祖母
本日11/3は祖母の命日でした。僕が小さい頃から両親は共働きだったので、祖母に育てられました。学校から帰って来て「ただいま」と言うと、必ず祖母が笑顔で「おかえり」と言ってくれました。晩ご飯も、母親が休みの日以外は祖母が作ってくれていました。なのでご飯のおかずも、おばあちゃんが作るご飯って感じなので素朴な物ばかりでした。小学校の頃に、同級生の家に遊びに行った時におやつやご飯を出してくれたのですが、その豪華さにびっくりした思い出があります。僕の家でおやつと言えば、饅頭や煎餅などでした。ご飯も煮物だったり郷土料理ばかりでした。その子の家では、おやつにケーキとコーラ、晩ご飯はハンバーグでした。ものすごく羨ましかった記憶があります。その頃、実家での飲み物と言えば、家で作った麦茶と牛乳くらいしか覚えてません。たまにケースで買ってくるオレンジジュース。でもこのオレンジジュースは、田んぼの作業を手伝ってくれる方に出すもので滅多に僕は飲む事が出来ませんでした。それまでは、これが普通って思ってたのですが、その同級生の家に行った時にあまりにも生活が違い過ぎてビックリしました。それからは、祖母の作ってくれるご飯がつまらないものに思えてしまいました。母が休日の時には、ハンバーグやグラタンは作ってくれていたのですが、毎日が母の料理だったらなぁと思っていました。今だと、素朴なご飯の方がありがたいって思えるのにね。学校でいじめられて、泣きながら帰って来たときも祖母は何も言わず笑顔で話を聞いてくれました。その時は、祖母と縁側で一緒にみかんを食べたり、お煎餅を食べたり、ゆっくりとした時間を過ごしていました。田舎の家は都会と違って広いので冬はとても寒くなります。冬は廊下に当たる日差しが暖かいので日向ぼっこを一緒にしていました。なんでもない時間が幸せだったのかもしれません。小学校の頃は、夏休みになると祖母と一緒に寝ていました。僕の部屋は2階にあったのですが、夏になると、とても暑くなるので1階にある祖母の部屋の方が涼しかったからです。その時は、夜中に一緒に台風情報を見ていたのを覚えています。香川県はもともと台風があまり来ないので、そんなに心配をする事はなかったのですが農家だった為、稲が台風でやられないか心配だったのです。台風が去った後には、稲が倒れていていつも残念がっていた祖母の顔を思い出します。そして月日が流れ、僕は中学生になりました。夏休みでも祖母とは一緒に寝る事は無くなりました。中学生になると成長期でもあり、ものすごくお腹が減ります。学校から家に帰って真っ先に行くのは、祖母が晩ご飯の用意をしている台所でした。まだご飯も出来ていなかったのすが、冷やご飯が残ってたので、いつもそれで大きなおにぎりを作ってくれました。具材なんて何も入ってない、塩にぎりです。たまにごま塩があればそれをかけてくれる事もありました。僕はそれが大好きでした。まんまるの爆弾のような大きなおにぎり。今じゃ絶対に食べられない大きさだったと思います。その頃、僕は中学校の部活で吹奏楽部に入っていました。そしてそこでも周りの同級生が羨ましいと思いました。同級生はトランペットの担当だったのですが、その子は両親にトランペットを買って貰っていました。やっぱりそれを自慢されると、僕も欲しくなりました。両親に相談もしましたが、買ってはくれませんでした。そんなに安い物でもないし、今後必要になるかもわからないからです。どうしても欲しいと言ってたのですが、やはり買ってくれませんでした。それを見かねた祖母が、高校生に入っても吹奏楽部を続けてたら買ってあげると言ってくれました。その時は本当に嬉しかったです。まだ買って貰ってもないのい同級生に自慢をしていました。そして高校生になり、吹奏楽部に入りました。しかし高校生になると色んな場所にも出かけられるようになり、買い物もしたくなります。