この所、常盤サマと旧会津藩家老梶原平馬景武の話で盛り上がっているのですが、その中で最近の話題の中心は『梶原平馬がいつ山川二葉と離婚したのか?』で、定説となっているのは「戊辰の頃かその前位」という事で言われています…が、その根拠となるモノが今のところ無いので、それが正解なのかは解らないのですが冷や汗



この数日の二人の話題で真実味が増してきた離婚の時期とは、「明治10年の5月~12月頃」で、まずその理由としてですが、



1(ピンク)柴五郎の「ある明治人の記録」内に明治4年に柴五郎が東京に上京し、山川家に寄宿する事になった時の一文に『山川大蔵方には母堂、姉(妹の誤り)常盤、親戚の梶原景清、永井小太郎あり(以下略)』と、景清の名前は見えるものの、二葉の名前が無いこと。

2(ピンク)梶原景清の子景浩の遺稿集「会津の人」の「祖母(二葉)の歌集」の章内に、
『「子の東の都へ物学びに行く 馬の餞けに」
・おく深く文の林に分け入りて、くまなき月の光りをも見よ
・わけ入らば高嶺の月も終に見ん、麓の道はよし遠くとも
・たらちねのことは思はで学べただ、よし玉の緒のあらんかぎりは
「稚けなき子を物学びに遠くいでたたせし頃」
・竹馬に鞭うつわらは海山の、遠きさかいをいかにこゆらん
この四首は僕の父景清が東京へ遊学した時のものらしい。(中略)明治四年末に浩は上京、同六年三月明治政府陸軍省八等出仕に任官し、恐らく父も叔父に従って上京したのだろう。』
とあり、景浩の想像は兎も角、少なくとも景清一人で東京に遊学の為上京していて、二葉は同行していないのが解る。

3(ピンク)明治10年3月31日の二葉と操の提出した「負傷人看護願」という文書には、二葉が「梶」印を使用している。

4(ピンク)二葉が東京女子師範学校に勤めたのは明治10年の12月13日で、此の頃は多分もう「山川」になっていたと思われる。

5(ピンク)梶原平馬と水野テイの長女「シツヱ」の誕生が明治11年5月とすれば、身ごもったのが明治10年の夏頃?と思われ、この頃にはテイが東京桜川女子の教員をしていた為、平馬は上京していたと思われる。






なので、明治10年3月末時点で、何故「梶」印を使用していたのか、離婚前だったからだとすれば、納得が行く。テイさんが身ごもったのを知って、二葉さんが切れて離婚状を叩きつけたのか、平馬が責任を負ってテイと一緒になる事を選んだのか…??
…などという事を、今地道に検討中なのでありましたきらきら 微妙に会津熱が上昇中上げ上げ

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さて、今日は4月に入ったばかりの新人ちゃん4人に対して午後半日で研修を行いました。大学卒業したばかりで右も左も解らない新人ちゃんに、いきなりシステムの難しい話ししても解らないだろうな…と思いながら指導してました。