すでにご存じの方もいるのでしょうが、本を読んでて「へぇ~」だったので、ここに。



「ハイワコナコーヒー」押し麦


結構良い値段のするコーヒー押し麦なんですが、ハワイのコナコーストで栽培されているコーヒー押し麦


明治初期、多くの日本人移民がハワイで移住労働者としてさとうきび農園での過酷な労働の後、大規模コーヒー農園主より小さな土地を買ったり借りたりして、家族単位でコーヒー農場をはじめます。



会津藩士の林房之助は青龍隊に属し戊辰戦争を戦い、降伏後は明治3年斗南に移住、この時次男の林三郎は3歳。三郎は青森中学に入学、その後青森県立医学校に入学し首席で卒業。


三郎は医学研究の為、海外留学を望み、青森出身の山鹿牧師を訪ねて上京。明治18年5月横浜を出発し、サンフランシスコのハネマン医科大学に入学。学費を必死で働いて貯め、明治24年医学位を取って大学を首席で卒業した。


卒業後、ハワイHAWAIIに多くの日本人移民がいる事を知った三郎は、会津藩士が斗南で苦労していたのを思い出し、ハワイで開業する事を決意。その後1895年会津藩士の娘河原田マツ(河原田幸助の長女)と結婚。


当時の移民達は土地を借りてコーヒー押し麦を作り、そしてファラライ山やマウナロア山の裾野の丘のあちらこちらにあばらやや山小屋のみすぼらしいものを建てて住んでいた。

また移民達は適当な墓地を持たず犬猫のように埋葬され墓守りもいなかった為、林三郎は新たに日本人墓地を建設する事を唱導し、基地建設委員会を組織、多くの日本人の出費により土地を買い入れ、29年末に公式に北コナ日本人共同墓地お墓が完成し、総会にて永久的財産管理者の一人として選ばれた。また、31年4月には北コナ日本語学校を創立school*


そして、明治18年以来、ハワイに来た官約移民が、契約により彼らの給料の25%を日本総領事館を通じて強制的に京浜銀行に預金されているのを知った三郎は、ハワイ総領事斎藤幹に面会し、コナの日本人が計画しているコーヒー工場建設のために、移民が預金を利用できるか問い合わせたが、官僚主義の前に拒否され、三郎は憤慨し、長い激論の末遂に斎藤総領事も調査を約束、31年総領事から1万ドルをコナのコーヒー農民に返還出来るとの吉報が届き、コナの農民はこれを元に日本人コーヒー精製工場が新設された。


こうして、日本人たちの作るハワイコナのコーヒー押し麦は一人の会津人林三郎の力により大きく成長したのである。




ハワイコナコーヒーは知っていたけど、まさかそこに一人の会津藩士が関わっているとは…。