木村政雄儀様の訃報に際し・・・
平成22年5月24日午後5時30分、腎不全からくる誤嚥性肺炎によりラッシャー木村さんが永眠されたとのことです。
享年68歳でした。
ラッシャー木村(以下敬称略)は自分達昭和のプロレスファンにとって非常に印象に残るプロレスラーであった。
最後のエースを務めた国際プロレス時代、凄まじいまでのヒールとして活躍した新日本プロレス時代、ジャイアント馬場や永源遥とのほのぼぼとしたマイクパフォーマンスで人気を博した全日本プロレス時代・・・
何れの時代もどこか泥臭くて、恰好悪い存在であったが、これぞプロレスラーといった佇まいを常に纏う存在でもあった。
中でもプロレス即ち猪木であった時分にとっては新日本時代のラッシャーこそが特に思い出深い。
アンドレとハンセンが超弩級の闘いを繰り広げた後の興奮でざわついた田園コロシアムのリングに上がり、「こんばんは」と場違いな挨拶で会場の失笑を買ったラッシャー・・・
アニマル浜口、寺西勇との3人で“はぐれ国際軍団”としてタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンが離脱した後の新日本プロレスのリングに於いて絶対的なヒールとなる。
猪木が木村達に強いた路線は徹底的なまでの格下扱いであった。
ラッシャーはその役割を見事なまでに演じきる。
猪木との髪切りマッチで負けるが、逆に猪木の髪を切ってしまい逃走・・・
遂には、猪木独りで3人を相手にするという屈辱的なまでのハンディーキャップマッチを突きつけらる。
ここでも、2人を倒すもスタミナの切れた猪木に対し、ラッシャーが勝利を収めるのだが、勝って当たり前の勝負を無邪気に喜ぶ姿を観て、ファンの憎悪を一身に集めることになる。
潰れた団体の選手を受け入れると共に、ここまで見事に主役として担ぎ上げる猪木の手腕は見事という他なかったが、やはり木村の人間としての度量の大きさがそれを成功させていた側面も大きかった筈だ。
自分達の余りに情けない役割に納得しきれない浜口や寺西に対し、ラッシャーはこう言って諭す。
「自分たちがプロレスを続けられるのは誰のお陰だ?」
「猪木社長が俺達を使ってくれるから俺達はメシを食えるんじゃないのか・・・」
憎まれ役といってもあの時代のラッシャー率いるはぐれ国際軍団程の嫌悪の対象は空前絶後だった・・・
心無い新日本プロレスファンの一部は、木村の自宅に連日生卵を投げつけ、飼い犬までもがそのストレスから円形脱毛症になったという。
木村はそれでも泣き言一つ言わなかった。
しかし、そんな猪木とラッシャー木村との抗争もシングルマッチで猪木が4連勝し、その意味を失いつつある・・・
更に盟友アニマル浜口も長州力と合流し、維新軍の参謀となり、はぐれ国際軍団もその役割を終えた頃、猪木は若手等の不甲斐なさを前に木村のことを語る・・・
「家に生卵をぶつけられても泣き言一つ言わない、ラッシャーの根性を少しは見習ったらどうだ・・・」
木村はこのこの言葉を伝え聞くと、「ヒールが同情されたら終わりだな」とつぶやいたという。
そして、新間寿の勧めもあって前田のお目付け役としてUWFに移籍。
しかし、藤原喜明や高田延彦が合流し路線が変わると、ここでも居場所を失うが、ラッシャーは決して古巣となった新日本へ戻ろうとはしなかった。
そんな頃、ジャイアント馬場が「うち(全日本プロレス)へ来ないか」と誘う。
このことが木村が馬場のことを“兄貴”と呼ぶことになる最大の理由であった。
以降の姿はとても幸せそうに見えたが、真のプロフェッショナルであったラッシャーは新日本プロレスの時代も決して悔いてはいないであろうと信じている。
ヒールの誉として輝く自分の姿を感じていた筈だと信じたい・・・
馬場が逝き、井上義啓(週刊ファイトI編集長)が逝き、そして昨日ラッシャー木村が逝った。
昭和のプロレスは遥かとなってしまった。
ご冥福を心からお祈り致します。
享年68歳でした。
ラッシャー木村(以下敬称略)は自分達昭和のプロレスファンにとって非常に印象に残るプロレスラーであった。
![セクスィ~部長の挽歌♪-ラッシャー木村](https://stat.ameba.jp/user_images/20100525/05/sexy-anton/f9/b3/j/o0420056110557748036.jpg?caw=800)
