前作「六の宮の姫君」で着手した卒業論文を書き上げ、巣立ちの時を迎えたヒロインは、出版社の編集者として社会人生活のスタートを切る。
新たな抒情詩を奏でていく中で、巡りあわせの妙に打たれ暫し呆然とする「私」。
その様子に読み手は、従前の物語に織り込まれてきた糸の緊密さに陶然とする自分自身を見る想いがするだろう。
幕切れの寥亮たる余韻は次作への橋を懸けずにはいない。
※ねたばらしを含む感想です。未読の方はご注意を。
第一話「山眠る」の前半は俳諧の話です。
こういった文学評論は北村薫さんの十八番であり…僕の苦手とするところです。
知識のひけらかしなどという批判をするつもりもありませんが、
やはり斜め読みになってしまうのは否めません。
これが落語の話であれば、どれだけ深くつっこまれていようともついていくし、
楽しく読むこともできるのだから、やっぱり僕の無知が悪いのでしょう。
もっと古典文学や、俳句や短歌など、脈々と語り継がれているものに触れ合い、親しみ、想いを寄せなければいけないと思いつつもなかなか出来ない。
素養がないものには近づきづらいという性癖が災いします。
反省しきり。
さて、本編の「本格推理」である部分は少しばかり後味の悪いものですね。
時の流れの非情さをつくづくと思い知らされます。
ところで、僕がつい斜め読みをしてしまう「文学談義」の部分ですが、
田崎先生の言葉にははっしと膝を打ちました。この言葉は僕の座右の銘のひとつです。
「(前略)本当にいいものはね、やはり太陽の方を向いているんだと思うよ」
「走り来るもの」は、リドルストーリーがテーマです。
この小説の中で、僕は初めてストックトンの「女か虎か」を知ります。
そしてとても面白い、と思いました。
飲みの席の恋愛談義としても侃々諤々、いろんな意見が出そうで楽しそうですよね。
ただし、どれほどに議論してもこちらもリドルストーリー。たぶん結論は出そうにありません。
ちなみに作中で語られる諸説の中では「私」の意見が一番面白いですね。
なんとも勝手な意見だなあ、とも思いますけど。
「男が、教えてもらえると《期待した》のが裏切りなんですよ」
(中略)
「そして、王女の方を見た。これがいけないと思います。それって、彼女に負担をかけることでしょう」
作中で語られるリドルストーリーは比較の問題として、それほどに良い出来ではないかな、と。
リドルストーリーの代表作と言われるストックトンの名作と比較しては、
北村薫さんが可哀想かな、と思ったりもしますが。
ところで、「山眠る」同様、この話でも本編とは無関係だけれど、
次のような素敵な言葉に出会いました。
作中で「私」はこの言葉を聞いて「社員教育だ」と嬉しくて背中がぞくぞくしたと言っていますが、
僕も本を売るものの末端として震えがきそうなくらい嬉しくなりました。
出版社の人たち全員が、こんな想いで本を作っていてくれるのだとしたら、
僕らはそれに負けない気持ちで本に向き合わなくてはいけないと思いました。
「損をするのが分かってても、出さなきゃいけない本て多いでしょう。本屋って、たまたま損をするわけじゃあないのよ。本屋が稼ぐっていうのは、売れない本のため。ね、社員のためじゃないの。一億入ったら、《ああ、これだけ損が出来る》と思うのが、本屋さんなの」
それと、この「走り来るもの」の中では、円紫師匠が本を作ることになります。
落語は演じ手によって噺が微妙に変わります。
そして、そのわずかな違いで、噺がまったく違う印象になったりもします。
その辺をまとめてみてはどうか、という話が出るのですが…うーん、ぜひ読んでみたい。
北村薫さんがたとえば円紫師匠の名義でこういうの、出すっていうのはどうでしょうか。
北村薫さんの「落語論」、ぜひ読んでみたいなあ。
ここでは「たちきれ線香」という噺が取り上げられています。
僕も大好きな噺のひとつです。
関東ではサゲを「ひかないわけだ。線香がたち切れています」と演る。
しかし、関西では「小糸はひけしません」と落とす。
(僕の持っている落語の本では上方編にもかかわらず「ひかしません」となっているが)
「ひかない」と「ひけない」。
このちょっとしたニュアンスの違いで、
アハハという笑いになるか、胸にぐっとくる噺になるか、180度違ってきます。
関東の明るく落とす笑いも悪くはない。
けれど、この噺の場合は「ひけしません」が圧倒的に合うように思えます。
さて、表題作「朝霧」です。
話自体はどうってことありません。
円紫師匠の活躍の場も特になく、淡々と話が進む感じ。
「六の宮の姫君」に似た印象です。
ただ、「私」にこれから先を期待させるような出逢いがあります。
次作以降がちょっと楽しみになりますね。