太郎も歩けば棒に当たる

太郎も歩けば棒に当たる

インターン時代に書いていたブログ。

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関西に来てもう1年間が経っていた。



関西の空気は横浜や東京とは違っていて、独特な雰囲気を醸し出している。

地方の人は東京は怖いところだと先入観があるかもしれないが、おれは関西が怖かったよ。


ずっと明石駅の存在を知らなくて、伊川谷から大津和まで歩いていた。

40分間の道のりは苦じゃなかったけど、あの長い直線が、不毛な地に見えた。

なぜおれはひとり歩いているのか?なんて感じては、自分の存在を疑いたくなった。


何だろうね、何でだろうね。資格を取ろうと思っていたのに。

簿記1級?FP1級?

何もおれは持っていないじゃないか。

だけど、インターンはやっている。



「インターンをするには、ただ企業のドアをコンコンってノックすりゃあいいんだよ。」



そんな適当なアドバイスしかもらえなかった。

よくわかんないから、Find job!を見て企業に電話をかけまくった。



「担当は不在なので、折り返しお電話します。」



2週間経ってもどこの企業も折り返して来ない。

それに、大学のインターンは3回生だけしか出来なかった。

そんな時に思い出した彼の的確なアドバイス。

コンコンってね。


4月の下旬に面接が決まって、そりゃあもうドキドキした。

話す内容は決まっていた。

成長したい想いと、カンボジアのボランティアの話。

ボランティアは1ヶ月もやっていないのに、想いだけは口に出せるようになっていたから。



「面接というよりは面談という形で。」



チャンスを掴みたくて、とにかく喋りたくった。

手応えはあって、受かるかもしれないとさえ感じた。

でもね、その半年後くらいに知ることになるんだけど、その時点では完全に落ちていたらしい。。。



「課題をやってきてください。パワーポイントを使って。」



正直、困った。パワーポイントなんて使ったこともないから。

分厚い本1冊買ったけど、意味すらわからなかった。

そこでまた、面談を受ける前にアドバイスをくれた彼に電話した。



「パワーポイントの使い方がわからない。」

「参考になる資料をくれ。」



もらったデータを分解して使い方を覚えていった。

彼の資料の出来はかなりよかった。

そのデータがもしなかったら、正直何もわからなかったとおもう。


大学のパソコンルームで放課後ずっと資料作りをしていた。

独身貴族の女性をターゲットにした企画を作ったんだけど。

あまりに内容が尖り過ぎて失礼だったから、コンセプトを変更して"盆栽を売る"企画を立てた。

洋と和の融合なんちゃらって。


競合の調査の仕方がよくわからなくて。

梅田とか茨木、伊丹まで行って実店舗の店員に話を聞きまくって。

ついに、茨木で有益な情報を得たときは嬉しくてしょうがなかった。


盆栽の知識を得るために、盆栽屋を探したんだけど、ネットでもなかなか見つからなかった。

ようやく見つけた盆栽屋にノーアポで訪ねたはいいが、あまりにボロボロの家に驚いた。

もっと驚いたのは彼が関西屈指の盆栽名人であったこと。

そして、あんなにボロ臭い仕事場なのに、総資産が20億を超えていること。


結局、盆栽の話はあまり聞けなくて、彼の人生について延々と訊き続けた。

彼は非常にクレバーで、もう70歳を超えているのに、柔軟な考えをしている。

あんなすげえ爺さんと出会ったのは初めてだった。


来週あたりに、訪ねたいとおもう。

早く行かないと天国に・・・ね。

もう一度話したい、そして『ありがとう』ってちゃんと言いたい。



『資料が出来た!』



友人を家に呼んで、プレゼンの練習をした。

練習はあまりうまくいかなくてさ、ネットで買った盆栽も枯れてしまっていた。

爺さんに言われた言葉を思い返すと、なんとも言えない気持ちになる。



「盆栽や植物は人の心を映すものだから大切に育てなさい。」



オフィス近くにあるドトールで音楽を聴きながらテンションを上げて本番。

受かったけれど、何もかもが運が良かった。

おれは選ばれたんじゃなくて、運が良かったんだとおもう。


インターンの始まりはざっくりこんな感じ。

だけど、想いとか大学のおれは書いていない。

まじで気が狂うほど熱くなっていたとおもう。(最近また熱くなっていたけど)

