今年は梅雨に入ってからも雨の日が少なく、
今週末も晴れて蒸し暑い一日になりました。
今週末も晴れて蒸し暑い一日になりました。
今日は、三河山間部にある田峰城と
四谷千枚田に行ってきました。
四谷千枚田に行ってきました。
田峰城の地図は ここ をクリックして下さい。
田峰城は、この辺りの豪族・菅沼氏の居城で、
1470年(文明2年)に築かれたそうです。
2002年に訪れて以来、7年ぶりに訪れました。
1470年(文明2年)に築かれたそうです。
2002年に訪れて以来、7年ぶりに訪れました。
本丸には模擬の御殿や物見櫓が建ち、
本丸の斜面には紫陽花が綺麗に咲いていました。
本丸の斜面には紫陽花が綺麗に咲いていました。
戦国時代も終わりに近づくと、この地域は、
今川氏、徳川氏、武田氏、織田氏の覇権争いに
巻き込まれ、小豪族の菅沼氏は、家の存続を賭け、
どの武将につくかで、一族の間や家臣との間に
骨肉の争いが生じていたようです。
今川氏、徳川氏、武田氏、織田氏の覇権争いに
巻き込まれ、小豪族の菅沼氏は、家の存続を賭け、
どの武将につくかで、一族の間や家臣との間に
骨肉の争いが生じていたようです。
物見櫓からの眺めです。
山間を流れる寒狭川が見えていました。。
1575年(天正3年)、長篠・設楽が原の戦いに敗れた
武田勝頼は、戦いに敗れた後、この寒狭川に沿って
甲斐に落ち延びたそうです。
武田勝頼は、戦いに敗れた後、この寒狭川に沿って
甲斐に落ち延びたそうです。
5代目、城主の菅沼定忠は武田側として戦い、
勝頼とともにこの田峰に戻ってきたのですが、
武田側の敗戦を知った家臣らは、城門を閉じ、
城主・定忠の帰城を阻止したそうです。
勝頼とともにこの田峰に戻ってきたのですが、
武田側の敗戦を知った家臣らは、城門を閉じ、
城主・定忠の帰城を阻止したそうです。
定忠は、その時は勝頼とともに信濃に落ち延びたそうですが
そのことで、一年後に田峰城では悲惨な結末を迎えてしまいます。
そのことで、一年後に田峰城では悲惨な結末を迎えてしまいます。
田峰城からは、その寒狭川に沿って南に向かい、
四谷千枚田に向かいました。
四谷千枚田に向かいました。
寒狭川の綺麗な眺め。
この山間を武田勝頼が落ち延びたと思うと、
感慨も深まります。
この山間を武田勝頼が落ち延びたと思うと、
感慨も深まります。
四谷千枚田は昨年の3月に自転車で訪れています。
田植えをして一ヶ月半も過ぎた千枚田は
早春の様子とは異なり、瑞々しかったです。
早春の様子とは異なり、瑞々しかったです。
千枚田の上にある休憩所に向かった時、
野猿が目の前を横切りました。
野猿が目の前を横切りました。
写真では一匹しか写っていませんが、
5,6匹の家族連れのようでした。
5,6匹の家族連れのようでした。
田峰城と四谷千枚田の様子は、
後日、本編のホームページで記事にしようと思います。
後日、本編のホームページで記事にしようと思います。