Seventh Blue Heaven
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2

 若王子が、いつもより遅くなってしまった仕事を終えて、猫の餌と自分の食料を買い込み、アパートの近くまで辿り着いたのは午後八時を少し過ぎた頃だった。

 辺りはすっかり暗くなっていて、吐く息だけが月明かりに白く浮かび上がる。

 あの角を曲がればアパートが見える、という所まで来て、コートのポケットを探り家の鍵を取り出す。こんな寒空の下、一秒たりとも長く外に居たくない、と、早足で角を曲がった若王子の足は、しかし突然止まってしまった。


「桐生さん?」


 呼び掛けたのは、アパートの扉の前によく見知ったシルエットがあったから。

 外灯の加減で顔は見えずとも、若王子にはそれが桐生一葉以外であるはずがない、という確信があった。それ程までに、その少女を見つめて来たのだ、少なくとも二年以上は。


「!」


 若王子の呼び掛けに、海里ははっとしたように、扉にもたれるようにして俯いていた顔を上げた。


「どうしたんですか!? こんな時間にこんな所で!? 」


 駆け寄って海里の顔を覗き込むと、どれ位の時間ここでこうしていたのだろうか、もともと白磁のような肌は一切の血の気が失せて、青ざめて見えた。


(? 彼女は今日は登校していなかったはず)


 若王子が不審に思ったのは、実際に問い質した何故ここにいるのか、ということよりも、海里が制服を着て立っていたことだった。

 二月に入って、三年生は自主登校になっていた。

 海里は確か一度も登校して来なかったはずだ。また、その必要もなかった。それを少し淋しく感じている自分を若王子は自覚していた。


「先生に、会いに来たんです」


 か細い声で、しかし真っ直ぐに若王子の瞳を捉え、海里ははっきりそう告げた。


「質問、ですか?」


 それ以外の理由が思い浮かばずに、思ったままを口にする。


「…………」


 海里はそれには答えず、ただ若王子を見つめたままだ。

 先に視線を反らせたのは若王子の方だった。


「とにかく、中に入って下さい。このままでは風邪をひいてしまう」

 

 扉を開け、海里を中に招き入れる。

 主の帰宅を知って、白い猫が短く鳴きながら寄って来たが、海里を見るとふいとそっぽを向いて奥へ行ってしまった。


「や、お客さんに慣れていないもので……。さあ、どうぞ」

「お邪魔します」

「今コーヒーを入れますから、座って待っていて下さい。あ、その前にストーブ入れますね。寒かったでしょう?」


 電気ストーブのスイッチを入れ、海里をその前に座らせると、若王子はコーヒーを入れるために台所に立った。そのまま海里に背を向け、今日の訪問の目的を改めて問う。


「本当に、今日はどうしたんですか? 質問ならば学校でいつでも受け付けますよ。何しろ先生は、三年生のみなさんと違って、自主登校じゃないですからね」


 そうだとどんなにかいいんですけどねぇ、と続けながら、ついに学校に持って行くことを諦めてしまったサイフォンのアルコールランプに火を付けた。


「少し待っていて下さいね。学校で入れているのよりは、おいしいコーヒーをご馳走出来ると思いますよ」


 一つしかないマグカップを海里に、これまた一つしかないお碗を自分に用意しながら、若王子は家に入ってから一言も発していない海里の方に振り返った。


「!! な……っ! 」

 

 カツンと硬い音を立てて、手にしていたお碗が冷たい台所の床に転がる。


「一体、何を…… 」


 落としたお碗には見向きもせず、若王子は台所に続く和室で信じられないものを目にした。


 ──そこには、制服をぬいで下着姿になった海里が立っていた。

                    

                       ※


「一体、何を…… 」


 若王子があまりのことに身動きすらできずにいる様子を、海里はひどく冷静な面持ちで見つめていた。

 

 驚くのも当然のことだ。

 突然押しかけて来た一生徒が、何の前触れもなく部屋で制服を脱いだのだ。

 

 今日登校していない海里がわざわざ制服を着て若王子の元を訪れたのは、海里が若王子の教え子であるということをより際立たせるため。

 今日の出来事を、若王子により鮮烈な印象をもって刻み付けるため。


 一歩だけ前に進み、海里は、制服を身に纏っていないことよりもさらに若王子を驚かせるであろう一言を放った。


「若王子先生、わたしを抱いて下さい」


「!! 」


 若王子の顔が、苦しそうに歪められる。 

 

