マンゴーの味が濃くて飲みやすいし、美味しいです
私が好きな「フルーツ味」に比べると、ちょっと甘い。イメージ的にはネクターみたいな感じ。買わなかったのですが、ラムネ味の豆乳もあったのですが、まったく味の想像が出来なくて
どんな味なんだろう…。ちなみに、明日は久しぶりのスノボです。準備しなくちゃ
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私が好きな「フルーツ味」に比べると、ちょっと甘い。イメージ的にはネクターみたいな感じ。
どんな味なんだろう…。![[みんな:03]](https://emoji.ameba.jp/img/user/so/soukou/6087.gif)
ニュースで某芸能人の子供の名前が「崇徳」と出てましたが、私は名前を一目見て「え?!崇徳院?!」と思ってしまいました。きっと本人は知らないで付けたのでしょうが、崇徳院を知っている人はやはり「可哀想な名前を…」という気持ちになるかと
そんな事から、一つ崇徳院について。
崇徳院は実は幕末に意外な形でかかわっています。
まず、崇徳院の簡単な紹介。
崇徳天皇は、鳥羽天皇と藤原璋子の第一皇子として誕生する。一説には崇徳天皇は、鳥羽天皇の祖父にあたる白河法皇と璋子が密通して誕生したと言われており、その為父の鳥羽天皇に疎んじられたという。4歳で即位し、10歳の時、藤原忠通の娘「聖子」が入内し、父鳥羽上皇が院政を開始する。
崇徳天皇22歳の時、父の鳥羽上皇は寵妃「藤原得子(美福門院)」との間に生まれた体仁親王を天皇とする為、崇徳天皇に譲位を迫り、体仁親王が2歳で近衛天皇として即位。しかし、14年後病弱だった近衛天皇は崩御。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で「後白河天皇」として即位することになった。鳥羽法皇や美福門院は、崇徳院の呪詛により近衛天皇が信じていた。翌年鳥羽法皇が病にて崩御。法皇が崩御すると事態は一変。崇徳院が兵を挙げるという噂が流れ、崇徳院は住まいを脱出。その崇徳院の元に武士が集結するも少なく、結果、後白河天皇方は崇徳院方へ夜襲をかけ、崇徳院は逃亡。これが後に言う「保元の乱」
その後出頭した崇徳院は捕えられ、讃岐国に流罪となる。46歳で崩御
。
一説には、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒し、極楽浄土を願い、五部大乗経の写本作りに専念して戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められている」と疑い、これを拒否して写本を送り返した。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿となり、行きながら天狗
になったともいう。
しかし、その後の平治の乱で、武家の平氏が政治の実権を握り、更に翌年二条天皇が病死し、写経受取を拒否した藤原信西、更に建春門院・高松院・六条院・九条院後白河や忠通に近い人々が相次いで死去
したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年延暦寺の強訴、安元の大火
、鹿ヶ谷の陰謀と社会が不安定となり、一層崇徳院の怨霊説が意識されるようになった。精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈された。
そして、幕末
孝明天皇は「崇徳院の怨霊が長州藩等の不逞の輩に味方しない様」に崇徳院を祀る神社「白峰神宮」
を京都に建立するが、途中で病没
。その後明治天皇が「崇徳院の怨霊が、天皇家に敵対する会津藩等に味方しない様」にと白峰神宮
を完成させた。
つまり、最初と最後で目的が180度変わってしまった神社
で、崇徳院の怨霊は幕末になってもそれほど恐れられているということ![]()
が続いているようですが大丈夫でしょうか?