熱くなっているときは子供みたいだ。

謙虚であることや冷静な判断とかが皆無になって衝突を繰り返す。

・・・っていうのがやっとわかった。

気持ち未だに18歳、一度でいいから成人式に参加したい。

そんな自分にお別れする時が来た。


1年前に望んでいた成長はできた。

もちろん今は違う場所を見つめている。

インターンで成長した。


成長したくて悩んでいたおれの気持ちはマイノリティじゃなかった。

成長したくて悩んでいる学生の気持ちは痛いほどわかる。

その証明として、アプローチしてきた学生はみんな一歩を踏み出している。



「今でも私は、たろ先輩サンの行動が理解しづらい人です。」



同期なのに先輩なんて言われてしまう。

浪人してる人はあんまり年齢は言わない方がいいよ~ってアドバイスしよう。

ちなみにこの子はもう2回生でおれの先輩。笑



『あ!こんにちは、せんぱーい♪』



ま、こんな感じ?

オレンジデイズっぽく。

大学生活っていいよね。



『というわけで・・・』



もうインターン辞めることにします。

以上。
人生は神ゲーだ
(2007-03-03)
原文URL:http://anond.hatelabo.jp/20070303100408



本気でがんばるとぎりぎり倒せるように絶妙のバランス調節がされた敵。

単純作業じゃ効率が悪いけど、工夫次第でどんどん効率を上げられる経験値システム。

リセット不可の緊張感。でもシレンとかよりずっと死ににくいからあんま気にする必要なし。つーか普通のゲームでもリセットなんて邪道じゃん。

全てのキャラが深い人間性と歴史を持って登場する、圧倒的リアリティ。

グラフィックが綺麗すぎ。多分、無限×無限ピクセルで、毎秒無限フレームで動いてる。色も多分無限色使える。夕焼けとかマジありえねー美しさ。

BGMの種類がほぼ無限。選曲も自由。自分で作った曲を流すこともできる。

人間が作ったとは思えない、とんでもなく複雑で洗練されたシナリオ。

リアル出産システム採用。自分と、自分よりも大切に思える相手の遺伝子を半分ずつ受け継いだ、奇跡のようなキャラを生み出して、そいつに自由に色々教えて育てることができる。すごく嬉しいし、ちょー楽しい。

ネコっつー生き物が登場するんだけど、これがちょーかわいい。

食いきれねーほどの種類の料理があって、超うまいものが時々食える。

説明書が無く、仕様が明かされてないから、自分でデータとって仕様を推測するしかない。これがまたとんでもなく高度に洗練された仕様になってるっぽくて、なかなか正確には分からん。だから、とりあえず大雑把に推定し、それに基づいて行動して、データを取りつつ徐々に予測値を修正していく必要がある。これがまた楽しい。徐々に明らかになっていく世界観。

未だに明らかになってない謎が山盛り。

友達と一緒に協力して遊べる。

無料。

本気で自分を愛してくれるキャラがいたりする。

ゲーム内で別なゲームやったりアニメ見たり出来る。

登場キャラと本当に心を通わせることが出来る。

信じがたいほど深い感動を味わえるイベントが結構ある。もちろん本気でやらないとフラグを無駄にするだけだが。


こんなとてつもない神ゲーを糞ゲーとか言ってる奴は、本気でこのゲームをやったことがない奴だけ。

まあ、一切がんばらずにクリアできるようなヌルゲーばかりやってる奴には、このゲームはちょいとハードかもしれんがな。

でも一端ハマった奴はみんな、このゲームを辞めたくないって言ってるぜ。



――― 匿名
キューバがらみでいえば、私の記憶の地平線に、近日点の火星のように輝く一人の人物がいる。米西戦争が勃発したとき、反乱軍の指導者と直ちに連絡を取る必要があった。ガルシアはキューバのどこかの山塞にいる。どこであるかは誰も知らない。郵便や電報が届くはずもなかった。

大統領は彼の協力を得なければならない。しかも早急に。

どうすればいいのか!