なので、僕はバイトを始めました。勿論、吹奏楽部も続けていました。そして、約束通り祖母に楽器を買ってと言いました。すると祖母はバイトをするのなら楽器は買ってあげないと言いました。約束が違うと僕は怒りました。祖母は僕に学業や部活に専念して欲しかったのです。確かに部活も早めに切り上げてバイトに行ってました。その頃は学校よりもバイトの方が楽しかったのです。それ以来、僕は家に帰っても「ただいま」を言わなくなりました。玄関から帰らずに勝手口から帰って、祖母に会わないようにしていました。暫くそれが続きました。結局、吹奏楽部は辞めてしまいました。高校の吹奏楽部は思ってた物と違っていました。それに、学校が終った後に遊んだりバイトをしたかったのです。中学生の頃からつき合ってた彼女とも一緒に出かけたく、お金を稼いで何かを買ってあげたいとも思ってたからです。祖母と挨拶もしなくなった時から、かなり時間が経ちました。流石に母親はそれを見かねたのか、ばあちゃんが寂しがってるから挨拶くらいしなさいよと言ってきました。反抗期だった為、素直に受け取りませんでした。でも、流石に申し訳ないなと思い、その後からはぼそっと「ただいま」と目を見ずに言うようにはなりました。それだけでも祖母は嬉しかったようです。結局、楽器は買ってもらわなくて正解でした。吹奏楽部も続けなかったし、楽器よりも歌の方が楽しくなったからです。今思えば、祖母には本当に申し訳無い事をしたなぁと思います。以前、母の事について書いた時に、母が入院をした時には祖母が母親代わりをしてくれたと書いたと思います。毎日朝の決まった時間に起こしてくれ、朝ご飯も用意してくれました。その頃は、学校にも滅多に行かず遊んでる毎日でした。晩ご飯も用意してくれてたのですが、いつも食べて帰って来たりしてたので、祖母の作ったご飯を食べない事もありました。祖母のご飯よりも、マックなどのファーストフードの方が美味しく感じられたのです。結局、その頃から高校卒業まで祖母がずっと面倒を見てくれていました。僕が東京に行く時も、田舎にいればいいのにと何度も言われました。きっと小さい頃から僕を育ててくれていたので自分の手から離れるのが寂しかったんだと思います。東京に上京した後に母親が亡くなり、父親も単身赴任で全国を転としていた為、実家には祖母、祖父、姉の3人だけになりました。もともと、僕が中学の頃までは8人家族の大人数でした。その後、叔父2人が結婚をして家を出て行き、僕は東京に行き、母が亡くなり、父親も家に帰れなくなったので、いつの間にか3人になってしまいました。実家は家が3軒繋がってるのでかなり広いのですが、3人になった為、結局使ってるのは真ん中の1軒だけでした。久々に実家に帰ると、寂しい雰囲気が流れていました。昔はここに8人もいたんだなって思いました。僕は東京にいる事が楽しくなり、実家にはあまり帰らなくなりました。成人式の日に久々に実家に帰りました。その日を見守ってくれたのは祖母でした。着慣れてないスーツを着て、成人式に参加しました。家でスーツを着た自分を見て喜んでいました。大きくなったねって微笑んでいました。そして何事も無く、また東京に戻りました。学校を卒業し、新しいバイトを始めました。音楽とバイトを両立しつつ日々が過ぎて行きました。そして学校を卒業して1年半後、祖母が倒れたと連絡が入りました。脳梗塞でした。急いで実家に戻り、病室に行きました。そこにはただ寝てるだけに見える祖母の姿がありました。実家で数日過ごし、祖母の意識が戻ったと連絡があったので、病院に駆けつけました。しかしそこで見た祖母は別人でした。自分の意思とは関係なく体が動き、動物のような動きをしていました。僕を見ても誰か分からなかったようで、じっと目を見つめてきました。僕がそれがものすごく怖かったのです。まるで知らない動物に見られてるような感じで。