。藩士のM野さんの御子孫と、H澤さんの御子孫夫妻と大佗坊さんと5人で、新橋の「隠れ居肴家 わびさび 新橋本店」 で。珍しくコースで飲み放題
。でも料理も美味しかったし、話しもとっても楽しかったです♪( ´▽`)![[みんな:04]](https://emoji.ameba.jp/img/user/pi/pink---rose/34719.gif)
の日。今回は桃の花アレンジでお雛様です。御所風にしてみました。
、薔薇、ガーベラ、かすみ草、スイトピー、紫チース、ミモザ、レモンリーフです。写真では見えないですが、器は菱餅の形で可愛いのです![[みんな:01]](https://emoji.ameba.jp/img/user/da/database5500/11056.gif)
でも疲れた~o(;>△<)o
という本をGETしました。鶴岡の郷土資料館の目録で見て知り、後にコピーは持っていたのですが、原本を入手。(常盤さんありがとうございます)
酒井玄蕃といっても我らがハニー了恒様では無く、黒川にある玄蕃家の祖にあたる酒井玄蕃了次の碑です。
庄内藩酒井家は徳川四天王と呼ばれた酒井忠次の子孫で、忠次の夫人が家康の叔母で、酒井家の始祖広親の弟泰親は徳川の祖にあたります。ちなみに、庄内藩酒井家は「左衛門尉酒井家」で、他に姫路藩を代表とする「雅楽助酒井家」があり、こちらは広親の次男家忠系で、長男の氏忠系が庄内藩酒井家です。
さて、左衛門尉酒井家の三代忠勝の時に信州松代十万石から庄内藩へ入部。
その弟には・・・
次男・直次(左沢一万二千石)、
三男・忠重(村山郡白岩八千石)
四男・勝吉(八百石で分家し、のち旗本へ)
五男・了次(旗本寄合五千石)
六男・忠時(16歳で没)
七男・政時(郡代柴谷武右衛門の養嗣子、若死)
三男の忠重という人物は、「白岩義民伝」によると、『性来頑愚鈍欲にして少しも人君の徳なく、暴虐無道、民の膏血を絞りて楽しみとなし、良民を殺害餓死せしめること十有余年に及ぶ」と記すほど悪政の限りを尽くした人物で、彼の関わった事件は後に「長門守事件」と呼ばれる。
寛永年間に庄内酒井家には四代家督を巡り家督争いが起こる。
三男長門守忠重は奸佞で、忠勝へも悪事進め、三代忠勝の嫡男忠当は家督の器量無く、長門守は嫡子九八郎を婿養子として世継ぎにすべく、長門守は奸計を巡らし、忠勝に対し「了次が最近素行が良くないと噂になっている。大番頭の某は玄蕃の心にかなっていた老人ゆえ、明日にでも彼を遣わして意見させよう」と吹き込み、その足で玄蕃の屋敷へ行き「御本家(忠勝)は殺伐な事が好きだが、明日貴殿を討ち取る為大番頭の某を遣わすとの事ゆえ覚悟あるべし」と、まことしやかに虚言を吹き込み「むざむざ討たれる事もあるまい、老人一人処分するのにみずから手を下すにも及ぶまい」と、暗にたきつけた。
翌日、そうとは知らない大番頭の某は玄蕃家に行き、忠勝の言葉を伝えようとするが、長門守に術策に陥っている玄蕃は大番頭の某を家臣に命じて槍玉に挙げてしまう。
長門守は計画の上手くいった事にほくそ笑みながら「玄蕃殿御乱心!」を触れまわり、押し込めにした。玄蕃は庄内への駕籠送りの途中、千住の宿で警護を撒いて抜け出し、日本橋本町の庄内藩出入りの呉服商下蔵邸に匿われていたが、この事が発覚し、江戸藩邸から捕手が向かったが、罪人とは言え、現当主の弟であるし、長門守の陰謀も伝わり同情もある為、侍十四人皆木刀などを手にし、刀をきらめかした者は居なかったという。
玄蕃は庄内に下され、寛永12年黒川村で押込に処された。その後、ほどなくして黒川にて没した。史料によって死亡年月に違いが見られ寛永12~15年の間とみられる。