ある人が大統領に言った。「ガルシアを見つけられる人がいるとしたら、それはローワンという男でしょう」

ローワンが呼ばれ、ガルシアへの書簡が託された。「ローワンという名の男」がどのようにしてその手紙を受け取り、油布の袋に入れて密封し、心臓の上にくくりつけ、4日後に夜陰に乗じて小さなポートでキューバの海岸に上陸し、ジャングルに消え、敵国を徒歩で縦断し、ガルシアに書簡を届け、三週間後にこの島国のもう一端の海岸に現れたかを、ここで詳しく話すつもりはない。私が強調したいのは、マッキンレー大統領がローワンにガルシアへの書簡を託したとき、ローワンはその書簡を受け取って、「彼はどこにいるのですか?」と尋ねなかったことである。

この人こそ、その姿を不滅の青銅で象り、その像を全国の大学に設置すべき人物だろう。若者に必要なのは机上の学問でも、あれこれの指示でもなく、背骨をまっすぐに伸ばしてやることである。そうすれば信頼に応え、迅速に行動し、精力を集中して、任務を遂行するだろう。ガルシアに書簡を届けるだろう。

ガルシア将軍はすでに世を去ったが、ガルシアはほかにもいる。多くの人手を必要とする大事業を遂行しようとしたことのある人なら、きっと平均的な人間の無能さに愕然とした経験があるだろう。一つのことに集中して、それを遂行する能力、あるいは意欲がない。

ずさんな手助け、愚かな不注意、なげやりな無関心、それにうわの空の仕事がお定まりらしい。騙したり、すかしたり、脅したりして、他人の手助けを強要するか、金で買うかしないかぎり、誰も成功は望めない。

読者諸氏よ、試してごらんなさい。あなたはいまオフィスにいて、六人の部下が近くにいる。その中の誰か一人を呼んで、頼む。「百科辞典で調べて、コレッジョの生涯について簡単なメモを書いてくれないか」

その部下は静かに「はい」と答えて、仕事に取りかかるだろうか?決してそうはしないだろう。きっと怪訝な顔をして、 次の質問を一つか二つするだろう。

どんな人ですか?
どの百科事典でしょう?
百科事典はどこにありますか?
ビスマルクのことではありませんか?
チャーリーにさせてもいいんじゃありませんか?
過去の人ですが?
お急ぎですか?
その本を持ってきますから、ご自分でお調べになりませんか?
なんでお知りになりたいのです?

あなたがその質問に答えて、その情報の求め方や、あなたがそれを求める理由を説明した後、その部下は十中八、九、ほかの部下の所へ行って、ガルシアを見つける手伝いをさせるだろう。それからあなたの所へ戻ってきて、そんな人物はいない、と言うだろう。もちろん私はこの賭には負けるかもしれないが、平均の法則に従えば、負けないはずである。

もしあなたが賢明なら、「補佐役」にコレッジョの見出しはKではなく、Cであると、わざわざ説明したりしないで、優しい笑顔を見せて「もういい」と言い、自分で調べるだろう。この自主的に行動する能力の欠如、精神的な愚鈍さ、意志の軟弱さ、進んで快く引き受けようとしない態度のために、本物の社会主義者がなかなか現れないのである。 自分のためにさえ行動しようとしない人たちが、全員の利益のために、どれほどの努力をするだろうか?

節だらけの棍棒を手のした副社長も一人は必要だろう。土曜日の夜に「首」になるのが怖いばかりに、大人しくしている労働者が多いからある。タイピストの求人広告を出せば、応募者十人のうち九人までが、ろくに綴りを知らないし、句読点も打てない。しかも、そういうことを知らなくてもいいと思っている。

そんな人がガルシアへの手紙を書けるだろうか?
「あの出納係ですが」と、ある大きな工場で監督が言った。
「彼がどうしたかね?」
「会計係としては有能ですが、街へ使いにやると、いつもというわけではありませんが、途中で四軒の飲み屋に寄り、目抜き通りにたどり着いたときには、何の用で来たのか忘れていることがちょいちょいです」

こんな人にガルシアへの書簡を託せるだろうか?

