「スキップ」 北村薫 新潮社 ★★★★★☆ | 水底の本棚

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しがない書店員である僕が、
日々読んだ本の紹介や感想を徒然なるままに書いていきます。

書店のオシゴトの様子なんかも時々は。
本好きの方、ぜひのぞいてみてください。

昭和40年代の初め。

一ノ瀬真理子は17歳、千葉の海近くの女子高二年。

それは九月、大雨で運動会の後半が中止になった夕方、真理子は家の八畳間で一人、レコードをかけ目を閉じた。

目覚めたのは桜木真理子42歳。

夫と17歳の娘がいる高校の国語教師。彼女は一体どうなってしまったのか。


スキップ (新潮文庫)



「あり得ない、は、ある、に勝てる? わたし、本当についさっきまで、高校の二年生だったのよ」
美也子さんは、難しい問題の解き方が分かったような顔をした。



体育祭が雨で中止になって、家に帰って、疲れたからひと眠りしたら自分が25年後の世界に来ていた。


しかもちゃんと25年分、歳をとって。


客観的に見れば25年分の記憶がすぽんと抜け落ちたとしか考えられないし、


そう考えるのが一番妥当だろう。だって時間を飛び越えてくるのに、何の必然性もないのだから。


ただ寝ていたら、では説得力も何もない。


美也子じゃなくてもそう思うだろう。

けれど。けれど「あり得ない」は「ある」には勝てないのだ。




時の無法な足し算の代わりに、どれほど容赦のない引き算が行われたのか。



時間が経つ、ということは想像するだけで恐ろしい。


子供の頃、老いるということがとてつもない恐怖だった。


今、普通にできていることが、いつか頑張らなければできなくなり、


そしてどう頑張ってもできなくなる、ということが堪え難いことのように思えたのだ。


もちろん今でもそれは恐い。


いつかボールが蹴れなくなってしまう日がくることを、いつか本が読めなくなってしまう日がくることを僕は恐れている。


それでも、小学生の頃よりはいくぶんその恐怖は和らいでいる。


なぜならその「容赦のない引き算」は一度に行われるのではなく、


少しずつ少しずつ行われるのだということがわかったから。


老いれば誰でも身体は思うように動かなくなり、頭も段々と冴えなくなってくる。


けれどそれ徐々にそうなるから人は堪えられる。


知らないうちに、気づかないうちに少しずつ「容赦ない引き算」は行われているのだ。


もしそれが徐々に、ではなく、いっぺんに、だったら人の心はたぶん堪えられないだろう。


今まさに、真理子はそういう状況に置かれてしまっているのだ。




「そうなんです。だって、桜木真理子という形を持ったわたしが、それをしなかったら、-心だけのわたしになってしまったら、それはもう、人間として、眠っているようなものだと思うんです」



17歳の少女が42歳の国語教師として高校三年生を教える。


そんなことはどう考えても無謀だろうと思う。


真理子は美也子さんの作文を評して、形は心の一部だろうと言った。


この挑戦はそんな彼女らしい考え方だと理解はできるけれど、


僕が彼女の夫だったら、戸惑い、そして止めるだろう。


目の前にいるのが17歳の少女ではなく、記憶喪失にかかっている42歳の桜木真理子だとしても、


それでもやっぱり無謀だろうと思うから。


けれど、少しだけ嬉しくも思う。


彼女がこの世界で初めて前向きに歩いていこうと決心した瞬間だから。




「文法やらなくっても読めるっていうのは正解だよ。だけど、そいつはよっぽどセンスと力とやる気のある人がいう台詞なんだ。凡人はな、文法をやった方がよっぽど楽なんだ。特急券なんだよ。苦労の末につかむ筈の法則を、最初にぽんと教えてもらえるんだから」
(中略)
「いやあ、そうなんだよ。そうでなかったら、今まで星の数より多い人間が、あれやこれやと考えたり調べたりするわけがない。面白くなかったら、そんなことできるわけがない」