長門守は白岩入部以来過酷な政治を行い、前後十余年で百姓の餓死者千有余人に及び、百姓一揆が起き、家老が殺害されたりした為、寛永10年以来白岩農民より度々幕府へ訴えを起こし、同15年幕府の判決にて改易となり庄内藩主酒井忠重にお預けとなるが、それ以降もなお本家の客分として藩政の発言力強く、政権を欲しいままにしていた。四代の家督は、玄蕃の必死の抵抗や忠勝の子忠当の義父(妻の父)老中松平信綱の援護で、忠勝の死と同時に忠当の襲封と決まり落着した。
1653年の忠勝亡きあと、長門守は「兄忠勝の遺言によって二万両貰う事になっている」と言い出し、藩としてはとんでもない金額ではあるが、格別遺言と称する証拠もないが、もし拒否した場合、どんな手をうつか解らないので、金は払って今後一切長門守と手を切るという条件を出して金を支払った。
その後、長門守寛文5年息女縁組の件で不始末を起こし改易となり、千葉の市川に蟄居していたが、寛文6年夜盗に襲われ死んだという。
ちなみに、黒川の「酒井玄蕃の碑」
先日、会社関係のバレンタイン義理チョコを部の女子で買いに行ったのですが、最近はTVでやってましたが、義理チョコ以外に友チョコやご褒美チョコというのが増えているそうで、私も好きな京都北山のマールブランシュ
が出してたので、ご褒美チョコ
として買ってしまいました♪( ´▽`)
ホットジンジャーチョコ。ここはパッケージも可愛くて美味しいので好きな菓子屋です![]()
の世界![[みんな:01]](https://emoji.ameba.jp/img/user/8k/8kagura8/3768.gif)
普段雪
の無い土地に住んでいると、雪国
の方の苦労はわかるものの、ちょっとテンション上がります![[みんな:02]](https://emoji.ameba.jp/img/user/sh/shumatti766/661.gif)
瑠樹さんと今日も待ち合わせして、図書館開館まで時間があるので、先に安国寺近くの「太田屋菓子舗」へ。ここの冬限定のシフォンケーキ
をGETすべく、無事予約だけ入れて、郷土資料館へ!
……まさかの休館![[みんな:03]](https://emoji.ameba.jp/img/user/xx/xxnelumbo-nuciferaxx/594977.gif)
「2月4日(月)から15日(金)まで、特別図書整理期間につき、臨時休館」そんな長い期間やる!?しかも3連休挟んで?!!!
……今日一日の殆どをここで過ごすという一大計画が全てパーになったので、仕方なく致道博物館へ
致道博物館はいわゆる郷土博物館なんですが……幕末ファンが行くとちょっと物足りない
。戊辰戦争ネタは4畳半位の部屋に半分位パネル展示。釣り
や漁業関係はかなり力入ってます。そりゃもう、菅さん所用の釣竿とか、忠宝くんの釣った赤鯛の魚拓とか、釣竿作りの名人が紹介され、別の棟には漁に使用した船やタコ釣る仕掛け、鮭供養の卒塔婆とか…これでもかという程釣・漁関係はあるのに…![[みんな:04]](https://emoji.ameba.jp/img/user/xx/xxnelumbo-nuciferaxx/594977.gif)
酒井家庭園も雪
に埋れて水墨画の世界です。
足も身体も冷えたので、敷地内の「カフェ荘内藩」でホッと一息
。
ランチ
はいつもの「百けん壕」
にて。
なにせ、資料館で籠るつもりだったので、近場にしたのですが…。いつも「百けん壕ランチ」なので、今回はちょっと変えて違うのにしてみました。
麦きり付きのランチです。…ちなみに、「百けん濠」の建物の写真、遭難した山の中で見つけた小屋見たいになっているけど…大丈夫??!!!
