土俵入りなど相撲のこと | 稜線の風に吹かれて

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いつもは低い山、ときどきは高い山、その報告と日々折々に感じたこと、思ったことを気ままに綴ります。

 いわゆる”相撲通”と云われる人たちのなかで、私が信用しているのは、やくみつると内館牧子ぐらいのものだが、先日、やくみつるが白鵬の横綱土俵入りについて、独善的だと批判していた。
 そのことでは以前から私もそう感じていたので、わが意を得たりという思いだ。
 やくみつるが言うのは、不知火型でのせり上がりのときの両腕の開き方のこと。
 本来、不知火型のせり上がりは、しっかりと腰を下ろし、両腕を左右に大きく同時に手のひらを上にして開くもの。
 それを白鵬は、最初に右、そして少し遅れて左と開き、それも、最初は少し開いて、徐々に大きく開くというもの。
 見ているこちらからは、二段階、三段階に見える。
 独善的と決めつけてしまうほど私には相撲についての知識はないが、以前から同じことで違和感を持っていた。
 ということで、いまも本当にそうなのか、改めて今場所二日目の横綱の土俵入りをテレビ中継で見ることにした。
 まだ、白鵬も稀勢の里も休場する前だったので、3人の土俵入りを見ることができたが、やはり白鵬のせり上がりについては、やくみつるのいう通りだった。
 それで土俵入りの型が崩れていくというのは言い過ぎかもしれないが、もし将来白鵬に教わる横綱が出てきたらそうなるかもしれないなと思うのは自然なことだろう。

 ところで、このせり上がりのほかに、今回まじまじと見ていて、疑問に思ったことがほかにもあった。
 というのは、太刀持ち、露払いを従え、土俵に上がって横綱が最初に蹲踞をする場所のこと。
 稀勢の里、鶴竜は、土俵の中に入って蹲踞をしていたが、白鵬は、土俵の(俵の)外だったのだ。太刀持ち、露払いの力士が土俵の中に入っているのに。
 これはに何か意味があるのだろうか。
 それとも、これこそ白鵬の独善なのだろうか。
 よくわからない。

 またこれは、先代の豊山がテレビで言っていたことだが、白鵬が、仕切りを繰り返して塩に戻るとき、足の裏についた砂を土俵の俵で落としているのはけしからんと怒っていたことがある。
 ほかの力士も多少やるが、白鵬ほどではない。
 先代の豊山は、俵は神聖なもの、そこに足の裏をゴリゴリと擦って砂を落とすのはどうか、という。
 俵をどうとらえているのか聞いてみたい。
 
 モンゴル出身の力士については、そもそもモンゴル相撲を経験しているはずで、その精神や所作が出るのはある程度仕方ないとは思うが、日本の大相撲に合わせようという姿勢が見られなくなると、文句の一つも言いたくなるというものだろう。
 白鵬については、このところの敵なしの様相で様々な記録も作り、親方、協会も徐々に何も言えなくなってしまったのではないか。
 寄るタニマチも、強い横綱を持ち上げるばかりなのでは。

 話は変わるが、かち上げがいけないというのなら、成文化すればいいじゃないかというのを、やくみつるが「ナンセンスだ」と言ったというのにも賛成だ。
 横綱には横綱相撲というのがある。(大関相撲というのはない)
 先日もテレビ中継で、解説の境川親方(元両国)が白鵬のかち上げは、本来のかち上げではない、ひじ打ちのようになっているというようなことを言っていた。
 白鵬は、「後の先」などと言っていたが、どうしたのか。

 この際だからさらに言わせていただくと、昨今相撲の話題ばかりなので、好きではない人や知らない人が、ワイドショーであれこれ言っている。(振られる人も、困っているかもしれないが・・・)
 そのなかで、「土をつける」「土をつけられる」という言葉を間違って使ったナレーターがいたのには、あぜんとした。
 「土をつける、つけた」というのは、こちらが勝ったときで、「土をつけられた」というのは、こちらが負けたときをいうのは常識だと思っているが、それを反対に使っていたナレーターがいた。
 しかし、まだまだ当分こんなことが続くのだろうと思うと少々情けない。

 最後に、内館先生が、先日テレビ中継に映っていたのには安心した。

 あまり相撲のことをあれこれいうのもどうかと思ったが、白鵬の土俵入りで、最初のところ、土俵の外に蹲踞したのを見て、つい言いたくなってしまった。