私たちは近頃、「虐げられ、搾取されている労働者」や「まともな職を求めてさまよう、よるべない人々」に対する感傷的な同情を耳にする。それにはたいてい、経営者に対する厳しい言葉がつきものである。

だらしない役立たずの連中に気の利いた仕事をさせようと、むなしく奮闘して年齢不相応に老け込む雇い主、彼が背を向ければさぼることしかしない「手助け」を得るために、長年、忍耐強く努力を重ねている雇い主。こうした雇い主たちに対しては言うべき言葉もない。どの店でも工場でも、除草は常に行われている。雇い主は、事業の繁栄に役立つ能力のない「手助け」を絶えず解雇して、代わりを採用しているのである。

どんなに景気が良くても、この取捨選択は続く。ただ、不況で職が少なくなると、その選択が厳しくなって、無能で役に立たない人は、職を追われて、そのままになってしまう。適者生存の原理である。 どの雇い主も自分の利益のために、最も優れた人材、ガルシアへ書簡を届けられる人たちを残そうとするからである。

私の知っているある人は、非常に優れた資質を備えているが、自分で事業を経営する能力はない。さらにまた、他人には全く役に立たない。雇い主が自分に不当な圧迫を加えている、あるいは加えようとしている、という異常な猜疑心を常に抱いているからである。彼は命令を下すことができず、受ける気にもなれない。ガルシアへの書簡を託されたら、その返事はおそらく、「自分で届けろ!」だろう。

この男は今夜も職を探しながら街を歩いている。風がそのすり切れたコートを通して、ひゅうひゅうと鳴っている。彼を知っている人は雇おうとはしない。常に人々の不満を煽るからである。彼には道理が通じない。彼に印象を与えるためには、そこの厚い九号のブーツの爪先で一蹴するしかないだろう。

これほど異常な性格の持ち主は、憐れむべきだろう。しかし我々は、大事業の経営に努め、終業ベルが鳴っても仕事の終わらない人たちににも、一滴ぐらい憐れみの涙をこぼそうではないか。なげやりで冷淡な連中、だらしのない無能な連中、そして恩知らずの連中を統率する苦労で、早々と白髪になる人たちのためにも。彼らの事業がなければ、この連中は皆、飢えて、住む家もないだろう。

私は言葉が過ぎただろうか?そうかもしれない。しかし世間全体が貧民化した今、私は成功者に同情の言葉を述べたい。この人たちは、勝ち目の乏しい闘いに挑んで、人々の努力を促し、勝利を収めながら、何も得るところがないのである。住むところと、着るものしかない。私は弁当持ちで出社し、日々の給料分の仕事をしてきた。同時に、人も雇っているので、両方について言えることがある。貧困そのものには、何の利点もない。襤褸は褒めるべきものではない。そしてすべての貧しい人たちが高潔とは限らぬように、すべての雇い主が強欲で高圧的であるとは限らない。

私が心を惹かれるのは、「上司」がいるときにはもちろん、いないときにも勤めを果たす人である。そして、 ガルシアへの手紙を渡されたら、黙ってその信書を受け取り、愚かな質問をせず、すぐさま下水に捨てたり、そのほか、届けないで処分したりする気を起こさない人は、決して「一時解雇」を受けないし、賃金の値上げを求めてストをする必要もない。文明はそのような人々を捜し求める長い課程である。

そのような人の願いは何でも聞き入れられるだろう。そのような人はどこの都市でも、町でも、村でも、必要とされるだろう。どこの事務所でも、店でも、工場でも。世界中がそのような人々を呼び求めている。「ガルシアへの書簡を届けられる」人物は、非常に必要とされているのである。



――― エルバート・ハバード 『ガルシアへの書簡』
2006年5月7日に書いた文章。

浅い文章ではあるけど、当時の想いが詰まっているとおもう。






「3A1P」



将来のビジョンを考えるとき、3つのaim:目標と1つのpurpose:目的があらわれる。



action:行動;いま何をすべきか?



work:仕事;何になりたいか?



will do:活動;何がしたいのか?



purpose:目的;想いとは?



これを3A1Pとする。
微妙なニュアンスが伝わりづらいかもしれないが、この矢印は順番でも時間的な流れでもない。
1つの理由としてpurposeは3Aを包括する要素でもある。

前置きはこれくらいにして、話を進めよう。



workが明確な人たちがいる。
将来なりたい仕事が決まっていれば、一般的にまわりからやりたいことがあって夢に向かっているとおもわれるかもしれない。

しかし本当にそうだろうか?

actionがない学生が意外と多い。
そればかりかwill doがないなんてこともある。


具体的な例を出して考えてみよう。

先生になりたい人。
workは明確に決まっている。
しかしactionが伴わない。
教職免許を取るための勉強だけに力を入れる。

果たしてそれはactionだろうか。

もっとできることはあるはずだ。
障害を持つ児童と触れ合うため学校に研修に行く人たちもいる。
海外に目を向けて学習の向上に取り組む人たちもいる。


彼ら、彼女らがwill doを考えると、actionが見えてくる。
子供たちに世界の情勢を公民でわかりやすく教えたいなど。

それならいま何をすべきか?

