昼間、携帯から投稿しましたが、
今日の出張は午前の打ち合わせのみ。
今日の出張は午前の打ち合わせのみ。
打ち合わせもすんなり終わったので
烏山城に行く事にしました。
烏山城に行く事にしました。
宝積寺から烏山線で烏山に向かいます。
久しぶりに乗る烏山線。
広々とした北関東の平地の向こうに
遠く、那須山が聳えていました。
久しぶりに乗る烏山線。
広々とした北関東の平地の向こうに
遠く、那須山が聳えていました。
進行後ろ側には男体山も見えていて、
広々と、雄大な景色です。
広々と、雄大な景色です。
ここから烏山の町巡りをしながら
烏山城を目指しました。
烏山城を目指しました。
八雲神社の脇に、烏山城という案内板があり
これに従って急な階段を上って行ったのですが、
このルートは、標高199mの毘沙門山に上ってから、
隣の山の尾根にある烏山城に向かうルートで
思わぬ時間がかかってしまいました。
これに従って急な階段を上って行ったのですが、
このルートは、標高199mの毘沙門山に上ってから、
隣の山の尾根にある烏山城に向かうルートで
思わぬ時間がかかってしまいました。
毘沙門山の山頂から眺めた、烏山の町と、
その東を流れる那珂川の様子です。
その東を流れる那珂川の様子です。
この時は、烏山城址の隣の毘沙門山に上っているとは
思っていなかったので、烏山城の櫓跡からの眺めは
なんと景色がいいのか、と勘違いしていました。
今思い返すと、自分でも可笑しくなってきます(^^ゞ
思っていなかったので、烏山城の櫓跡からの眺めは
なんと景色がいいのか、と勘違いしていました。
今思い返すと、自分でも可笑しくなってきます(^^ゞ
毘沙門山を下ると、堀切があらわれ、
本物の烏山城址に出ました。
本物の烏山城址に出ました。
那須与一の子孫・沢村五郎資重が1417年(応永25年)に築いた山城で、
江戸時代も烏山藩の政庁として明治まで続いたお城です。
江戸時代も烏山藩の政庁として明治まで続いたお城です。
本丸や二の丸のある中世からの山城部は
杉の木が鬱蒼と茂っていて、まだ午後2時台だったのに
陽は山陰に隠れ、薄暗くなっていて、もう1時間も遅かったら
遭難してしまうのでは、という恐れも抱きました。
杉の木が鬱蒼と茂っていて、まだ午後2時台だったのに
陽は山陰に隠れ、薄暗くなっていて、もう1時間も遅かったら
遭難してしまうのでは、という恐れも抱きました。
山城部から、江戸時代の藩政庁のあった三の丸へは
七曲りと呼ばれるつづら折れの急坂でした、
七曲りと呼ばれるつづら折れの急坂でした、
烏山は、かの織田信雄(のぶかつ)も一時城主になっていたそうで、
烏山の町の南にある天性寺には、織田信雄が
信長の供養を営んだ際の位牌もあるそうです。
この天性寺には那須家六代の墓もありました。
烏山の町の南にある天性寺には、織田信雄が
信長の供養を営んだ際の位牌もあるそうです。
この天性寺には那須家六代の墓もありました。
烏山城の登城で、訪問したお城の数は170になりました。
今日乗った烏山線の乗車記、烏山城の登城記、
そして烏山の街歩きの様子は後日、
本編のホームページで紹介しようと思っています。
そして烏山の街歩きの様子は後日、
本編のホームページで紹介しようと思っています。
烏山の街歩きを終えて乗った
烏山線の大金駅の様子です。
烏山線の大金駅の様子です。
帰る頃にはすっかり暗くなっていました。