そこから、致道館へ。致道館は庄内藩の藩校で会津藩の日新館みたいなものです。
文化2(1805)年2月の開校(日新館は2年早い1803年)で、藩主忠徳の時代。
中興の名君忠徳が18歳の時、江戸から鶴岡に帰る際、旅費に苦労した為、それ以来忠徳は終生率先して質素な生活を続け、藩政を豊かにして経世済民の実を挙げようと決心したといわれる。重臣の白井矢太夫が寛政5(1793)年意見書を差し出し、農村の疲弊を救うには、立派な役人を育てる事が大切であると述べ、これまでの政治を批判。藩政を改める為にはすぐれた人材が必要であると強く感じた忠徳が、自ら計画して学校を建て、人材を育成しようと考えたのである。
もちろんマイハニーな玄蕃様も通ってました![[みんな:05]](https://emoji.ameba.jp/img/user/da/database5500/11056.gif)
文久2年9月29日には玄蕃サマこと「酒井了恒(20)」も外舎生から試舎生に進みました。他にも試舎生には松本十郎(23)や勝山重良(22)などがいました。しかし、翌年文久3年11月には酒井了恒は番頭として江戸表へ急出府を命じられました。
そこから、「大宝館」へ行き調良君のコーナーで心和ませました(笑)ちなみに、大宝館は大正4年11月10日に開館。この「大寶館」の文字は玄蕃様弟君の「黒崎研堂」の書で、斉藤善作彫の銘板です。
荘内神社の御朱印帳が凄く可愛いのですよ!!表紙には鶴ヶ岡城を絵と、庄内藩酒井家十七代当主酒井忠明の歌が記されて、裏には鶴ヶ岡城址の桜の景色が描かれてます
そして、その帰り際調良君の胸像見たらほっかむりして雪に埋れて、何やら兵隊さんみたいになってました(笑)![]()
そこで、ちょうど良いので太田屋菓子舗でケーキ
を受け取って駅へ。
雪は降り続いてましたが、風が無かったのが幸い電車
は順調に動いてて一安心して駅前の日本海庄やで電車の時間迄一杯♪( ´▽`)
もう、白子のポン酢が絶品
臭みも無くてクリーミーで、普段白子苦手なので食べないのですが、これは本当に美味しくておかわりまでしちゃいました
冬の味覚ですね!
庄内豚の味噌漬け焼きも柔らかくて美味しかった~!地酒
も飲み比べしてました!本当に楽しい旅行でした!
帰ってから、早速シフォンケーキ
を食べました!珈琲味の生地がすっごい柔らかくて甘さもちょうど良くて美味しかった~
冬季限定にしないで、通年でやってくれたら良いのに
念願の冬の庄内に行って来ました!
玄蕃様が過ごしたであろう庄内の冬を体験したく、更に!酒田で「戊辰戦争を戦った酒田町兵と農兵」という特別展をやっているので、こんな機会二度と無いかもしれないので、是非行こう!と意気込み、周りを巻き込み行って来ましたよ!
大宮から上越新幹線
に乗って新潟に行き、羽越本線に乗り換えて酒田へ。他の路線が遅れてたので接続の関係で、少し遅れましたが、無事酒田到着。途中途中の日本海、荒れてましたよ~
酒田では鶴岡在住の瑠樹さんが車で迎えに来て下さっていて、まずお昼の予約していた「富重
」
さんへ。
ランチ
の2100円のコース料理にしたのですが、凄い驚く程豪華!![[みんな:09]](https://emoji.ameba.jp/img/user/ke/keicyon/510206.gif)
寒鱈汁やたらの白子やカニやフグ、イカ鍋、岩のりおにぎり等々美味しいけどかなりお腹いっぱい(>人<;)
ちなみに、庄内の冬の味覚「寒鱈汁」は寒の入りである小寒から立春にかけてとれるタラの事で、本来は「真鱈」。また白子(庄内では白子を「だだみ」や「たつ」、肝臓(あぶらわた)これら内臓に加え、頭や骨などのアラをまとめて「どんがら」と呼びこれを煮た「どんがら汁」こそ庄内の冬の味覚(どんがら汁は身は入れず、味噌のみで味付けします)。
富重さんを後にして、本来の目的の酒田市立資料館の特別展「戊辰戦争を戦った酒田町兵と農兵」へ。思ったより小さい建物で、展示スペースも30坪程度?で、パネルも多かったですが、それでも良かったです!玄蕃家に伝わる兜