 海里はそれ以上の言葉を発せず、瞬きもせずに若王子の瞳を見つめた。

 時間にして、多分ほんの十数秒。しかし二人にとっては息をするのも躊躇われる程の沈黙を、先に破ったのは若王子の溜め息だった。


「……はぁっ……」


 軽く被りを振ると、まだ着ていたコートを脱ぎながら海里の傍まで来て、下着姿の海里の肩にそれを掛ける。


「馬鹿なことはやめて、早く服を着て下さい。先生はあっちを向いてますから。……それと、今のは聞かなかったことにしておきます」


 それだけ言うと、若王子はくるりと背を向けた。


(軽蔑……、いや、失望……、かな)


 背を向けてしまい見えない若王子の表情を想像しながら、海里は素直に足元の制服に手を伸ばした。


 この制服を着ていた三年足らず、自分がいい『生徒』であったであろうことを、海里は自覚していた。それは学校から見ても、おそらく担任である若王子から見ても。

 成績は入学からトップに立ち続け、運動だって体育祭で活躍出来る程。

 欠席以外の遅刻や早退もなく、生活指導のチェックを受けたこともない。

 容姿にも恵まれ人当たりも良い。いい友人も多い。その友人達のお陰で、学校行事等では常に中心にあった。


(これじゃあほんとにアンドロイドみたいだな)


 いつか言われた陰口を思い出し、海里は声を出さずに苦笑した。


(そう、でもだからこそ……)


 今日の自分の言動は、いつもの優等生桜井海里からは想像も出来ないだろう言動は、若王子の心に、マイナスのものとしてでも、記憶に残る程の印象を焼き付けることが出来ただろうか?


(そうであればいい)


 ケープのリボンを結び終わり、海里は若王子に声を掛けた。


「服を着ました。もう、大丈夫です」

「……はい」


 若王子は振り向き、ホッとしたように返事をした。


「これ、ありがとうございます」


 肩に掛けてもらった、まだ温もりの残るコートを若王子に返す。


「馬鹿なことをしました。すみませんでした。忘れて下さい」

(──忘れないで。少しでも長く覚えていて欲しい)


 海里は、本当の思いが零れてしまわないように、顔が見えない程深々と頭を下げた。


「あ、いや、その……。頭を上げて下さい、桜井さん」


 若王子はあたふたと手を上下させて、海里の肩に触れていいものか迷っているようだった。


「じゃあ、帰りますね。お邪魔しました」


 顔を上げると、微笑みながらそれだけ言って、海里は若王子の脇をすり抜けた。


「あ、待って下さい! こんな時間に一人で帰せませんよ。送って行きま……」

「いいんです! 一人で帰れますから!」


 若王子が言い終わるより先に、海里は玄関のドアノブに手を掛けた。


                      ※


「待って……!」


 若王子が思わず掴んだドアノブに掛けられた一葉の手は、ゾクリとするほど冷たく……。


(震えてる?)


 一葉の指先が伝えてくる、見た目にはそれと分からない程の微かな振動。

 それは寒さのせいなのか、それとも……。


「……っ!」


 一葉はとっさに掴まれた手を振り解こうとしたが、若王子がそれを許さなかった。


「一体、君は何時間僕を待っていたんですか?」


 明かりの下でよく見ると、もともと白い肌は、一切の血の気を失って青ざめて見えた。ほんのり残る唇の朱が、肌の色を際立たせて、より痛々しい。


「……忘れました」


 覗き込んだ若王子の瞳から逃げるように、一葉は曖昧に微笑んで視線を外した。


「嘘つきですね」


 一葉の手を掴んだままの手とは反対の手で一葉の頬に触れ、一葉の視線を自分のそれと重ねる。


「こんなに冷たくなって」


 そのままそっと抱き寄せて、若王子は一葉の漆黒の髪を指で梳いた。

 一瞬身を硬くした一葉は、しかし若王子から離れることはしなかった。


「あの日、願ったのにね。君の手が、かじかんだりしませんように。君の頬っぺの上に幸せが訪れますように、って。なのに今、君がこんなに冷たく震えているのは、僕のせい、だね……」


 若王子の腕の中で、一葉が小さくかぶりを振る。


「だからせめて、君の震えが止まるまで、温まるまで、このままで」

「……先生はずるいですね」

「……大人だからね」


 身体の横にだらりと伸びていた腕を、若王子の背中に回そうとして、一葉は寸前で動きを止め腕を戻した。

 若王子がちらりと見た一葉の両手は、きつくこぶしが握られていた。

 静まりかけていた一葉の震えが、また少し大きくなったようだった。


「あのまま、扉を開けて、帰らせてくれていればよかったのに」


 小さく呟いた一葉の言葉に、若王子は抱きしめる腕に少し力を込めた。


「そんなこと、出来る訳がない」

「……受験前の生徒が風邪を引いたら困りますね」

「本当に、そう思ってる?」


 抱きしめていた腕を解き、一葉の肩の上に置いて瞳を見つめる。


「……すみません」

「いや、君が謝ることじゃない。……だって、今、僕は教師の顔をしていないし、君も生徒の顔をしていない」


(そんなこと、本当は、もうずっと前から気付いていた。多分、それは君も同じ)


