3月8日正午、日本列島いや全世界に衝撃が走った。鳥山明先生のプロダクション「バード・スタジオ」と作品の総合プロデュースを担当する「カプセルコーポレーション・トーキョー」は連名で「突然のご報告になりますが、漫画家・鳥山明は2024年3月1日、急性硬膜下血腫により永眠しました。68歳でした」と鳥山明(本名同)先生の急死を公表した。
鳥山明(本名同)先生は1955年4月5日生まれ、愛知県名古屋市出身
愛知県立起工業高(現・県立一宮起工科高)でデザインを学び、マンガ研究同好会会長を務めていた。卒業後、地元の広告関係のデザイン会社に就職し広告イラストを描いていたが方向性の違いから2年半で退職。23歳の誕生日の1978年4月5日に漫画を描き始めた。同年12月に「週刊少年ジャンプ(1978年52号)」に掲載された「ワンダーアイランド」(『鳥山明○作劇場」第1巻に収録)で漫画家デビューした。
鳥山明先生の名を一躍世間に知らしめたのが1980年に連載を開始した「Dr.スランプ」だった。ペンギン村に住む発明家、則巻千兵衛が作った超怪力の女の子のロボット、アラレちゃんのハチャメチャな日常を描いた物語が大ヒットした。同作品は1981年に「Dr.スランプ アラレちゃん」のタイトルでアニメ化され最高視聴率36.9%のアニメ視聴率歴代3位を記録する更なる社会的な大ブームを巻き起こした。
「Dr.スランプ」は大人気のまま1984年に連載が終了した。鳥山先生と当時担当だった鳥嶋和彦氏は「Dr.スランプ」のアイディアが尽きかけていたので連載を終了させたかったが人気作であった為に編集部が承諾しなかったので「三ヵ月後に新連載する」という条件付での連載終了だった。
そして1984年「週刊少年ジャンプ」51号にて「ドラゴンボール」の連載が始まった。前作の人気もあって5週連続カラーという大々的な扱いで連載開始されたが(今となっては意外な話だが)当初はあまり人気がなくアンケート結果における順位が15位になることもあったという。
担当の鳥嶋氏に「主人公が地味だ。だから人気がないんだ」と指摘された鳥山先生は、以後「強さを追い求める主人公」というテーマを作品に持たせることになり、当初の冒険主体から「天下一武道会編」に代表されるバトル漫画へとシフトチェンジした。
そこから人気が急上昇し翌年1985年2月に前作に続きアニメ化されることになった。アニメの「ドラゴンボール」放映開始から高視聴率を記録し1987年には最高視聴率29.5%を記録した。同アニメは1989年4月に「ドラゴンボールZ」と改名。1994年には最高視聴率27.5%を記録した。同アニメは11年間のシリーズ放送期間中、平均視聴率20%を記録。また全世界80カ国以上の国と地域で放送されどこの国でも高視聴率を記録し「ジャパニメーション」の代名詞となった。
原作はフリーザ編が佳境に入る頃にはその人気はピークに達し1991年21・22合併号で行われた読者アンケートで同誌のアンケート史上最大得票となる1000票中815票を獲得。ジャンプにおける地位を不動のものとする。「週刊少年ジャンプ」は1995年に635万部という大記録(ギネス世界記録にも登録)を達成したが、それが「ドラゴンボール」のおかげであることは疑いの余地もない。それが証拠に同作品が連載終了してから「週刊少年ジャンプ」は部数が急速に減少していく事となってしまった。
また鳥山先生のデザインワークとして大きいのが今も続く大人気ゲームシリーズ「ドラゴンクエスト」のキャラ&モンスターデザインだろう。RPG自体はそれ以前からあったがゲームのジャンルとして定着し、同作品が社会現象となる人気作となったのは鳥山先生の魅力的なキャラデザインによるものが大きい。同じく鳥山先生がキャラデザインした「クロノ・トリガー」も大ヒット作となった。
「週刊少年ジャンプ」を635万部までに押し上げた「ドラゴンボール」だったが、どうしても早く進んでしまうアニメとの関係でアニメスタッフに原稿を下描き状態で見せなければならなくなるなど、鳥山先生が精神的にも肉体的にも限界になったため、1995年に連載終了することになった。
しかし連載終了にあたり関係各社のトップ級会議などの調整や各社の上層部による経営判断を必要とし、関連企業の株価・業績への影響を最小限に抑えるべく様々な配慮や下準備を行った上でようやく実現できたという、前代未聞の事態となった。
「ドラゴンボール」はあまりにも人気がありすぎたのだ。
また「ドラゴンボール」の人気が特異なのは連載終了後も人気が継続していったことだろう。これは原作の連載が終了してからもアニメが放映され、何度もリメイクされ、ゲームはあらゆるコンテンツでソフト化され、単行本はリバイバルされたことが大きい。
3月8日に鳥山明先生の死去が公表されたその時から、ファンや漫画家、編集者、出版関係者のみならず、アニメ関係者、ゲーム業界関係者、芸能人、各スポーツ界のトップアスリートが鳥山先生への追悼のコメントを発表した。いかに鳥山明先生の人気がワールドワイドだったのかその証左だろう。
そして政界では当日に内閣官房長官の林芳正氏が訃報に触れ、「(鳥山の作品によって)日本のコンテンツが幅広く世界で認知をされるなど我が国のソフトパワーの発揮に重要な役割を担った」と述べた。
さらに海外でも死去のニュースが速報で伝えられ日本の政界だけでなく世界各国の政界関係者が鳥山明先生に追悼のコメントを発表した。中国外務省報道官の毛寧氏は「著名な漫画家で、彼の作品は中国でもとても人気があった」と評価した上で深い哀悼の意を表明した。フランスではエマニエル・マクエル大統領とガブリエル・アタル首相がそれぞれX(旧ツイッター)にて追悼のコメントを投稿した。ブラジルのジェラルド・アルキミン副大統領もSNSにて追悼のコメントを発信。日本のみならず世界各国の政府関係者や大統領クラスの政治家が日本の漫画家の死去に対し追悼のコメントを発表するなど前代未聞だろう。
「週刊少年ジャンプ」2024年17号ではジャンプ編集部と編集部員が編集後記において追悼のコメントを発表。そして連載中の漫画家20人が追悼コメントを寄せた。それも無理もないだろう。彼らは少年期において鳥山明先生の洗礼を受けた鳥山明チルドレンなのだから。
鳥山明先生の訃報を知ったその日、「Dr.スランプ」からの鳥山明先生の作品との思い出が甦った。
「Dr.スランプ」の単行本を買って、アニメは毎週見て、「Dr.スランプ」のプラモ「わいわい・ワーゲン」と作中に出てきたモビルスーツ風のロボット「リブギゴ」を買って組み立てていた。
「ドラゴンボール」は単行本はもちろんのこと、少しでも次の話が読みたくて早売りの「ジャンプ」を買った。アニメも毎週見て、ゲームもファミコン時代から買ってプレイした。そして連載開始から最終回まで10年間最後まで読んだ。
「ドラゴンボールGT」の最終回、「悟空がいたから楽しかった」というナレーションがあった。
そして今、天国へ向かって声を大にして言いたい。
私の少年時代は「鳥山明がいたから楽しかった」と。
心よりご冥福をお祈りすると共にお礼を申し上げます。
鳥山明先生 ありがとうございました。