もメチャメチャカッコいい~
企画展本が無いので目に焼き付けておこうと食い入るように眺めて来ました!酒田の黄金隊や工兵隊などもパネルで紹介してました。
七番隊の工兵隊士の墓
は瑞相寺にあって以前に行きました。
砲術訓練には大工町の町民ら80名も参加し、三十六人衆の鐙屋幸太郎・二木重之助らも参加している。三十六人衆に属する豪商たちは、自ら武器の調達を行った為、町兵が組織された際に、本間数右衛門率いる五番隊は豪商らで組織されていた為、五番隊は別名黄金隊
と呼ばれたという。
資料館を出て本間家旧邸へ。ここは久しぶりです。入口入って左側の建物は幕府の巡見使を迎える為に建てられて庄内藩へ寄進し、後に下賜された武家風の建物、右側は本間家の家人達が住んだ商家風の作りで、建材なんかも変えてる珍しい作りとの事。
その後、前回行きそびれた光丘文庫
へ。すでに時間が16時を過ぎていて、光丘文庫の閉館が16:45でギリギリ駆け込み。イメージと違って本間家の蔵書
を展示してるので、まあ基本的に普通の書籍
を置いている訳では無く、また図書館では無いので書棚があって自由に読める訳でも無く、本棚はあるけど鍵が掛かっていて、係りの方にお願いして見せて貰う形式。戊辰関係の書籍は殆ど並んで無かったので、たぶん係りの方にお願いして見せて貰う感じかも??とりあえず時間掛けて漁れば色々出て来そうなので、いつかゆっくり見たい場所でした![[みんな:05]](https://emoji.ameba.jp/img/user/da/database5500/11056.gif)
光丘文庫も閉館なので、一路本日の宿鶴岡へ
。酒田市内はさほど積雪は凄くなかったのですが、鶴岡市内に入ると一気に積雪量
が増えて雪国らしく。
本日の夕食は「べんけい」
さんで。
美味しかったけど、車移動であまり運動してないのと、昼食が遅かったので食べきれなかったのが残念でしたが、初うるい美味しかった~
たぶん「米の娘ぶた」という品種の豚肉使った鍋とかも美味しかったし、馬肉も刺しが程良く入ってて美味しかった!
ちなみに「米の娘ぶた」とは、山形県金山町の自社牧場で飼育されている大商金山牧場のブランド豚で、地元の契約農家が栽培した飼育米と牛乳から乳製品を作る時に出来る乳清を加え、おかゆ状に混ぜ合わせた配合飼料を食べ健康に育った豚で、栄養価が高く、肉質のやわらかさ、あっさりした甘さが特長の豚肉です。
昨年末に草月部で六本木の花郷でお食事会をしたので、今回は『銀座花郷』で新年会
をする事に。
11時45分に有楽町イトシアの花屋
前で待ち合わせして、お店へ。プランタン銀座の脇をまっすぐ進んで左折したトコで、普通建物に入ると小さいフロアがあって、そこで、エレベーターを待つのですが、表通りに面した壁に直接エレベーターのドアがあってビックリ。
中に入っても、バブル感が半端無くて、ティファニーの孔雀のステンドグラスやゴッホの浮世絵等々、「本当?!」って思う位で写メ
撮りまくり
お料理
も上品で美味しかったです! 京懐石の店なので、見るも美しく、食べて美味しい。
米沢牛もやわらかで美味しい。ゴールドカードがあったので割引がきいてお得に食べられました。![]()
食後に、かねてより計画してた「はとバス」の「スカイバス」
で都内を廻るツアーへ。
東京駅の丸の内より天井が無いバスで出発。約1時間程度のツアーながら、丸の内~大手町~霞が関~銀座~有楽町を廻るのですが、各省庁の建物や、国会議事堂
、警視庁等々見て回る面白いツアーでした。でも当然屋根無しなので吹きっさらしで寒い寒い![]()
今日は仲間内の一部での新年会![[みんな:01]](https://emoji.ameba.jp/img/user/8a/8ayuna8/32090.gif)
昼過ぎに池袋のジュンク堂で大佗坊さんと待ち合わせして、軽く池袋界隈の史跡巡り。史跡巡りとは言ってもほとんど会津関係は無いので、どちらかというと文化人関係??