 肩の上に手を置いたまま、若王子はそっと一葉に唇を重ねた。

 冷やりとした感触は、ずっと前に偶然触れ合ってしまった時とは正反対の感触だった。


「さっき言った、『聞かなかったことにしておきます』って言う言葉、取り消させてください」

「え?」

「君を抱きたい」

「!」

 

 驚いたような一葉に再び口付けて、若王子は一葉をきつく抱きしめた。


「……このまま帰すなんて出来ない」

「……はい」


 今度こそ、一葉の腕も若王子の背中に回された。

 




 しばらく何も言わず抱き合って、完全に一葉の震えが止まってから、若王子は一葉を抱きかかえ、一番奥の部屋にあるベッドまで連れて行った。


「自分で歩けますから」

「じっとしててください。落としちゃいますよ」


 ベッドに一葉を横たわらせて、




 


  




 










 




「……っ!!」


 一葉が最初に感じたのは、熱、だった。次に、今まで経験したどんなものとも違う、身体の内側から感じる、痛み。

 思わず声を上げてしまったつもりだったが、それは音になる前に喉の奥で途切れたようだった。


 さっきまでとは違う冷たい汗を背中に感じる。

 息をするのさえ苦痛を伴った。


「辛いなら、やめるよ?」


 若王子はそんな様子の一葉を見て、気遣わしげに一葉の頭を撫でた。

 その腕を取って、一葉は、苦しそうに、でもはっきりと若王子に伝える。


「……大丈夫、ですか、ら、このまま……」

「でも……」

「お願い、します……っ」


 苦痛に歪んだ一葉の唇に、若王子から今日何度目か分からないキスが降りてきた。

 浅い息をする一葉の薄く開かれた唇を割って、若王子の舌が入り込む。


「んっ、……っ、はぁ」

「さっきまでも、ずっと声を殺して我慢してたね? 唇を噛み過ぎて、少し血の味がする」

「あ、ごめんな、さい……」

「謝らないで。我慢しなくていいから。どうしてもっていうなら、僕の指でも噛んでて」


 そう言うと、若王子は一葉の口の中に左手の中指と人差し指を差し込んだ。

 それから右手で、先程までで十分に敏感になった胸の先端を撫でる。


「あっ、あぁ!」


 若王子の指を噛む訳にもいかず、一葉は我慢出来ずに声を上げた。

 

「うん。それでいい」


 一葉の耳元で囁いて、その耳朶を舌でなぞる。


「ふぅ……っ、ん、あっ」


 一葉の反応を見ながら、若王子はまた少し一葉の中へ進んだ。


「んっ! あ!」


 更なる痛みに襲われて、一葉の瞳に感情を伴わない涙が浮かぶ。

 その涙を掬い取るように、若王子が一葉の眦に口付ける。


「痛くしてごめんね」

「そんな、こと……っ、ん!」


(これで、いい。きっと、痛みの方が、ずっと長く記憶しておける)


 若王子に、少しでも長く自分のことを覚えていて欲しいと思う以上に、一葉は自ら


 

 


 

 










 

 




 












はばたき市のモデルは神奈川県の葉山あたり

 ・クリスはイギリス・スコットランド系

  両親はアメリカ在住、年の離れた妹が一人

 ・氷上君の両親の職業は銀行関係、いまだにラブラブ

  格君はお母さんにタルちゃんと呼ばれている

 ・天地クンには、お姉さんは3人

 ・志波くんの苦手な食べ物はマシュマロ(食感が苦手)

 ・瑛の実家は西の方で、飛行機に乗るくらい距離がある

  お父さんの仕事のイメージは代議士




桜を悼む風景

海に還る雨

触れ合う体温

重なる体温

独りずつの二人


桜に攫われる

痛みを希(こいねが)う心

愛に一番近い朝




114kara 

33.37なし69 70mada




1. 温度差のあるキス

03. 淡い絆が消えゆく前に

04. 先延ばしにしてきた報い

05. 「届かなくてもいい」なんて嘘

06. 痛みという名の思い出だらけ

09. 揺らいでいく明日

13. 最後に笑い合った日を想う

15. 痛む場所にキスを

17. 痛みを伴う予感

18. その言葉が唯一の繋がり

戻り道なき恋心

02. 終焉へのカウントダウン

03. つかの間のたわむれ

04. 時が止まる錯覚

05. 月明かりが消えるまで

06. こぼれ落ちてゆく時間

07. もう何度目かの決断を

09. まるであの日のまま

01. かすめた指先

02. ライン( Line )

