クロスカのブログ

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桜庭一樹氏作『少女を埋める』。この作者の名前から、イケメン俳優を連想し、男性作家と思い込んで読み進んだが、どうして、この作者は女性の細かい内面をこんなにもっともらしく描けるのか、感心するというよりも薄気味悪い印象がまとわりついていた。うっかり読んでいると、本編がいつ始まるのだろうと読み飛ばし気味に進むうちに、エピローグになってしまう。作者は女性で、自分の体験に近い話を語っていることに、後になって、気づく。

「少女を埋める」という表題の第一印象では、「少女」という概念が何らかの未完成な状態で、それを埋めることにより大人の女性というような別のフェーズに発展することの肯定を予測したが、外してしまった。まとめの部分の「個別性は聖痕ではない」という表現は難解で、よくわからないが、少女とは共同体が傾向として踏みにじりがちになる異端的な個性を代表する概念ということだ。

「少女を埋める」という表題の直接の意義は、主人公が父の死をみとるために、コロナで面会もままならない、両親のいるふるさとに帰った時に思い出したのか、新たに聞いたのか、そんな言い伝えである。昔その地域で土木工事などの時に人柱を埋めることがあり、美しい少女が犠牲にされるという言い伝えである。それは、古い逸話でなく、現に主人公を日夜脅している圧迫の例えといえる。

志を抱いて故郷を後にして、都会に疲れて、結局、故郷のやさしさを求め、それを再認識して戻っていくというようなありがちな感覚は、許されないみたいだ。そもそも、故郷のそういうやさしさは男性にしか開かれていないのかもしれない。

強い女性だといわれる場面があるが、共同体での女性はみなこのような圧迫を感じながら生きているのだろうか。その点をあまり論理的に説明しようとすると、共産党のパンフレットのようになってしまうという。

葬儀の関係でタクシーかなんかに乗り、運転手さんから主人公がメールをもらう場面がある。若い運転手は主人公が気に入ったのか、気になったのか、何度もメールを送って、何かを訴えようとするが、主人公の反応は、いらだたしげで、迷惑そうだ。メールを送ることは、そんなに悪いことなのだろうか。やはり、社会の男性と女性の関係に、何かゆがみがあり、メールを送る運転手にはその点に関する認識不足があり、主人公を怒らせるということだろうか。

主人公はそのメールを東京の男友達に見せて、相談するのだが、この状況で相談されたら男性が答えられる選択肢は限りなく狭く、彼自身の利害を別にしても、相談者の思いを正当化する契機になるしかないだろう。その男性は恋人というわけでもなさそうであり、とすると、主人公と意思疎通を図りたかった運転手が、主人公と同じ世界にいなかったのが不運ということなのか。同情してしまう。そんなに悪いことをしたのだろうか。それとも、これから悪いことをするようになる可能性が顕著だということなのだろうか。

主人公が、お母さんにそのメールを見せて、一番悲しい状況にある女性である自分に、こういうことをする運転手はなんなのだという。お母さんの目がギラっとした。世界観というか見解というか断絶を感じさせるが、どちらが正しいなどとはとても言えないし、わからない。 

わかるような気がするし、むしろわかりたいのだが、鴻巣友季子さんという文言批評家の不思議な中編という表現は、さすがだなと納得させられました。