こどもの一生 2022.4.9 土曜日 @東京芸術劇場


①社長の存在:実体か実体ではないか
   この舞台で一番最初に疑問に思ったのは社長の存在。全てが空想であったと分かったあと、社長だけがその中の空想と状況が変わっていないことが1番の謎として残されているが、そもそも社長とそれ以外の登場人物では基本の人物設定が違いすぎる。官僚である藤堂は強迫性障害、万引きを繰り返してしまう順子はスリルを求めて犯罪を犯してしまう依存症、地下アイドルの亜美は特定の動作が出来なくなるイップス症、そして聡ちゃん演じる柿沼は社長に罵倒されるストレスから解離性障害を患っている。しかし、社長に関しては病気についての言及がなかった。その後子供に戻った彼らは、「わがままだ」という理由で社長を仲間外れにするが、初めから社長とそれ以外の4人では、大きな境遇の差があったと言える。言い換えれば社長は最初から抑圧されてい存在(=子供)であり、それ以外の4人は抑圧されている存在(=大人)である。そこからその4人は子供へと変貌するわけであるが、初めから子供であった社長はその変化について行くことが出来ていないようにも感じた。そもそも病気を患っていない社長がこのクリニックにやってきた理由は何なのであろうか。
柿沼の病気を治すためであるかもしれないが、あそこまで部下を無下に扱う人物が自分まで孤島に行こうとは思わないだろう。そこでこのようにも考えられる。初めから社長は「存在していなかった」のではないだろうか。
最後の場面で「山田のおじさん」という殺人鬼に井出さんや院長が殺害された後、それは空想であったということが判明するところがある。
しかし、社長だけが風呂場で意識を失ったまま戻らない。社長は初めから存在しないものと考えれば、それ以外の人が生きていて山田のおじさんも空想であったという事実に辻褄が合う。
社長の方が、皆が生み出した空想であるとも言えるわけだ。しかしこう考えると、戦時中の場面で山田のおじさんと同じ俳優に「触れた」(=実体であった)という場面といささか矛盾が生じる。
この「触れた」というシーンが作品全体を混乱させている要素なのかもしれないが、このように「実体か実体ではないか」という点を中心にこの作品を見ていくと、ドツボにハマって抜け出せなくなってしまう。これこそが作品の狙いである可能性もあると思った。「実体か実体ではないか」という点に囚われすぎてはいけない。
  解離性障害の柿沼のように、ふとした時にさっきまでの記憶が抜け落ちて、今が現実か、はたまたさっきまでのことが現実か分からなくなることが私たちにも有りうるというメッセージなのだろうか。



②島という閉鎖された空間

  もうひとつ気になったのが島という閉鎖された空間でこの物語が展開していく所だ。ストーリーを大まかに知った時に、孤島で「異常」とされる人々が閉じ込められているという点に江戸川乱歩の「孤島の鬼」との共通点を感じた。と言ってもそれは私が雰囲気が似ていると感じただけなので、ここから先は若干こじつけのようになっているが、「島」「病院」というテーマでこのふたつの作品を見ていくと、こどもの一生の方で不可解だった点が少し明確になるのではないかと思う。「孤島の鬼」では孤島で不具者を作り出す丈五郎という人物が登場するが、彼は自らがかたわであるというコンプレックスを正当化するために貧乏な子供を買ってきては二人の頭をくっつけたり、熊の手を付けて熊人間にしたりと恐ろしい悪行を繰り返す。彼の目的は「世界から健全なものを排除する」ためである。ここで島という環境がポイントになってくると思う。島は海でその他の世界から隔絶された土地であり、そこで正当化されたものは、ほかの世界で異常であっても誰も疑うことがない。この、島での「正当化」はこどもの一生にも見られる要素なのではないか。MMM療法という、子供に戻ることで精神の安定を取り戻すことが出来ると謳うこのクリニックは、他に誰も常識を覆す存在がいないことをいいことに、様々な特徴を持つ人間たちを「あなたは病気だ」と決めつけ、それを治す治療として「こどもに戻る」という異常な現象を正当化している。井出が行ってはいけないと忠告した洞窟や灯台は、それらの常識を覆す可能性のある数少ない場所であったといえる。そして実際柿沼は洞窟で、キノコが子供に戻るという暗示を促進させる成分を持っていたことに気づく。

   異常であったのは、患者たちか、クリニックか。

ここもこの作品において最後まではっきりしない部分である。


③演出方法:冒頭と最後のシーン

   最初に戦時中の格好をして出てきた2人の俳優はそれぞれ本編で社長と山田のおじさんを演じていた。このふたりが同じ俳優であるということに何か意味はあるのだろうか。この冒頭と最後のシーンは全く別物として捉えることもできるが、繋がりのあるものとして考えてみる。亡くなったと思っていたかつての同僚(?)に触れることが出来、彼は実体であったと言うことがわかるが、それが逆に不可解な印象を残している。もしも触れることが出来なかったとしたら、彼は幽霊もしくは誰かが作り出した空想であり、その非現実さから誰しもが恐怖を感じるはずだ。しかし、本編で山田のおじさんが空想であったと分かったあとに、場面が切り替わって、その山田のおじさんを演じていた俳優が「実体」であったということは先程までの事実を覆すことになる。社長の意識が戻らないことに加え、このような事実の反転が起きることは、「今まで見えていたものは空想だった」と一概に言われるよりも大きな不安感と恐怖を残す。この作品では、さっきまで見えていたものが覆る、という場面が何度も繰り返される。

  それはまるで柿沼しのぶと柿沼ていぞうが入れ替わるようにテンポよく行われる。このテンポについていけないため、観客たちは気味が悪いと感じるのかもしれない。