06. 手を繋ぐかわりに

07. こんなに近くても

10. 空間の温もり

16. この場に留まる口実

18. 息苦しくて声も出ない


21. その言葉が唯一の繋がり

22. こんな時ですら浮かぶ顔

24. 簡単なその言葉でさえ

25. 何も言えずに手を取った

27. 面影を追って瞳を閉じた

01. 例えば君がいなくなったら

03. 平気じゃないのはたぶん僕

04. 想う数だけ聞こえる音色

01. 終わりの欠片が降ってくる

02. 指先からすり抜けるように

03. 足踏みばかりの猶予期間

04. 饒舌な沈黙

05. 愛しく無意味な会話を繋ごう

06. 砂時計は止まらない

07. 千の言葉を重ねるよりも

08. 笑顔を永久に焼きつけて

09. 離れゆく君に贈る

10. そして夢の幕引きを


この感情の名を知る日

痛みを希う夜

愛に一番近い朝

想いを貫く代償

夢の続きを

それは別れの儀式のために

聖夜の嘘の誓い

明け行く空の星ひとつ

独りずつの二人

雨が隠す涙

桜に攫われる

嘲笑う桜

分かれ道の手前

今はまだ、分かれ道の少し手前

そこにある境界線

真実は見えなくていい

交われない明日

桜を悼む風景

波と凪の少年

終わりの足音が聞こえる

どれだけ言葉を重ねるよりも

幕を下ろす日

重なる体温

ほんの少しの嘘と真実

海の見える部屋に一人


一年

桜を悼む風景 入学式 4月4日

夕立と珈琲と少年 入学一週間ほど 珊瑚礁

これがきっと始まりの三秒 事故チュー 5月1日

            課外授業 映画 5月7日

金色の賢者? ニノキン事件 5月16日


二年




この感情の名を知る日 海野 嫉妬




三年

想いを貫く代償

今はまだ分かれ道の少し手前


聖夜の叶わぬ願い

痛みを希う夜

愛に一番近い朝




幕を下ろす日 


 






方法は、多分幾らでもあった。ほんの数年待って、正当に自らが権力を使って、今回と同じようなことをすることもきっとできた。もしくは、先生がいなくなったって、探すことも出来た。

でも、私は今、この、私が生まれた街で、初めての友人が出来て、心から笑い合って、初めて人を愛した街で、あなたに教師を続けて欲しかった。


先生、一つお願いがあるんです。

何ですか? 先生に出来ることだといいんですけど。

大丈夫です。簡単なことですから。卒業おめでとう、って、言ってもらえますか?

卒業式は明日ですよ?

分かってますよ。でも、生徒全員に向けたものじゃなくて、私一人だけに向けて言って欲しいんです。

桐生一葉さん、卒業おめでとうございます。

ありがとうございます。


水城、頼みたい事がある。明日の朝一番でここを発つ。手配してくれ。

東京のお部屋に、ですか?

いや、しばらく本家に戻るつもりだ。ここから、少しでも遠い所がいい。あと、この携帯を解約して、新しい物を用意してくれ。データの移行はしなくていい。

この携帯は処分してくれ。


止みそうにありませんね。

そうですね。諦めて、そろそろ帰ることにします。ごちそうさまでした。

あ、ちょっと待ってください。家は近いんですか?

歩いて、十五分位です。

そんなに歩いていたら、


実は、雨宿りさせてもらおうと思って、こちらにお邪魔したんです。


もう、泣かんといて。分かっとうつもりやから。


若王子先生。少し人に当てられてしまって。


すみません、一葉さま。生徒会の顧問になってしまいました。

父の出した条件の一つに、水城との学校での関係があった。

校内で二人で話していても、周りに不審がられない程度の距離感。


一葉が目覚めて最初に目にしたのは、古びた低い天井だった。

一度きつく目を閉じてすぐに開け、意識を現実に引き戻す。

気付きましたか?

至近距離で聞こえた若王子の声。頭を少しだけ右に向けると、優しく微笑む若王子と目が合った。

私、、、

気を失ってたんですよ。

今何時ですか?

