「太宰治の辞書」 北村薫 新潮社 ★★★ | 水底の本棚

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しがない書店員である僕が、
日々読んだ本の紹介や感想を徒然なるままに書いていきます。

書店のオシゴトの様子なんかも時々は。
本好きの方、ぜひのぞいてみてください。

時を重ねて変わらぬ本への想い……《私》は作家の創作の謎を探り行く。

芥川の「舞踏会」の花火、太宰の「女生徒」の“ロココ料理”、朔太郎の詩のおだまきの花……その世界に胸震わす喜び。

自分を賭けて読み解いていく醍醐味。作家は何を伝えているのか。

編集者として時を重ねた《私》は、太宰の創作の謎に出会う。

《円紫さん》の言葉に導かれ、本を巡る旅は、作家の秘密の探索に。

《私》シリーズ、最新作!


太宰治の辞書




先月のこと。たまたま都内の店舗巡回をしているときに、


懇意にして頂いている東京創元社の営業さんがいらっしゃった。


新刊や仕掛け本などの話をしている中で、


「そういえば北村薫さんの≪円紫師匠と私≫シリーズの新刊が今月末に出るんですよ」


「えっ! でもこの新刊案内には載ってませんけど」


「ウチじゃありませんから」


「はっ?」


「新潮社から出るらしいんですよね」


「な、なんで?」


「新潮社から執筆依頼がきているときに、たまたまこのシリーズの構想が思い浮かんじゃったんですって」


「たまたま」


「そう、たまたま思いついちゃったんですって」


「……いやまあ。北村先生と東京創元社さんが仲違いするとは思っていないですからねえ」


「文庫は創元推理文庫から出してくれるみたいですよ」


「あ、そうなんですね。シリーズで背表紙が揃ってないの、キモチ悪いですから助かります」


「ずいぶん先の話ですけどね」


「そうですね」




なんていう会話がありました。


どこから出されるかはともかくとして、久しぶりに円紫師匠と≪私≫に会えるのは嬉しい。



でもまさか、≪私≫がアラフォーだなんて予想もしてなかった。


前作のラストでちょっと出逢いがあったりしたけれども、


まさかすでに結婚をしていて、おおきな息子までいるなんてところまでは想像もつかなかった。


それを、何の説明もなく当然のことのように書いてしまうのが北村流。


さすがです。




円紫師匠の出番は極めて少なかったけれど、

(そもそも推理を披露するような必要もなかったのだけれど)


正ちゃんにもまた会えたし、その正ちゃんが全然変わっていなかったのも嬉しかったし。




でも、一番はっとさせられたのはこのエピソード。



「編集さんは本が売れなくても、作ったということで満足出来るね。でもね、営業の人は、売れなかったら、どう満足したらいいんだろう」



しかし外に出た時には、会社の顔になる。損をしてもいい本がある、などというのは不遜なのだ。その損に付き合わされる人間は、たまったものではない。

必要とする人が、少ないけれどいる。そういう本はある。となれば我々は、一冊あたりの値段が高くなっても買ってもらえるだけの≪いい本≫を作ろうと努める。そういうことだろう。




ああ。


その通りだよね。


僕も仕事で編集さんたちに会うことが結構、ある。


そのとき、意識の違いに愕然とすることがしばしば、ある。


出版社と書店のちがいではない。営業さんたちには覚えない違和感だから。


彼らは本を作るまでが自分の仕事だと思っている。その後のことは、彼らにとってはまったくどうでもいいことなのだ。

(もちろん、そうでない編集さんもいるのだが)


本はお客様の手に渡って、読まれて、はじめて意味がある。


ただつくっただけで一冊も売れない本なんて、何の価値もない。




さて。


このエピソードは「朝霧」の中で紹介された「出版社はヒット商品が出て儲かったら、そのぶん売れなくても必要な本を出すための損ができる、と考えるものだ」という部分から派生している。


僕はその場面を読んだときいたく感心したものだけれど、


それはまだそのときは僕が書店員ではなかったから。


書店員となった今、「売れない本なんて」とやはり考える。


北村先生にもきっとどこかで考えの変化があって、それで今回のエピソードになったのだろうと思う。




正直、この「太宰治の辞書」はあまり面白いとは言えないけれど、


それでもやっぱり長きにわたってこのシリーズを愛読してきた者として、


愉しく読める部分が多かった。




本当はシリーズ初期のようなミステリが読みたいのだけれど、


まあ、今回のような論文みたいなものでもいい。


これは小説ではないよなあとは思うけれど、それでもやっぱりこのシリーズはずっと好きだ。