そんな問いかけに自ずとactionが生まれるはずだ。

そして、もっとも大切なことは想いである。
子供たちを笑顔にしたいというpurposeがあるのなら、自分の進むべき延長線上に永遠に輝く星となる。

つまりworkが明確なだけではダメということ。
why?という問いかけで、action, will do, purposeを考えてみてほしい。



purposeが明確な人がいるとしよう。
例えば、絵を描くのが好きな人。
workはすぐに思いつくはずだ。
イラストレイターとか。
will doはもちろん絵を描くことになる。
あとはactionだけ。

このactionは次に触れる話でもあるので、ここでは省略しよう。



もっとも学生で多いのは、目的意識もなく目標もない人たちだとおもう。いや、あるのかもしれない。
しかし、目的と目標について考えることをしない。
それはそれで何も言うことはない。
ただ何かしたい、でも何をしたらいいのかわからないって人たちは多い。

そして新しい世界に踏み出すのを不安におもう。
将来に対しても。

そりゃあ暗闇にいたら不安だ。
いま立っている場所に明かりはないのだから。
だからこそ外に出て光あるところから見てほしい。

新しい何かを発見できるから。

work, will do, purposeがなくてもactionは起こせる。
そしてそこから学ぶこと、見えてくるものは必ずある。



すべての基本はactionだということ。



こんなおれもactionを起こしている。

わずかな1歩だけど、大きな1歩だった。
私は大学に入学してすぐに某ボランティア団体に入ることを決めました。文化団体には入ることはないな、と思っていた自分が、ましてやボランティアをするなんて、昔の私には想像もできないことでしょう。しかしながら、所属していたという事実にはそれなりの理由があったと思います。



この団体は、カンボジアの子供たちの識字能力を向上を目的としています。その活動の中には、実際に現地に赴いての視察や交流をするスタディーツアーというものがあります。私は、ヨーロッパの国々は幼少時代にほとんど訪問する機会があってので、東南アジアには興味がありました。カンボジアへの漠然とした興味が一つの理由であることは、間違いありませんが、あくまで興味であったと思います。



大学に入学する際に、父に言われた言葉があります。「大学には色んな人がいる。変わった人から、今まで触れたことのない思想を持った人まで。」うろ覚えですが、このような言葉を言われたはずです。その今まで触れたことのない環境で自分は何を得るのか?何をするのか?当時の自分は考えていたはずです。ここでは、その頃考えていたことは記しませんが、私には運動部に入る選択肢は消えていました。「生きることはスポーツだ」、と思っていた自分がした決断がいかに重かったのか、今では懐かしく、それでいて鮮明に覚えています。その中で選んだ基準は、成長できる環境に入ること、だったかもしれません。ボランティアをする人は、きっと偉い人たちなんだろう、という考えが少なからずありました。今までの自分が生きてきた中でボランティアなんてしようとも思わなかったし、かったるいとさえ思っていたはずです。だからこそ、ボランティアをしている人たちの考えや想いを知りたい、と考えたんです。当時は、FP1級と簿記1級、TOEICなどの勉強をしながら、活動しようと思っていました。銀行や証券会社にインターンシップをしようとも、考えていました。当時の成長への地図はこんな浅過ぎる想いと単純なものでした。



団体の所属のきっかけは、カンボジアへの興味とボランティアをしている人の考えを知ること。それ以外にも、懺悔の気持ちであったかもしれません。腐った自分自身に対する償い。偽善かもしれませんが、たとえ偽善であっても、その行為は善であると、問題などないと考えていました。



私が、某ボランティア団体に所属したきっかけはこんなところでしょう。しかし、結果は3ヶ月で辞めることになりました。大学に入学して私の成長への地図は大きく書き換えられて、団体で活動することが難しくなったのです。