十一時を回ったところです。

そんなに、、、。もう帰らないと。、、、っ。

右手をついて起き上がろうとした一葉は、下腹部に鈍い痛みを覚えて顔をしかめた。

まだそのままで。随分無理をさせてしまったようなので。

そっと肩を押し戻されて、一葉はまた横になった。

、、、すみません。

謝るのは僕の方だ。初めてだって分かってたのに、もう少し優しくしてあげるべきだった。

そんな、、、。先生は優しかったですよ。

少し眠った方がいい。明日の朝、送って行きますから。


あの方は、ここで過ごした三年間で、自分の欲しかった物を全て手に入れることが出来たと話しておられました。

欲しかった物?

はい。自分を対等に見てくれる友人。その友人達と過ごす何気ない時間。他愛ない会話。そして、人を好きになるという気持ち。

それだけ?



そんなん! あたしらみたいな高校生やったら当たり前のことやん! 気の合う友達と何でもないことで騒いで、好きになった人のちょっとしたことで泣いたり笑ったり、、、。そんな、ことが、、、欲しかった物の全部やなんて。

西本。

あたし、一葉のこと、羨ましいと思とった。誰もが振り返るくらいの美人で、頭も良くて、人望もあって。

やのに、その一葉が欲しかった物こそが、あたしらが普通に持っとったもんやったなんて。


あほ! 何でも独りで抱え込むのが偉いんちゃうんやで! 家の事情話せんのはしゃあないとしても、好きな人のことくらい話してくれてもええやんか! そしたら、あたし、あんなこと、あんたのこと傷つけるようなこと言わんかったのに、、、。ごめんな、一葉。

そうです! 桐生さんは水臭すぎます! わたしたちの相談はいつも真摯に聞いてくれて、たくさん協力もしてもらいました。わたしたちだって、桐生さんのために何かしたいって、思ってたんですよ!

小野田の言う通りだよ。あたしもあんたには色々世話になった。何も返せないうちに黙って居なくなるなんて許せないね。

ここにいるみんな、多かれ少なかれ一葉さんには良くしてもらったもの。みんな本当に感謝しているのよ? それにね。良くしてもらったとか関係なく、みんな一葉さんのことが大好きなのよ。

ごめん。

え?

本当に、ごめん。

あ、違う違う! 別に責めとるわけやなくて、、、。

うん。分かってる。ただ、嬉しくて。こんな風に言ってくれる友達がいて、本当に嬉しい。

一葉。

な、何なんだい、あんた達! そんな湿っぽい面晒すんじゃないよ!

あら、竜子だって、その目の雫はなあに?

これはっ!

桐生さん、もう泣かないで下さい。

あんたに泣かれたら、どうしたらええか分からんやん。

そう言う千代美とはるひだって。

そろそろ男性陣も思い出してくれませんか?

邪魔するんじゃないよ、若王子。

や、先生邪魔者扱いです。

ふふ、まあいいじゃない、竜子。若王子先生ならきっと一葉さんの涙を止めてくれるわよ。

どーんと任せて下さい! 期待にお応えしちゃいます!

桐生、あんたほんとにこいつでいいのかい?

コホン、一葉さん。

一葉さん

泣いてる君もとてもきれいだけど、やっぱり君には笑ってて欲しいです。だからもう泣き止んで下さい。



ちょ、、、!

何を!

わーっ!

わ、若王子先生! な、何を! こんな大勢の前でそ、その、キ、キスなんて!

落ち着け、氷上。お前が一番動揺してどうする。

珍しいものを見たな。

一葉が赤くなってびっくりしてるとこなんて、普通じゃぜってー見れないよな!

でもどんな一葉ちゃんもやっぱりカワイイなぁ~。


少し目立ち過ぎです、一葉さま。

どうせ何をやっても目立つんだ。なら、好きなように振る舞わせてもらう。

しかし、、、。

お父様に言われているんだろう? 程々にさせるように、と。

それは、、、。

この程度のこと、お父様はとっくにお見通しだろう。

それでも何か言われたら、この容姿に産んだ元は誰だ? と言ってやればいい。

それに、初めて出来た友人も守れないのなら、おとなしくしている意味なんてないだろう。


居眠りするくらいなら、寝たほうが効率いいですよ。

先生、静かに授業してますから寝ちゃってください。




「それでも……!」

 何かに耐えるように、喉の奥から搾り出すようにして、一葉が言葉を続ける。

「例え誰から見ても分かりきったことだったとしても、私は何も気付かない振りをしなければならないんです。私が気付かない振りをしていることを紅が知っていても、私は紅の気持ちに気付かないイチハで居なければならないんです!」

「元々、私には世間で言うところの倫理観や道徳観のモラルはそれほどありません。そういう教育を、受けてはきませんでしたから」

「だから、私がもし紅のことを、紅が私を想ってくれているのと同じ意味で想えるなら、応えることだって出来たんです。誰に何を言われても、この身体に流れる血を少し疎ましく思うくらいで」

