ニュースで某芸能人の子供の名前が「崇徳」と出てましたが、私は名前を一目見て「え?!崇徳院?!」と思ってしまいました。きっと本人は知らないで付けたのでしょうが、崇徳院を知っている人はやはり「可哀想な名前を…」という気持ちになるかと冷や汗

そんな事から、一つ崇徳院について。

崇徳院は実は幕末に意外な形でかかわっています。


まず、崇徳院の簡単な紹介。

崇徳天皇は、鳥羽天皇と藤原璋子の第一皇子として誕生する。一説には崇徳天皇は、鳥羽天皇の祖父にあたる白河法皇と璋子が密通して誕生したと言われており、その為父の鳥羽天皇に疎んじられたという。4歳で即位し、10歳の時、藤原忠通の娘「聖子」が入内し、父鳥羽上皇が院政を開始する。

崇徳天皇22歳の時、父の鳥羽上皇は寵妃「藤原得子(美福門院)」との間に生まれた体仁親王を天皇とする為、崇徳天皇に譲位を迫り、体仁親王が2歳で近衛天皇として即位。しかし、14年後病弱だった近衛天皇は崩御。候補としては重仁親王が最有力だったが、美福門院のもう一人の養子である守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で「後白河天皇」として即位することになった。鳥羽法皇や美福門院は、崇徳院の呪詛により近衛天皇が信じていた。翌年鳥羽法皇が病にて崩御。法皇が崩御すると事態は一変。崇徳院が兵を挙げるという噂が流れ、崇徳院は住まいを脱出。その崇徳院の元に武士が集結するも少なく、結果、後白河天皇方は崇徳院方へ夜襲をかけ、崇徳院は逃亡。これが後に言う「保元の乱」

その後出頭した崇徳院は捕えられ、讃岐国に流罪となる。46歳で崩御死亡

一説には、崇徳院は讃岐国での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒し、極楽浄土を願い、五部大乗経の写本作りに専念して戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められている」と疑い、これを拒否して写本を送り返した。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿となり、行きながら天狗てんぐになったともいう。


しかし、その後の平治の乱で、武家の平氏が政治の実権を握り、更に翌年二条天皇が病死し、写経受取を拒否した藤原信西、更に建春門院・高松院・六条院・九条院後白河や忠通に近い人々が相次いで死去死亡したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年延暦寺の強訴、安元の大火炎、鹿ヶ谷の陰謀と社会が不安定となり、一層崇徳院の怨霊説が意識されるようになった。精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈された。



そして、幕末きらきら

孝明天皇は「崇徳院の怨霊が長州藩等の不逞の輩に味方しない様」に崇徳院を祀る神社「白峰神宮」神社を京都に建立するが、途中で病没死亡。その後明治天皇が「崇徳院の怨霊が、天皇家に敵対する会津藩等に味方しない様」にと白峰神宮神社を完成させた。

つまり、最初と最後で目的が180度変わってしまった神社神社で、崇徳院の怨霊は幕末になってもそれほど恐れられているということ冷や汗