祖母はベッドに縛り付けられていました。意識が戻ったので大丈夫だから東京に戻っていいと言われ、僕は東京に戻りました。そして姉から祖母の状況を色々と聞かされました。正月に実家に戻った時にはまだ祖母は入院していたので、病院に向かいました。そこで見た祖母は以前の動物のような感じでは無く、普通に見えました。廊下を歩いてた祖母が笑顔で手を振ってくれました。しかし、以前の祖母と違ってたのは、喋れない事。少しだけ半身不随にもなっていました。他にも、以前の記憶があまり無く、子供のようになっていました。かなり驚きましたが、それを顔に出さないよう必死でした。一度、脳梗塞になった場合、再発する可能性があると言われました。退院し、実家では姉が付きっきりで世話をしてくれました。祖母の子供になってしまった姿を見て、祖父は本当に嫌だったんだと思います。祖母がご飯をこぼすと怒鳴ったり、言う事を聞かないと叩こうとしてたそうです。いつも祖母に頼ってた祖父は、きっと今まで通りに行かなかったのが気に入らなかったんでしょうね。姉はそんな祖父をなだめ、祖母の世話を一生懸命してくれました。トイレもお風呂もご飯も、寝るのも起きるのもずっと一緒でした。姉はもともと保母さんをやっていた為、世話をする事になれていました。また、姉は世話をする事に対して楽しさを見つけようとする人なので、嫌とも言わず頑張ってくれました。その数ヶ月後、祖母は再度倒れました。祖母は姉と一緒にお風呂に入ってたのですが、姉がシャンプーが切れたので取りに行こうと一度お風呂を出ました。すぐそこに取りに行くだけだからと大丈夫だと思ってたらしいのですが、その一瞬で祖母はお風呂で倒れました。再度、脳梗塞になったのです。すぐに救急車を呼び、入院しました。即、集中治療室に入りました。前回は薬だけで血栓を溶かすだけでよかったのですが、今回は頭蓋骨に穴を空けて血を抜きました。手術も無事に終ったのですが、祖母の意識は戻りませんでした。その姿を見て、母親の最後の時の姿と被りました。あぁ、もう駄目だ。。。と思いました。毎日病院に通い、声をかけ続けても何も変化がありませんでした。病院に簡易ベッドと家族用の待ち合い室を用意してくれたのですが、そこにいつもいてくれたのは姉でした。何かあった時の為に家族の誰かがずっと病院にいなければいけない状況だった為、家にも帰れず、お風呂にも入れてませんでした。でも姉は文句も言わず、笑顔でずっといてくれました。家族用の待合室には複数の家族が一緒に寝泊まりします。そこでも姉は他の家族の方と仲良くなったりしていました。そこが姉のすごい所だなぁといつも尊敬します。いつも一緒に過ごしてた姉が一番辛いのに、ずっと笑っていてくれました。逆に僕の心配をしてくれました。そんな日々が2週間程続きました。状況が全く変わらず、父親も流石に仕事を休む事も出来なくなりました。そして僕も一旦東京に戻る事になりました。しかし、その数日後、祖母の様態が急変しました。連絡が来たのが夕方だった為、飛行機は間に合いませんでした。新幹線の時刻を確認すると、なんとか最終の新幹線に乗れる事がわかりました。すぐに身支度をして東京駅に向かいました。窓口で香川までお願いしますと言った所、もう乗れませんと言われました。えっ?と思ったのですが、理由を聞くと、その頃ののぞみは指定席しか無かったのです。自由席がもともと無かったので、指定席を取ってる人しか乗れなかったのです。埼玉に親戚が住んでいるため、すぐに連絡をして、車で一緒に実家に向かいました。車だと9時間位はかかります。本当に長い道のりです。愛知付近に入った時に、父親から電話が入りました。父親からはこう告げられました。「ばあちゃん、もう家に戻ってるからな。」僕は「分かった」とだけ答えました。その時点で分かってました。祖母は亡くなったんだと。でもどこかできっと良くなったんだと、自分に言い聞かせてました。