「でも、実際にはそうじゃない。紅のことは本当に大切に思っています。でもそれは、紅の望んでいるものとは違う」





2.夕凪と珈琲と少年

 一葉がその喫茶店の存在を知ったのは、ほんの偶然からだった。




 入学式の翌週の月曜日。一旦学校から帰宅した一葉は、私服に着替えて自宅のマンションから程近い海岸を歩いていた。

 周囲には、犬の散歩をする人やジョギングをする人もいたが、平日の夕方とあって人影は少ない。


 午前中は良く晴れていたものの、午後に入って雲が多くなってきたため、午後五時を過ぎた今、辺りは薄暗い。




(あの灯台まで歩いてみようか……)




 特に目的もなく、一葉は岬の方に見えている灯台を目指し歩き出した。


 歩きながら、この一週間程のことをを振り返る。




(あっという間に過ぎた一週間だったな)




 そして今までに体験したことのないことばかりだった、と思う。




 同い年の少年少女と机を並べて授業を受けることも。


 休み時間にクラスメイトと談笑することも。


 学校帰りに、初めて友達になったはるひと喫茶店に寄ることも。


 


 その全てが、今までの自分の生活からは考えられなかったことばかりで、本当を言うと、一葉はまだ慣れることが出来ずにいた。


 ただ、それは不快感を伴うものではなく、初めてはるひに名前を呼び捨てにされた時のような、何だかくすぐったくなるような気恥ずかしさを伴ったものだった。




 灯台に続く長い階段の下まで辿り着いた時、ぽつり、と、頬に冷たいものが当たって、一葉は空を仰ぎ見た。




「ん?」




 すると、どんよりとした空から、いくつもの雨粒がぱらぱらと落ちてきた。




「……まずいな」




 雨足はどんどん強まってくる。


 どこか雨宿りが出来そうな所は、と見上げた階段の先で、一葉は何かの店らしき建物を見つけた。




(とりあえず行ってみるか)




 一葉は階段を駆け上がり、店らしき建物の軒先に入り込むと、着ていた薄手のジャケットを脱いで雨を払った。




『珊瑚礁』


 


 建物の前には、そう書かれた看板が置かれていた。


 何かの店に違いはないようなので、扉を開けて中に入ってみる。  




 カランカラン




「いらっしゃいませ。喫茶珊瑚礁へようこそ」




 一葉が入ると、店の奥から男性の声に迎えられた。


 その声と店に広がるコーヒーの香りで、一葉はここが喫茶店だと知らされた。




 ざっと店内を見回し、一葉はカウンターに腰掛けた。




「いらっしゃいませ」




 整った顔立ちをしたウエイターがおしぼりと水を一葉の前に並べる。




「ご注文がお決まりになりましたら……」


「おすすめはありますか?」




 メニューを見ずにそう尋ねた一葉に、ウエイターは微笑んでこう答えた。




「珊瑚礁ブレンドになります。コロンビアベースで少し酸味がある、マスター自慢のブレンドです」


「じゃあ、それを」


「かしこまりました」




 腕時計を確認すると、六時を少し過ぎた頃だった。


 店内には客は少なく、落ち着いた音楽が流れる店内はひっそりとした雰囲気だった。




「降ってきましたねぇ。大丈夫でしたか?」




 カウンターの向こう側から、眼鏡を掛けた初老の男性がコーヒーを淹れながら話しかけてきた。


 おそらく、先程若いウエイターが言っていたマスターなのだろう。




「はい。このお店のおかげで、それ程濡れずにすみました」


「それは良かった。ゆっくりしていって下さいね」


「はい」




 窓の外を見ると、雨は弱まるどころかますます勢いを増しているようだった。


   














 このまま止まなければ、濡れて帰るか、不本意ながら迎えに来てもらうかしかない。


 どちらかと言えば、濡れて帰る方を選びたいのだが、おそらく『彼』はそれを許しはしないだろう。




「お待たせしました」




 




 




 ヴーッ、ヴーッ……






 


 






















  メニューを見ていると、カウンターの向こうから、先程佐伯に声を掛けた人物が今度は海里に声を掛けてきた。。






 