自分がフルコミットできる募金活動は、本気でやりました。しかしそれ以外は、何もできません。そういった中途半端さは、ありえなかったし、自分にはフルコミットしたいことができてしまったんです。この団体で活動していたときの、自分は今と比べればありえないほど未熟ではありました。しかし、熱い想いは今より強かったかもしれません。空回りもしていたし、無駄に熱かった。でも、そういう熱い自分は好きだし、笑ってしまいますが、当時の自分に優しく声をかけてあげたい気分です。



某ボランティア団体の皆さんには、凄く迷惑をかけたなと反省しています。あの時は、不安定でもあり、大人の対応というものができていなかった。ただ、考え方は間違っていなかった、と今は自信を持って言えます。自分の考え方は正しいのか、そしてその信念を貫き行動してみたところで、自分には団体を変えるという力があるのか、正直わかりませんでした。わからないのに、「おれはこの団体を当然、変えれるだろう。ありがとう。」という根拠の無い自信は持っていました。今考えると無理だったかもしれません。 当時は、ありえない行動力がありました。入学式の場で学長に会うために強行突破して、「学校を変える」と言い、握手をしたこと。ただ、行動力があっただけでした。そんなしょぼい自分にさえ見えていた某ボランティア団体の本質。そんなしょぼい自分が某ボランティア団体の本質の原因に対するアプローチの限界。しょぼい自分故に、当時見えていなかった某ボランティア団体の本質。今なら可能なアプローチ。今の自分が見えていない、明日見えるかもしれないアプローチ。現在、所属していない自分が考えてもどうしようもないことだと、今はあまり考えていません。ただ、自分が変わったことに間違いはないです。



某ボランティア団体に所属していた3ヶ月間を整理するために、所属した理由を書いてみました。
よしなに駄文をつれつれと。その1
(2005年02月11日)
原文URL:http://blog.livedoor.jp/murai1211/archives/14069953.html#comments



 僕たちが生きているこの時代においては「夢」などという言葉は、とてもじゃないけど恥ずかしい言葉だと思わなくてはいけない。そういう言葉を人の面前で堂々と言えるのは特権的な階級にある人だけだ。

そう、例えば・・・

・映画の中で悪をビシバシやっつけるヒーロー。
・テレビの中で可憐に舞い歌声を響かせる歌姫。
・かつて生きていた故人、偉大な文章を後世に残し、多くの人々に生きる勇気を与え続けている作家。
・巨万の富を築くべく、成功の過程にあるビジネスマン。もしくはその過程を終えた引退を待つ人々。

とか。

 よしなにまったりと語られる「夢」は全部が全部まやかしだ。

 今の時代、安易に「夢」などという言葉を語ろうなら、それは勢いに任せて飲みつぶれ悪酔いしたときの頭痛、スパイスも何もかかっていないくそみたいなジョーク、子供が起きたときの「ママぁ、ぼくお空を飛ぶ夢見たよ。」、ぐらいか。チェッ。



――― GT-Agency 村井智建 社長
ちんたらインプットする人間のアウトプットはちんたらしているって話だ。
(2005年05月01日)
原文URL:http://blog.livedoor.jp/murai1211/archives/20572879.html#comments



私にとって休暇と言うのはカラッポな日々のことをさしている。

一般的に他の人にとって休暇と言うのはどういう位置づけなのだろうか?
別に私にとってどうでもいいことだが。

何らかのアウトプットを目標として活動しているとき、私は強烈なインプットを同時に行っている。

アウトプットに集中しているときほどインプットに集中している。

限られた少ない貴重な時間の中で、
よく読書する。
よく調べ物をする。
よく人の話を聞く。

それらの過程で私は自分自身の密度がどんどん濃くなっていくのを感じる。

そして吐き出す。
私のインとアウトの切り替えを私と一緒に仕事をする他人は気が付かないだろう。

インプットとアウトプットが同時に達成できないとき、私はその仕事をルーティンと位置づける。

ルーティンが悪いか、つまらないか、と問われれば全くそうではない。
アウトプットだけを提供し続ける、と言うことは非常に大切なことだと思う。
それがたとえルーティンであったとしても。

それができるとできないとでは大きな隔たりがある。

アウトプットを提供し続けることができる人にこそインプットのチャンスはやってきて、そのインプットを我が物にし、同時にアウトプットに変換できる人にはどんどんより大きなチャンスが訪れる。