最後のエースを務めた国際プロレス時代、凄まじいまでのヒールとして活躍した新日本プロレス時代、ジャイアント馬場や永源遥とのほのぼぼとしたマイクパフォーマンスで人気を博した全日本プロレス時代・・・
何れの時代もどこか泥臭くて、恰好悪い存在であったが、これぞプロレスラーといった佇まいを常に纏う存在でもあった。
中でもプロレス即ち猪木であった時分にとっては新日本時代のラッシャーこそが特に思い出深い。
アンドレとハンセンが超弩級の闘いを繰り広げた後の興奮でざわついた田園コロシアムのリングに上がり、「こんばんは」と場違いな挨拶で会場の失笑を買ったラッシャー・・・
![セクスィ~部長の挽歌♪-ラッシャー木村](https://stat.ameba.jp/user_images/20100525/05/sexy-anton/95/8e/j/o0291041910557748037.jpg?caw=800)
アニマル浜口、寺西勇との3人で“はぐれ国際軍団”としてタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンが離脱した後の新日本プロレスのリングに於いて絶対的なヒールとなる。
猪木が木村達に強いた路線は徹底的なまでの格下扱いであった。
ラッシャーはその役割を見事なまでに演じきる。
猪木との髪切りマッチで負けるが、逆に猪木の髪を切ってしまい逃走・・・
遂には、猪木独りで3人を相手にするという屈辱的なまでのハンディーキャップマッチを突きつけらる。
ここでも、2人を倒すもスタミナの切れた猪木に対し、ラッシャーが勝利を収めるのだが、勝って当たり前の勝負を無邪気に喜ぶ姿を観て、ファンの憎悪を一身に集めることになる。
潰れた団体の選手を受け入れると共に、ここまで見事に主役として担ぎ上げる猪木の手腕は見事という他なかったが、やはり木村の人間としての度量の大きさがそれを成功させていた側面も大きかった筈だ。
自分達の余りに情けない役割に納得しきれない浜口や寺西に対し、ラッシャーはこう言って諭す。
「自分たちがプロレスを続けられるのは誰のお陰だ?」
「猪木社長が俺達を使ってくれるから俺達はメシを食えるんじゃないのか・・・」
憎まれ役といってもあの時代のラッシャー率いるはぐれ国際軍団程の嫌悪の対象は空前絶後だった・・・
心無い新日本プロレスファンの一部は、木村の自宅に連日生卵を投げつけ、飼い犬までもがそのストレスから円形脱毛症になったという。
木村はそれでも泣き言一つ言わなかった。
しかし、そんな猪木とラッシャー木村との抗争もシングルマッチで猪木が4連勝し、その意味を失いつつある・・・
更に盟友アニマル浜口も長州力と合流し、維新軍の参謀となり、はぐれ国際軍団もその役割を終えた頃、猪木は若手等の不甲斐なさを前に木村のことを語る・・・
「家に生卵をぶつけられても泣き言一つ言わない、ラッシャーの根性を少しは見習ったらどうだ・・・」
木村はこのこの言葉を伝え聞くと、「ヒールが同情されたら終わりだな」とつぶやいたという。
そして、新間寿の勧めもあって前田のお目付け役としてUWFに移籍。
しかし、藤原喜明や高田延彦が合流し路線が変わると、ここでも居場所を失うが、ラッシャーは決して古巣となった新日本へ戻ろうとはしなかった。
そんな頃、ジャイアント馬場が「うち(全日本プロレス)へ来ないか」と誘う。
このことが木村が馬場のことを“兄貴”と呼ぶことになる最大の理由であった。
![セクスィ~部長の挽歌♪-ラッシャー木村](https://stat.ameba.jp/user_images/20100525/05/sexy-anton/c7/ee/j/o0450030010557748035.jpg?caw=800)
以降の姿はとても幸せそうに見えたが、真のプロフェッショナルであったラッシャーは新日本プロレスの時代も決して悔いてはいないであろうと信じている。
ヒールの誉として輝く自分の姿を感じていた筈だと信じたい・・・
馬場が逝き、井上義啓(週刊ファイトI編集長)が逝き、そして昨日ラッシャー木村が逝った。
昭和のプロレスは遥かとなってしまった。
ご冥福を心からお祈り致します。