 海里のそんな様子を見て、カウンターの中の男性から、佐伯とは対照的な声音で尋ねられた。


 続けて、海里の前に注文したブレンドが入ったコーヒーカップがソーサーつきで置かれた。




「……あぁ、はい。学校で同じクラスなんです」


「それで……」




 男性は、納得したというように頷いた。




「?」


「改めましてこんにちは。この店のマスターです。あぁ、瑛の祖父でもあります」


「え? あ、こちらこそこんにちは。初めまして、桜井海里といいます」


「桜井さん、ですか。いつも瑛がお世話に……」




「なってない!」




 本気で嫌そうに顔をしかめて、戻ってきた佐伯がマスターの言葉を遮った。




「こいつとはただクラスが同じだけで、俺とは話したこともない。世話になんかなってない。もういいから、お前早くそれ飲んで帰れ!」


「これ! 女の子に何て口の利き方するんだ、お前は」


「だって、学校の奴なんだ! 絶対、店のこと学校にバラしちゃうよ!」




(ああ、そういうことか)




 海里はさっきからの佐伯の不機嫌の理由が分かって、出されたコーヒーを一口飲んでからこう言った。




「心配しなくても、バラしたりしないから」


「…………」




 佐伯は疑いの眼差しを向けながら、




「女はお喋りだからな」




 と、ぼそりと呟いた。


 それを聞いて、海里は普段佐伯を取り巻いて黄色い声をあげている同級生達を思い浮かべ、思わず苦笑してしまった。




「なにがおかしい?」


「……ううん、一理あると思って」




 確かに彼女達のパワーにはすごいものがある。毎日あんな女の子達に囲まれていたら、同じ年頃の女の子が全部ああだと思っても仕方ないだろう。




「でも、信用してくれなくてもいいけど、ここのことは誰にも言わないから」


「…………」




 尚も疑わしげな視線を向ける佐伯をそれ以上気に留めず、海里は残りのコーヒーをゆっくり飲み干した。




「じゃあ、ご馳走様でした。コーヒー美味しかったです」




 カウンターの中のマスターに笑顔で言って、海里は立ち上がり軽く頭を下げた。




「いえいえ、またいらして下さい。ああ、雨も上がったみたいですね、通り雨だったようだ」




 海里はポケットから直接千円札を取り出すと、伝票と一緒に佐伯に手渡した。




「……ああ、ちょっと待って」




 佐伯は慣れた手つきでレジを操作しておつりを取り出す。




「……ほら」


「ありがとう。じゃあ、明日また学校で」


「あぁ……」




 おつりを受け取り、海里は喫茶珊瑚礁を後にした。








 ピリリリリリリ、ピリリリリリリ──




 ポケットの中の携帯電話がバイブの振動と共に鳴り出したのは、海里が珊瑚礁を出てすぐのことだった。


 携帯を取り出し、ディスプレイに表示された名前を確認してから通話ボタンを押す。




「もしもし」




 電話の向こうから聞こえてくるのは聞き慣れた男性の声。




「……え? 今? まだ外だ。……ちょっと海岸を歩いていたら雨に降られて雨宿りしていた。ん? ……いい、一人で帰れる。……いいと言ってるんだ。それより、お前こそまだ仕事中じゃないのか? ……本当に? 新任教師は暇なんだな、水城先生?」




 その呼びかけに相手はなんと答えたのだろうか、海里は低く笑い声を上げながら通話を続ける。




「……いや、からかっている訳じゃない。……ああ、悪かった。じゃあ、また家に着いたら連絡を入れる。……分かっている。心配するな、水城」




 じゃあ、と言って海里は携帯を切り、それをポケットにしまった。




(相変わらず心配性だな、あいつは)




 軽く溜め息をついて、海里は家に帰るため早足で歩き出した。




                             ※




 その翌日、下校途中の校門前で、海里は一塊の集団がきゃあきゃあ騒いでいるのを目にした。




(何かあったのか?)




 ふと見ると、その人だかりの中心は、昨日思わぬ所で会った佐伯だった。




(ああ、いつものアレか……)




 教室で見慣れた光景が場所を変えて繰り広げられているだけだと、海里はただ通り過ぎようとした。


 佐伯とは、今日の朝教室で初めての挨拶を交わしただけで、それ以降特に話してもいなかった。




「ゴメン。ホント、もうそろそろ行かないと」




 近付くと、まず佐伯の声が聞こえてきた。


 続けて、




「ええー!もうちょっと、いいでしょ?」

「ゴメンね。今日はちょっと家で用事があるから」


「ダメェ! 佐伯君こないだもそう言って付き合ってくれなかったじゃん!」


「ハハ……そうだっけ? あ、そうか、今日は予備校だった!」


「ズルーイ!そんなの見え見えー!」




 というやり取りが、否応なしに耳に入ってきた。


 海里がちらりと視線を向けると、参ったな、と溜め息をついた佐伯と目が合ってしまった。




「アッ! 桜井さん! やあ、君も今帰り?」




 すると、なんと佐伯の方から海里に声を掛けてきたのだった。




「……うん。そうだけど」




(『君』って……。昨日は『お前』と言ってたじゃないか)




