞くことが出来ました。
本光寺や深溝松平氏代々のお墓の様子とか
詳しく知ることが出来て良かったです。
その方と一緒に説明を聞くことが出来ました。
本光寺や深溝松平氏代々のお墓の様子とか
詳しく知ることが出来て良かったです。
近くに、幸田町歴史資料館があったので
そこにも立ち寄ったところ、この近くには
深溝松平の初代・忠定公と二代・好景公の首塚もあり、
深溝城址共々立ち寄って来ました。
そこにも立ち寄ったところ、この近くには
深溝松平の初代・忠定公と二代・好景公の首塚もあり、
深溝城址共々立ち寄って来ました。
この様子はまた後日、紹介しようと思います。
以前訪れた時の本光寺の様子はHPに紹介しています:
http://www.geocities.jp/shane_hsmt4/Travel/Japan/Chubu/Kouta.html#HonkouJi
http://www.geocities.jp/shane_hsmt4/Travel/Japan/Chubu/Kouta.html#HonkouJi
23回目の今回は、岡崎城下二十七曲の様子です。
江戸の日本橋と京の五条大橋を結ぶ東海道は
いわずと知れた江戸時代の大街道で、
岡崎城の城下町だった岡崎にも
宿場が設けられていました。
いわずと知れた江戸時代の大街道で、
岡崎城の城下町だった岡崎にも
宿場が設けられていました。
東海道は、岡崎の城下を多くの曲がり角で抜け
しかも一部では岡崎城の城内を通っていたそうです。
しかも一部では岡崎城の城内を通っていたそうです。
この曲がり角の多い岡崎城下の東海道は
二十七曲と呼ばれています。
二十七曲と呼ばれています。
岡崎の中心街は、太平洋戦争の
空襲で焼かれてしまいましたが、
旧東海道の道筋は大方残され、
二十七曲に沿って歩く事が出来ます。
空襲で焼かれてしまいましたが、
旧東海道の道筋は大方残され、
二十七曲に沿って歩く事が出来ます。
この二十七曲を3回程に分けて紹介しようと思います。
今回は、岡崎の中心街の東にある欠町から
岡崎宿の中心だった伝馬までの区間です。
岡崎宿の中心だった伝馬までの区間です。
岡崎城下の入り口となるこの欠町には
冠木門と二十七曲の石碑が建っています。
冠木門と二十七曲の石碑が建っています。
欠町からまず北に向かい、
140m程のところで左に折れ、西に進みます。
国道一号線と伝馬通りに挟まれた裏通りで
車の通りも人通りも少なくひっそりとしています。
140m程のところで左に折れ、西に進みます。
国道一号線と伝馬通りに挟まれた裏通りで
車の通りも人通りも少なくひっそりとしています。
650m程、住宅街の通りを進み、
再び北上すると、伝馬通りに出ました。
再び北上すると、伝馬通りに出ました。
ここは岡崎の中心部を東西に貫く目抜き通りです。
江戸時代には旅籠が112軒、本陣と脇本陣が夫々3つもあり、
宮(今の名古屋市熱田)と桑名に次ぎ、
3番目に大きな宿場だったようです。
宮(今の名古屋市熱田)と桑名に次ぎ、
3番目に大きな宿場だったようです。
モダン通りとの角に建つ備前屋を過ぎると、
昔ながらの商店街が続き、江戸時代の東海道の
宿場の様子を彷彿とさせてくれました。
昔ながらの商店街が続き、江戸時代の東海道の
宿場の様子を彷彿とさせてくれました。
今日紹介した岡崎城下二十七曲の様子をHPに詳しく載せています。
二十七曲のページは こちらです:
http://www.geocities.jp/shanehp_tabi1/Travel/Japan/WagamachiOkazaki/Nijyuunana.html
二十七曲のページは こちらです:
http://www.geocities.jp/shanehp_tabi1/Travel/Japan/WagamachiOkazaki/Nijyuunana.html