そして実家には明け方に着きました。そこには冷たくなった祖母が布団で安らかに眠っていました。また、この光景だ。そう思いました。母親の時に、ものすごく辛い思いをしたのに、その数年後になんでまたこんな事にと思いました。もう呆然とするだけで涙も出ませんでした。祖母が亡くなったのは午前2時過ぎ。もしあの新幹線に乗れてたら午前1時半には高松駅についていた。そしたら駅から近い病院だから間に合ってた。それが本当に悔しかった。東京駅で事情を話し、なんとか乗せてもらえないかと言わなかった自分を責めた。その後、また母親の時と同じように淡々と葬儀が進んで行きました。祖母の弟でちょっと怖い人がいます。声が大きく、いつも怒鳴ってるように聞こえます。周りにいつも何人か従えてて、とても怖い存在でした。しかし、その葬儀の際に、その方の弱さを見ました。初めておじさんの涙を見ました。沢山の人がいるのに、大声で泣いていました。ねえちゃん、ねえちゃんと棺を抱きしめていました。もともと、祖母は戦争の時に大阪から香川に疎開をしてきました。小さかった弟を連れて。おじさんは小さい頃に、別の場所から逃げて来たって事で虐められてたそうです。そこからおじさんは道を外れてしまったようでしたが、祖母は弟と2人で、全く知らない地で強く生きていました。2人で戦争の中を生き延び、2人で強く生きていたのに、一番大切な姉が亡くなった。自分には想像も出来ない程辛かったと思います。まるで僕は傍観者のようでした。祖母の最後を見ていないので、実感が無かったのです。そして火葬場に着き、最後の対面の時に、祖母は死んだんだって分かりました。一気に涙が溢れました。もう帰ってこないんだって。そして、火葬も終わり、小さくなった祖母の遺骨と一緒に家に戻りました。またあの時のように何かが無くなった空気が家に流れていました。実家にはとうとう、姉と祖父だけの2人だけになりました。あの広い家で2人だけの生活は相当寂しかったと思います。四十九日の時に、母親と同じで祖母は合図を残して旅立ちました。母の時はガラスが割れましたが、祖母の時は花瓶が倒れました。倒れるはずも無い場所なのに、静かに倒れました。祖母も天国に行けたんだなって思えました。実家で姉と祖父の2人しかいなくなった時、父親から戻って来れないかと言われた事があります。まだまだ自分のやりたい事が沢山あったので断りました。姉は20歳の頃からずっと看病に追われて、ほとんど遊んでません。このままだと、姉は祖父の世話をする事になり、結婚も出来なくなってしまうと、父親は心配していました。父親も戻りたい気持ちはあるけれど、父親が稼がないと生活が出来なくなる為、僕に言ってきたみたいです。父親の心配とはよそに、姉は無事に結婚でき、今では2児の母です。旦那さんがものすごくいい人で、実家に一緒に住んでくれる事になりました。その為、今では賑やかに暮らしています。父親も定年退職をし、今では実家で6人で暮らしています。また賑やかな生活になってくれて本当に安心しています。今でも父親からは帰って来いとはよく言われますが、まだ帰れません。東京でやり残した事がいっぱいです。この先どうなるか分かりませんが、もうちょっとだけ東京で頑張らせて下さい。ごめんね。今思えば、母親と同じで僕は祖母にありがとうの言葉を伝えれていませんでした。他人にはすぐにありがとうって言葉が出るのに、家族にはなかなか言えません。今でも父親と姉にはありがとうがなかなか言えません。頑張って言いますが、ぎこちないんですよね。これからは後悔しないようにちゃんとありがとうって言わないとね。ばあちゃん、いつもおいしいご飯を作ってくれてありがとう。たくあんの煮付け大好きだったよ。黒豆の醤油煮も。おやつに、きな粉とあんこをまぶした、お団子も作ってくれたよね。ばあちゃんのご飯大好きだったよ。本当にありがとう。