最初に「本立寺」へ。
ここには「神木隊戊辰戦死之碑」があります。
「神木隊」とは、越後高田藩士達によって結成され、隊長は酒井良輔で総勢82名。上野戦争に参加後、各地に転戦して箱館に渡り宮古湾海戦にも参加。五稜郭開城により終焉を迎える。「神木」とは榊家の「榊」の漢字を二つに分けたもの。
また、境内の墓地には、高田藩主榊家の墓と、八代藩主政岑が1800両もの大金で身請けしたという吉原三浦屋の花魁だった高尾大夫も正室同様、榊家奥方の墓碑に戒名が刻まれて存在しているが、更に奥に同じ戒名の高尾大夫の単独の墓も存在する。
その後、「雑司ヶ谷霊園」
へ。
まず、「長郷泰輔墓」へ。墓銘によると会津藩士で、戊辰戦争後斗南へ移住。田名部にて窮乏に耐えかねその後箱館にて贋金造りに手を染める。その後ロシア正教のニコライの紹介で横浜のフランス人建築技師フスカフに学び、その後イタリア、英国、フランス等の大使館やニコライ堂の建築に携わり、明治44年7月15日63歳にて没。ちなみに、墓碑裏に桜井勉撰文、日下部東作書の墓銘である。
その後、「小栗上野介墓」へ。小栗については今更説明も要らないでしょう(苦笑)
次に「成島柳北先生墓」へ。成島柳北は奥儒者図書頭成島筑山の三男として江戸浅草に生まれ、安政3年に幕府奥儒者となり、徳川家定・家茂などに経学を講じる。文久3年(1863)、狂詩により幕府を諷したかどで、閉門となるが、慶応元年(1865)再度登用され、外国奉行、会計副総裁などを歴任した。明治5年から約1年、東本願寺の大谷光瑩の欧州遊学に随行して仏・伊・英・米を歴訪する。明治17年11月30日48歳にて没。姪孫に俳優の森繁久彌がいる。
「東條英機墓」→「永井荷風墓」→「小泉八雲墓」→「泉鏡花墓」→「大川橋蔵墓」→「サトウハチロー墓」
そこから「鈴木美遠子墓」へ。
「鈴木美遠子」は西郷頼母の六女で、最初長坂家に嫁し、後明治8年松崎出身の明治天皇の御真影撮影者として著名な写真家鈴木真一と再婚。この縁組も頼母が伊豆に滞在していた時代のものであるといえる。
その後「竹久夢二墓」→「夏目漱石墓」→「ジョン万次郎墓」→「東郷青児墓」→「千葉定吉(千葉さな子父)・重太郎(千葉さな子兄)墓」(※千葉さな子は坂本龍馬の婚約者)の有名処を見て廻りました。
雑司ヶ谷霊園を後にして、大徳寺墓地に行くも整理されてしまっていて旧大名関係の墓所の面影無し。
最後の締めに「恐れ入谷の鬼子母神」で有名な真源寺(鬼子母神)へ。
本日のメイン。新年会
へ。
会場は「樽一」 です。鯨料理の店です。
今回はAkiさんや常盤さんと4人で。会津や庄内など色々な話題で盛り上がりました
鯨肉、美味しかった~
日本酒
も美味しかった!宮城の浦霞の金ラベル![]()
とっても楽しい飲み会
でした。