2023年11月15日
今日は35年前 私が高校の時に肺がんで亡くなった父の事を書こうと思います
( ゚∀゚)アハハ 歳がばれるー
私が高校3年の6月に父は亡くなりました
闘病は2年もなかったと思います
なんせ古い昔の話しなので記憶も曖昧で、高校生だった私の記憶ですから間違ってるかもですが、何故が書きたくなったので、聞いて頂けたら幸いです
健康診断でひっかかり、あれよあれよとゆう間に手術、それで治ると思ってました。
大人になって母から聞いた話では、手術の時はすでに手の施しようが無くて、そのままとじたそうです。
その後 頭に転移して入院してる時 母は付きっきりで泊まり込みで看病してました。
私は2つ上の専門学校生の姉と2人で生活してました。
今思うと、よく学校サボらす朝起きて行ってたなぁ
私めっちゃ偉いじゃん
付き添いの母を家に数時間でも帰らせて風呂に入らせてあげるために、私が父に付き添って、車に乗れる姉が母を送迎してて、正直、その頃の父に付き添うのが怖かった
脳転移で、めちゃめちゃ優しかった父が、性格が変わったように、いきなりキレる
高校生とはいえ、まだまだ子供、怒鳴られたらどうしよう💦
風邪を引いてて咳が出てた私は、母の付き添い用布団に寝たフリをしてたら、父が
○○ちゃん、身体にはきおつけるんだよ
って めちゃめちゃ優しく言ってきた
何だか最後のお別れ言われたみたいで、涙が止まらず、でも、涙をみせてはいけない気がして、布団をかぶったまま、
うん
としか返事できなかった
そして、それが父との最後の会話になってしまった
脳の手術した父は、脳の腫れが治まらず、頭蓋骨を取ったまま、元に戻す事無く亡くなりました
亡くなるまで、何回か危篤になったのですが、必ず土曜日、ちょっぴりヤンチャしてた私は、オールでディスコいやー、いつの時代だよーで遊んで朝帰りの日に必ず危篤
朝帰ると姉は病院に行ってていない
そうとも知らず、私は友達と、鍵が開かないので門に登り屋根に登って2階の窓から家に入って、置き手紙を見て、当然携帯なんて無いから連絡つかないよねー慌ててタクシーで病院に、ヤンキーな服で濃い化粧をしていくのです。積み木くずしか
親戚の叔父さん叔母さん達も駆け付けていて、まぁ叱られる叱られる
そりゃそうだよね、父親がいつどうなるか分からない時に、高校生の分際でディスコ行って朝帰りして、本当に親不孝者だよ
それが、1回じゃなく、2回もあって
もうね、今考えると
ふざけんなよー何やっとる馬鹿なのってあの頃の私に言ってしばき倒したいわ
そんな2回目の時、私が慌てて病院に行ったら、案の定、叔母さんに
いい加減にしなさいお父さんがこんな時に又夜遊びして
と叱られてる時に
叱らないで
私が看病で子供達といてあげれないから、この子も寂しいんだよ、だから叱らないで
と、母が泣きながらかばってくれた
さすがの私も、それからはお利口に家にいた。
父も持ち直して、最後の危篤の時はちゃんと行く事ができ、最後を看取ることができた。
それから、少しの間は、魔の土曜日だったなぁと言われ、父がわざと私が夜遊びに行く日に危篤になって、私を少しまともな人間にしてくれたんだと言われましたとさ
今なら、もっと治療法もあっただろう
抗がん剤がその頃有ったのか、放射線治療や、色々な治療が日々研究され、助かる命も増えている、父も今の時代で治療させてあげたかったな
まとまりの無い文章で、何が言いたいのか自分でも分からないんだけど、急に書きたくなったんだよねー何でかな
では