 しかし内心を悟られることなく笑顔で返す。




「じゃあ、送っていくよ。道、まだわからないんでしょ?」


「そんなのズルイー!私たちも送ってぇ!」


「ほら、彼女、家が近所なんだけど、越してきたばかりで、まだ道がわからないって言うから」




(言った覚えはないし、道は分かる)




 心の中で突っ込んでから、けれども佐伯の言わんとすることに気付き、海里は助け舟を出すことにした。




「……ああ、そうだったかも?」




 最後が疑問形になったのは、積極的に係わりたい訳ではなかった海里の本音が出てしまった故であろう。 




「行こうか? ちょうど僕も帰るところなんだ」




(だから『僕』って……)




 佐伯の昨日との違いに呆れつつも、海里は先に歩き出した佐伯の後に続いた。




「もう! ……でも桜井さんじゃしょうがないかぁ」


「わたしも佐伯クンの近所に引っ越そうかなぁー」




 そんな声が後ろから聞こえてきた。


 ちなみに、その声の主に海里は見覚えがなかった。おそらくB組の生徒ではないのだろう。




 クラスメイトではない生徒に自分の名前を知られていることについて、しかし海里は少しも不思議に思わなかった。 


 入学して二週間。その間に、一目海里を見ようと一年B組の教室を訪れたのは、何も同級生に限ったことではなかった。


 まさに入れ替わり立ち代わりといった風に、上級生までもがB組の扉の前に押し寄せたのだ。


 佐伯効果と相まって、一年B組の教室の周囲は、まるで珍獣が展示されている檻さながらの光景だった。


 さすがに、二週間経って少しは落ち着いたのだが。




 校門を出てからしばらく歩いたところで、先を歩いていた佐伯が足を止めて海里に振り返った。




「助かった。学校でグズグズしてたら、開店時間に間に合わないからさ」


「ああ、お店忙しそうだったし。それにしても、すごい人気だね」


「ウルサイ。……あと、それから、悪かったな昨日のこと」


「?」


「偶然店に入って来ただけだったのに、あんなこと言って」


「……帰れ?」


「そうだよ」




 並んで歩きながら、照れたようにそっぽを向いたまま佐伯が続ける。




「……信じてなかったんだ、お前が言った『誰にも言わない』っての。でも、今日学校に来ても誰も店のことは知らないままだった」


「うん」


「ホント言うと、昨日店に入ってきたのだって、偶然だとは思ってなかった」


「……ああ、つけられたとか、思った?」


「……悪い……」




 少しうな垂れて佐伯が謝る。




 まあ、無理もないのかもしれない、と海里は思う。


 あれだけ学園の女子に騒がれて囲まれているのだ。もしかしたら一部の人間が暴走しないとも限らない。


 それとも、すでにもう何か嫌な目に遭ったことがあるのかもしれない。




「別に、気にしてないから」


「……サンキュ。でも、お前変わってるな。なんか他の女子とは違う気がする」


「なにそれ? 違わないよ」


「いや、違う、……ってか、いいな、お前」


「?」


「お前と帰るって言ったら、他の女子がもうそれ以上何も言ってこなかっただろ? ……便利だよな」




 あまりに素直な感想に、海里は思わず佐伯に釘を刺した。




「たまになら良いけど、そうそう使われて女子の恨みを買うのは避けたいんで」


「え? ……いや、うん」




 考えていたことを読まれたかのように、佐伯が口ごもる。




「でも、どうしてお店のこと隠してるの? バイトは禁止じゃないでしょ?」




 ついでに、海里は昨日から疑問に思っていたことを聞いてみた。




「学校ではヒミツなんだよ。ウチの店、夜遅いから問題あるし。それに……」


「それに?」


「ゼッタイ成績に影響が出ないこと。学校では問題を起こさないこと。店を続ける条件なんだ」

「条件って、両親との約束とか?」


「まあ、そんなとこ……」




 言葉を濁した佐伯に、海里はそれ以上の追及をやめた。


 誰にだって、あまり話したくないことの一つや二つはあるものだ。




「いけね、俺、急がなきゃ! じゃあ!」


「ああ、お店頑張って」




 海里の言葉に、軽く手を挙げて、佐伯は走って行ってしまった。




(何だかよく分からないが、色々大変そうなんだな)




 そんな感想を持って、海里も家路に着いた。






 ──入学して二週間、晴雨の日に海里と初めて言葉を交わしたたクラスメイトは、彼自身がまるでその日の天気のように二面性を持った少年だった。