icon

icon

icon

Amebaでブログを始めよう!
をうつ

日々の喧噪を音符の羅列にたとえるなら,

テヌートのような

いやスラーのような過ごし方をしている.


良くも悪くも


その対極は,スタッカートなわけだけれど
そういう生き方がいいか悪いかは人それぞれだと思います.


就活はスタッカートさを前面に押し出すことが吉.


ロボットになるからには,自我も無く,エラーも無く
オイルさえ注入していただければコンスタントに動きますよ.



話かわって,

普通な人って実はマイノリティーに属するのではないかと最近思う

矛盾しているけど.


要するに,分布図は,

縦軸は人数

横軸を0から100まで
真ん中の50を普通だとした場合,

M字のなめらかな曲線を描くわけです



常識とされているものはただの平均であって,
じつはブレブレ

そんな捉え方をすればいろいろ放置できちゃうね
太田総理ってすごいんだね。

いろんな意味で…

まさにメディアって感じがひしひしと。


逆の発想に至り、批判できるくらいにしっかり見ようと思った。

今流行りの諺で言えば、

「エンタ嫌いがエンタの視聴率の大半」

ということか。


数字数字数字


やっぱ、個人的にテレビ業界には行きたくない


思想こねくり遊びには加担したくない。


太田

が嫌いというわけではない。

NHKの「爆問学問」は録画してまで見ている。

JUNKも聴いたりした。


が、太田総理のは好きじゃない。

自身はあれでいいと思ってやっているのか?

国会議員は俗番組に参加する理由はわかる。

「俗」な層も票に取り入れたいだろう。

彼らはほとんど本音など発しない。

学問的議論は淘汰されるのがこの番組の趣旨。

感情VS論理

それは感情論が優位に進行するようになっている。

構成や編集や知名度のある芸能人によって。

しかも、しれっと

まるで公平かのように



視聴者に共感を持たせる→視聴率

ゴールデンと呼ばれる時間帯の欠かすことのできない目的である。

民放では。

それが俗だという理由でもあるんだけど、


もちろん視聴者は感情論に流される傾向がある。

身近で分かりやすい話に賛同するということが理由なのか。

大人は知らないけど、分別の付かない子供はまあ知っている人の意見や、

偽善ぶっているものの意見は鵜呑みにしてしまうことだろう
映画化されるようですが、それについての感想は良いとも悪いとも言えないです。

良い面もあるし悪い面もある。

映画は原作と大きく乖離していることが往々にしてあるが、そんなことは中編よりも短い小説でもなければ当然2~3時間では収まるはずが無い。

映画化するにあたって、監督の中でという目的意識を持ち、またそのコンセプトを公然と掲げた場合、批判されても何ら問題ないだろう。

ただ、世に五万とある文学を原作とした映画を手に取ってみると、そんなコンセプトなど皆無であろう。当然、制作者サイドも「原作を忠実に」ということが不可能であるということを承知した上でのことである。

村上春樹自身、小説に一つの答えなどなく、自分が読んでいてこう感じたならそれがあなたにとっての作品である(書き手の意思とも無関係である)、という内容の発言をしている。
こういった観点から愚直に推測すると、映像化するにあたっては制作者側の読み解き次第で作品は大きくブレてしまう怖れがある。
村上春樹作品などは「激しい隠喩」と称される氏の小説体系から言って、そのブレは顕著になることだろう。

年を追うごとに独り遊びが下手になるという傾向があります。
これじゃうすーい時間が過ぎていくばかりである。
といっても時間の浪費という大それたものでもありません。
そもそも時間の浪費という概念は人格を偏狭にするものであります。
適度な損得勘定は必要でありますが、それにあまりに縛られてしまうとその分何かを無駄にしてしまうという側面もあると考えます。
こういった寛容さを備えた人は魅力的であると思います。
自分の生きてきた中で積み上げた、アイデンティティみたいなもの(たかが20数年でのそれは大したことも無いけれど)において、柔軟性を感じさせる人はすごいと思います。
他人の価値観を受け入れ(程度の差こそあれ)ふーん、と思うことが簡単なようで難しい。
頭ではわかっていても。
その他人の価値観がどれほど相容れないものであっても受け入れるということは実際には難しいと思う。

例えば、だれかが

「ビール瓶で人の頭を殴りたい」

と言ったら、みんな「やめなよ」という。

もちろん、ビール瓶で人の頭を殴りたいという発言が、「無差別に人を痛めつけたい」ということを発話者が意図していたことなら、その返答も正しいし、全く相容れない価値観として即座にNO を突きつけるのが、普遍的な善い人(majorityな意見)だと思います。

でも「ビール瓶で人の頭を殴りたい」ということが、発話者と聞き手両者の意図していることが決定的に異なっていたとしたら。それは大きな誤解を生み出します。
それも聞き手の一方的な決めつけ、拒否によって。

ある南米の農村においては、赤ちゃんが生まれたとき出産祝いとして近所の人がビール瓶で父親の頭を殴り血だらけにする、なんていう習慣があるかもしれない。
発話者はその習慣を聞き手も既知であるとして、「おめでたいこと」の比喩として発言したかもしれない。


上記の例は究極に極端な話であるが、言葉のやりとりは、すさまじい不確実性を有しているにも関わらず、マジョリティーに、普遍的に、言語そのものを捉えるから誤解が生まれる。


話は少し変わって、カート•ヴォネガットの「タイタンの妖女」という小説にはサロという生命体が登場します。
このサロは、  (台詞自体はうろ覚え)
「ツーカーで理解できないなら、説明したところで無駄なんだよ」
といったことを言います。

一種の諦観を含んだ台詞のようですが、そもそも小説というものは読み手の解釈が全てであると思うので、この台詞の意味は議論しません。
むしろ、この前後、小説全体の流れの中でのこの台詞であるので、その台詞を引っこ抜いての議論はナンセンスだと思います。僕には僕の解釈があるし、みなさんにはみなさんそれぞれの解釈があってしかるべきだと思います。



ただ読んでみてと言いたい。





研究室に日曜に来る物好きはいません
休める時は休むに限りますね。

院試は19、20日です。
応援資金を集めています。
output

大切さ、大変さは心得ています。



 
input

最近疎かになっているような。



といっても観念に疎かもなにも無いか。

どんな物事•現象においても意味はあるわけだから。

そういう一般論に縛られていてはoutputはできないですよ。

ってね。

言われちゃうよ。


はいはい。