今朝、何気なく読んだ新聞記事。

それは、以前の第一審の報道ですでに、私の中で決着がついていたことだったのでショッキングな内容だった。 


それは、東京都の教員が、国旗掲揚、国歌斉唱の義務化を問う訴訟で、東京都高裁が東京地裁の第一審を棄却するというもので、逆転敗訴したという記事だ。

この記事には心底失望させられた。

教育のなかで、生徒の自我や倫理観、道徳観を育成し、他者への理解や自己抑制、行動、思考の内自的決定を十分にできない初等教育の中で、意志決定力の未熟な児童を対象に、国民的な知識として、君が代を教えたり、日本のルーツを教えるために日の丸を与えたりすることは社会性情報領域が拡大した現在、日本という国、アイデンティティーの確立の一側面としての郷愁感などの育成に重要だと思うが、個としての社会性にはその観念としての日の丸や君が代の存在の必要性には懐疑的であるべきではないかと思う。 

つまり、情報として思考の題材として君が代、日の丸という日本を示す記号が扱われることにだけ存在価値があり、あるべきかあらざるべきかを問われれば、その解答自体に必然性はないというのが私の考えである。 
例え、教員であろうとも、公人公僕であろうとも、記号に対する対応に義務を付加する考え自体理解しがたい。


もちろん、パフォーマンスだけで見えない所で舌を出すような強かさが大人として必要であり、それがコミュニティもしくは和なのだと思うが、思考、言論、思想の一時的な制約となる義務という枷になるとするならば、その存在自体に畏怖を感じずにはいられない。 


 学校という狭い職場環境と、教諭という人間性に嫌悪している私個人としては苦笑いしながら、立とうよ、歌おうよって言いたくもなるが、司法決定にはお粗末な記事内容過ぎて、思わず、あらえないだろうと言いたくなってしまった。  


記事の中で、思想やらうんぬんが判断の一つだったみたいだけど、本当に論じるべきはそこじゃない気がするんだよなー。
今年から急激に生活環境が激変し、ブログなどを書き連ねてみる気になりました。

激動の去年までの生活から何の変哲もない、日々ただ平穏なる日常を繰り返し、年を重ねていくことを喜びとし、美しきものを愛で、旨いものを食し、良文を慈しむそんな人生を過ごしたい。

とりあえず、今年は受験勉強に励み、来年にはサクラサク春を迎えるための努力をする。錆付いた脳を磨き、英語の受験レベルまで戻すのに4ヶ月。数学はひとまず受験レベルまで戻せたようなので。国語って現役時代も勉強どんな仕方してたのか、憶えていない。


今年は、見苦しくも、腑甲斐なくも、年甲斐もなく、まわりに迷惑をかけながら夢を追い直してみる。

そんな三十路男の日記。