コートジボワールの国連PKO
コートジの首都は、正式には中央部にあるヤムスクロ。
でも実質的には、南部海沿いのアビジャンに、政府機能と経済活動が
集中してる。
アフリカというと、大変なところで働いてると思われがちだけど、
アビジャンはまったく別。
かつては、「アフリカのパリ」と呼ばれてたらしい。
要は、宗主国だったフランス人が、自分たちが住みやすいように
町を作っただけなんだけど。
内戦中も、インフラ破壊はあまりなかったので、
アフリカ内でも住み心地は格段に良い。
そのせいで、ここの国連PKOは、五つ星ミッションと言われてたりする。
一方、目に見える破壊や問題が山積みの他のPKOに比べて、
職員のモチベーションがなかなかあがらないという側面もある。
一部の国連の同僚たちは、和平に関心がなく、
地方出張にも行きたがらない。
地方に派遣されると知って、辞職した人もいた。
レバノンが攻撃されたときは、PKOが増員されて、
職のあてが増えると喜んでいた。
そして、レバノンPKOの日当が思ったより低いのを知って、
残念がっていた。
同僚: 「ブッシュが、イランでもどこでも良いから
攻撃してくれないかな~。新しいPKOが出来るし、
イランだったら生活環境も手当てもよいだろうし」
そんな彼は、私がこの仕事を始めるきっかけとなった、ルワンダ出身。
私: 「・・・じゃあ、またルワンダを攻撃してもらえば?」
相手は、黙って苦笑いしてた。
ただ、彼の場合、ルワンダ内戦前に外国に退避してたので、
実際の虐殺を経験したルワンダ人とは、かなり立場も想いも違う。
その一方、この国の人々のために、
何かしたいと思っている同僚もたくさんいる。
それは大抵、個人の実力とキャリアに対して、向上心がある人々。
責任感があって、言い訳をしない。
「この国に平和は訪れない」を前提にして働く上司や同僚のなかでも、
自分が出来ることに全力を尽くす。
PKOの仕事は、技術的なスキルに加えて、
いかに「かなりの確立で実現が困難に思える和平という目標」に向けて、
現実を近づけるため、モチベーションを維持できるかが、
重要な能力だ。
そして、そういうモチベーションを高く維持した人が、
どれだけ適材適所に揃っているかが、
そのPKOの成果にも、多分に影響する。
「でも、和平への政治的意思がこの国には無いから」というのは、
国連PKOが用いるある意味もっとも情けない言い訳だと思う。
その作業を放棄するのなら、PKOは、軍人部門を駐留させて
抑止力にすれば良いわけで、文民・政務部門は必要なくなる。
それでも、この台詞は、とてもよく使われている現実。
始めの日記
今日から、ブログ始めます。
今さらか!という気もするけど…。
とりあえず、自己紹介。
現在は、西アフリカのコートジボアールにて、国連PKO(UNOCI)で働いてます。
高校のときに、紛争地で働く仕事をしたいと思ってから、
ルワンダ、シエラレオネ、アフガニスタンなどで働いてきました。
ここ5、6年は、主に「DDR」と呼ばれる業務を専門にしてます。
これは、「兵士の武装解除・動員解除・社会復帰」を、
英語にした際の、頭文字(Disarmament/Demobilisation/Reintegration)をとったもの。
一言で言うと、紛争後に、兵士や民兵から武器を回収し、兵役をとき除隊させ、
市民として生きるための職業訓練、教育機会、雇用機会を施す、治安回復・復興支援。
しかし、一方、武装解除に応じる見返りに、兵士に戦争犯罪の恩赦を与えることが多く、
「治安と平和」と「正義」がトレードオフになる、という問題を生む支援でもある。
犠牲者や難民を差し置いて、加害者とみなされがちな兵士に恩恵を与えることへの反発もある。
平和を築くための支援を行ううえで、
現地社会が望む平和を維持できるような支援を行えているか。
逆に、支援自体が、現地社会の自立と平和への可能性を阻んでいないか。
現地社会に、持続・自立的平和を呼びかけながら、他国が侵略した場合は、
その努力はあっけなく崩れ去ってしまう国際社会の現実に、どう対処していくのか。
選択肢すら持たない状況で生きる人々に、
少しでもよりよい選択肢を築くことができるよう、
自分は何ができるのか、日々考え、実行していきたい。
コートジ西部のミリシアと。
「条件付きで武装解除する」と発言した交渉の後に、
「♪命を懸けて戦うぜ」という歌を皆で合唱しながら行進して帰ってった。
…いや本音はよく分かったけどさ・・・。
この地域のミリシアは、大統領に支援されてる。