事実、過去の私がそうだった。現在も。

そういう事実に気が付いていない人が多すぎるため、私はニコニコしながら血反吐を吐いてわき道を颯爽と駆け巡る。

その事実を知らなくても貴方には幸せな人生は訪れるのだよ。


目標のあるアウトプットへ向かうときにこそ、自分の脳細胞の一つ一つが強く太く線を結び、次なる発想や次なるアクションへと導いてくれると言う事実。

そして、経験やノウハウと呼ばれるものは、その脳細胞が強くつながるという過去の構築を自分自身で実行できているかどうかと言う点が問われている。


くどいようだけど、別に気が付かなくてもいいことなのだよ。マジで。


そして休暇。

私にとっての休暇はカラッポの休暇。
何もないという事実こそがふさわしい。

インもアウトもない。
ルーティンすらも存在しないカラッポの瞬間。


休暇こそ読書をしたいとか、溜め込んだ日々の営みをしなきゃ、って言う人多いけど、私はそれが全くできない人で。

休暇という大切な瞬間にちんたらインプットしても脳細胞がより太くなるという実感を得れないわけで(そんなものは混沌としたカオスの瞬間にぶち込めって話で)。

私は詰め込むときにはとことん詰め込み、詰めまないと決めた時は全く詰め込まないとシンプルなことをしているだけで。


要するに私はここ2~3日、もう何日休みなのかカレンダーを見ないと分からないという悲しい現実(もしかしたら休みは1日しか訪れていないのかもしれない!?)に永遠と布団で眠っていたと言うわけです。

その睡眠を妨げるものがあるとしたら逮捕する。

自由が丘に訪れる穏やかなひとときを邪魔するな。



――― GT-Agency 村井智建 社長
これが正しいとは言い切れない
(2006年02月13日)
原文URL:http://blog.livedoor.jp/murai1211/archives/50198477.html#comments



そういうシチュエーションに自分たちは立っていて、
「正しさ」も時と場合によって常に変化している。

そんな中、自分たちを信じて一番いいと思える手段を何とか判断し、
決断しやっていくしかない、ということを認識したほうがいい。

自分たちにあるのは常に判断と決断だけであって、
その判断のために勉強もすれば、遠回りをすることも当然あるだろう。

そのギリギリの判断と決断を下すのがまずは一つ目の大きな仕事であり、
その決断を信じ込んでやりきるのが二つ目の大きな仕事だろう。

二つ目の仕事が、
一つ目の仕事を信じきれないがゆえに成し遂げられないとしたら、
それは関係する人たちに多くの迷惑をかけると思っているよ。

やりきることが重要だっていうのはみんな言っていることじゃない。



だが、それが難しい。がんばれ。



――― GT-Agency 村井智建 社長
当たり前感覚
(2006年03月02日)
原文URL:http://blog.livedoor.jp/murai1211/archives/50210100.html#comments



そもそも論、
自分がやっていること、やってきたこと、とかに関して、
あれは大変だった、とか、環境がどうこうでそんな中でもオレはやったぜ、とか
言う人がいますが、何かを成し遂げた人、何かを成し遂げる過程の人は、
そんなこと言っている暇なんかあるわけがなく、
もっと大切なことに集中しているわけで、
集中しているが故に、そういう発想すら思いつかないわけで、
何にも苦労しているって言う認識もないし、
純粋に楽しんでいるだけ。

周りの人が「大変そうですね」とかって言ったときに感じる違和感とか、
そういう人のためのものだよ。

そこで「大変なんですよ~」とかって言っちゃう人は、
たぶん、なすべき本当のことを理解している人の回答じゃないし。

ここの一線には、説明できない何かがあると思った方がよくて、
その何かは理解しようがないんだけれど、
感覚で覚えていくしかないって言うかわいそうなことで、
そういう内容は、人は誰しも後天的に身に着けていくものだと思うけど、
悲しいかな、世界の経験値の総合値が限られていて、
それを自分がつかめるかどうかってその人次第なんですよね、
ってことを朝っぱらからなんだかプンスカしながら思った次第。

朝マック食いながら。
フィレオフィッシュセット。

珍しくドリンクをアイスコーヒーにしたんだけど、
ミルクを机の上にこぼした。

ちょっと卑猥な夜明けのコーヒーだった。



――― GT-Agency 村井智建 社長
オモロイ!故に超危険。