元教師の北村薫さんならではの言葉ですね。


僕もそう思います。


わずか何千円かのお金で手に入れることができる参考書に書いてあることが、


もし自分で調べようとしたらどれだけの労力とお金を必要とすることか。


そのことに感謝しつつ、勉強は楽しいものだと思って、やりたいですね。


今はそう思います。


できれば学生時代にもそういう気持ちで授業に挑みたかったなあ。


それを学生であるうちに教えてもらった美也子さん、あなたは幸せですよ。




とにかく、その山も少しずつ、崩していこう。桜木真理子には負けたくないから。



なぜ真理子が無謀とも思える挑戦をするのか。


その理由のもうひとつが分かり、ここで僕ははっとした。


彼女は桜木真理子に追いつこうとしているのだ。


25年間の空白に立ち向かうために、今の自分に追いつきたい、そう考えているのだ。


負けたくないその相手が自分自身だというのがとても不思議な気分ですけれど。




「顧問の尾白先生に呼ばれて、《お前から、バレー取ったら何が残る》っていわれて、《わたしが残ります》って返事して、たたかれたそうです」
(中略)
「廊下で聞きました。もう暗くて、でも明かり点けない廊下の、傘立ての横で聞きました。顔もはっきり見えなかった。島原さん、いいました。……ふざけたんじゃない。馬鹿にしたのでもない。バレーは捨てたくない。でもそのために自分を捨てるわけにはいかない。そう、素直に思っただけだって」



僕は本作の登場人物の中で、この笑顔の可愛い長身の少女が一番好きです。


真理子に「ニコリ」と命名されるこの少女は、強く、そして自分をしっかりと持っている女の子です。


僕も彼女に言ってやりたい。そう言える君なら、何を失ってもずっと君は君でいられるよ、と。




「嫌いな言葉は《どうせ》だと書いた人がいるわ」
正面の窓が明るく光っていた。
「-わたしも嫌いよ。-《どうせ》ボールは島原さんのところに来るんだ、はやめよう。《どうせ》勝てないんだ、もやめよう。どうなるかは、神様にしか分からない。でも人間には想像することができる。イメージすることができる。だったら、勝った自分達を考えてみよう。目をつぶって、十分後の、皆なの-」と、わたしは手を広げた。
手の両側には、わたし達のクラスの子が広がっている。「歓声を聞いてごらん」



どうせ、は僕も大嫌いだ。


強く心を持つこと、それが勝負の世界では一番大事なこと。


もちろんどうしてって諦めたくなるような状況だってあることは知っている。


諦めなければ勝てる、なんて簡単に言うつもりもない。


だけど「どうせ」と思う人間には絶対勝利はない。


強い気持ち、強い心。それだけで少しは違うはずだ。




今、わたしの心は十七に返り、ただ一度のオクラホマミキサーを踊る。



42歳の桜木真理子に必死に追いつこうとし、それを何とかモノにしてきた真理子。


だから、この瞬間だけ、せめてご褒美をあげたい。


本当に17歳だったときには踊れなかったオクラホマミキサー。


良かったね、真理子さん。



そう口にした瞬間、自分が失ったものは二度とこの手に戻らないと悟った。時の欠落は産めることなど出来ない。だからこそ人間なのだ。再び、十七の時に戻ることなどあり得ない。わたしは、その大きな矢に刺し貫かれた。



いつかきっと、物語の最後には真理子はまた、両親や池ちゃんの元に帰ることができるのだろうなと漠然と想像していた。


この物語がハッピーエンドで終わらないはずはない、真理子が25年間の時を奪われたままで終わっていいはずがないと思っていた。


おそらくは、大抵の読者がそう思いながら読み進めたのではないだろうか。


ところが、この結末である。


真理子は帰れない。


記憶喪失なのか、本当に彼女が25年の時を越えてきたのか、それすらも分からない。


だがこの物語はハッピーエンドに終わる。


誰もこの物語をバッドエンドだと言う人はいないのではないだろうか。


少なくとも僕はこの物語を幸せな結末だと思うし、真理子にとってもそうであったら良いなと思う。