人力車アーティスト松岡文武の職人の目

人力車アーティスト松岡文武の職人の目

浅草で人力車を製造している松岡文武のブログ。職人ならではの視点で人力車や伝統を語ります。

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秋葉大助の貢献



秋葉大助(父子)は人力車の歴史を語る上で決して外す事の出来ない存在です。秋葉製の人力車は非常に好評で、彼の作った人力車を大阪では「大助車」と呼んだほどでした。

東京銀座にあった明治期最大の人力車製造工場
「諸車製造所秋葉大助」

大助はそれまでの粗雑で殺風景な人力車を一新させ、
車体に漆を塗ったり車軸にバネをつけたりして改良に様々な苦心を払いました。
その結果、だいたい現在の人力車の形になり、乗り心地が快適になりました。

和泉らが営業を始めてからしばらくは人力車の形には様々なものがあり、
腰掛型、坐型、二輪、三輪、四輪、ちりとり型、だるま型など、
多種多様だったが明治8年ごろには現在の人力車と近い形に落ち着きました。
それには初代大助の貢献が極めて大きいと言われています。

また、この年に初めて英・仏への人力車の輸出を開始し、
その後次第にシンガポールやインドなどへと輸出を拡大していきました。

二代目大助は初代とは違う手法を取り広告に勤めましたが、
人力車以外での事業での人力増強、
そして関東大震災による致命的な打撃によってその扉を閉めざるを得なくなりました。

駕籠より速い人力車


明治3年12月、人力車は大阪に移入されるに従い、全国への普及を見せました。
東京に次ぐ供給地として、大阪は大きな役割を持っていました。

健康な大人の徒歩速度は大体時速4キロ。
これに対し人力車は時速8~10キロで、およそ倍も速く走ります。
運賃が安くスピードも速い人力車には対抗できず、
1万ほどあった駕籠も3分の1に減ってしまいました。
よって大方の駕籠屋は人力車俥夫へと転向せざるを得なくなりました。

長距離輸送における人力車の乗り方には2通りありました。
1つは出入りの人力車を雇い、1日または泊まりを挟んで旅をする場合で、
もう1つは先々で新しい人力車に乗り換えて旅行していく場合です。

後者は各地に中継地ができ、また道路が徐々に整備されたため可能となりました。しかしこれだけの旅をするには相当量の経費が掛かりました。
いわゆる腰掛け型の人力車を発明した人物については諸説ありますが、
その中でも東京府に人力車の製造・営業を出願して許可を得た事実から、
和泉要助・鈴木徳次郎・高山幸助の3人を発明者と見るのが定説となっています。
彼らは明治3年3月22日、3人連名の出願書に雛型寸法書を添えて提出しました。
この出願に対し、東京府は3月24日に許可を与えました。
(3月24日は「人力車発祥の日」として登録されています。日本記念日協会)
許可にあたって、車体は「素朴」に製作し、華美にならないように、
また事故を起したときは厳しく処罰する旨を含む四か条の規則を申し渡しました。

発明者の一人、和泉要助が開いた
出島屋要助商店の人力車



日本橋高札場付近を拠点に営業を開始したものの、
はじめは皆恥ずかしがってさっぱり客はつきませんでした。

そこで親類や家族を客に仕立て、近所中を引いて回ったところ、
段々客もついてくるようになりました。

五街道の起点である日本橋を宣伝場所に用いた効果は大成功で、
日が経つにつれて次第に利用客も増え、
わずか3、4年余りの間に人力車は目を見張るようなスピードで普及しましたが、
新規加入者は彼ら3人のうち1名から印を押してもらえなければ人力車を買えず、
営業も出来ませんでした。

しかし3人は人力車が普及するにしたがい専売出願の立ち消えなど、
許可を得てから僅か3年でそれまで持っていた権限の全てが剥奪されました。
本日よりブログを始めます。

代表挨拶


 平成10年(1998)3月16日「松武屋(しょうぶや)」創業以来、14年(2011現在)が過ぎました。創業当初は体一つ、人力車一台での出発でしたが、お客様と及び各関係者のご尽力のもと、現在の発展となりましたことに深く感謝しております。
“街にやさしく 人にやさしく”の企業理念のもと、「街に…人に…愛される
世界のくるま屋」を念頭に置き、スタッフ一同日々精進して参ります。

その後、平成20年(2008)年4月4日、前身の「松武屋(しょうぶや)」を改め新しいタイプの人力車製造・販売会社「株式会社くるま屋」を設立しました。

「株式会社くるま屋」は、日本橋や浅草を中心に走る観光案内サービス及び、全国出張サービスに加え、人力車の企画開発・製造販売、修理も手掛けているのが特徴です。テーマは『多種多様な人力車の開発と、サービスの提供』です。お客様に新たなる商品や楽しいサービスを提供することでニーズを生みだし、要望や時代に合わせた人力車を作ることが役割と考えています。

人力車は、明治3年(1870)年3日24日、東京は日本橋で誕生しました。人を運ぶ交通手段として広がりましたが、昭和に入り、電車や自動車が一般的になると、交通手段の社会的使命を終え、やがて短日月の間に姿を消しました。現在は、全国の主要観光地にて名所や旧跡を案内する観光用として浅草や箱根、鎌倉などで見られます。

よって、当然の如く人力車製造業者も全て廃業となり、昭和中期には人力車製造職人も皆無となりました。私は、平成23年(2011)現在、日本全国でも片手にも満たない車職人の一人です。日本で発明された乗り物である日本独自の人力車文化を継承しつつ、『人力車140年の歴史を新たに切り開く』思いであります。

これからよろしくお願いいたします。